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鼻ワサビはやった(約束だから)

 ぼくのクラスには貧乏人が二人いる。細柳くんと餓松(うえまつ)だ。
 二人とも、きつく締め上げたビニール傘のようにガリガリで、この前なんぞ、黒板消しをドアに挟んでおいて、開けたら落ちるぞ! というテンションのイタズラを、その痩身ですり抜けて難を逃れた。このとき驚くべきは、二人同時にすれ違ったということだ。
 夏休み直前、恐ろしくほどよく筋肉のついた沼椿先生から、夏休みの宿題と「いじめるなよ、絶対いじめるなよ」との前振りをいただいたぼくたちは、さっそく行動を開始した。
クラスのリーダー的存在・城島「細柳くん、それと餓松。今から、二人の体重を量らせてもらう」
細柳くん「新学期でも、ないのにかい」
クラスのリーダー的存在・城島「新学期でも、ないのにだ」
 餓松くんは物欲しそうな顔をしていた。とにかく何か欲しくて、人をじっと見るのが餓松だ。
クラスのリーダー的存在・城島「今から体重を量り、夏休み後にもまた体重を量る。その時、増えた体重が少なかった方が、罰ゲーム、鼻ワサビだ」
細柳くん「どうしてそんなことを」
クラスのリーダー的存在・城島「言っとくけど、これは、二人のことを考えた上での罰ゲームだ。これから生きていくスケジュール手帳を少しでもぶ厚くしたいなら、そんなにやせこけず、もう少し太った方がいい。いい手帳というのは、電車の路線図とか色々入ってふくらんでいるものなんだ。わかるね。いいか、俺たちは、親切心でやるんだからな。おい、体重計を持ってこい」
クラスのヘルスメーター的存在・倉敷「小学生なので、体重計はないので、保健室に行きます」
クラスのリーダー的存在・城島「よし!」
 ぼくたちは、ぞろぞろ保健室へ向かった。少ない少ない体重を量り、メモらずに解散した。物欲しそうな、餓松の目を無視して。




 ぼくはと言えば、すっかり忘れていた。日焼けして黒くなった肌のように、ぼくの心も夏休み前とはすっかり様変わりして9月1日を迎えたようだった。ちなみに、登校日はないことにした。
 マジカルバナナで言えば、ぼくの隣といったら細柳くんで問題なかったはずだが、そこには知らない太った子が座っていた。転校生のブタがうっかり迷い込んだのかと思い、挨拶代わりに無視して、ついでにブタッ鼻をからかい鳴らしていたら、ブタがこっちを見ている。ずいぶんチャレンジ精神のあるブタだな、と思っていたら、話しかけてきた。
「野村くん、おはよう。久しぶり」
 声は違っていた。でも、話し方でわかった。ブタは、細柳くんその人だったのだ。
 突然、ぼくは猛烈な吐き気におそわれ、気味が悪くなり、目をつぶった。何も見えないし、聞こえない。机に突っ伏し、突如沸き上がったクラスの声を聞きながら、あえて、幼稚園の頃お遊戯の最中におしっこをもらした経験を思い出すことで、脳みそを慌てさせ、暗い闇に自分を沈めていった。
 ガバリと起き上がると、壇上で、ブタと化した細柳くんが、どこでどうなったのか、作文を発表していた。
「『早起きは三文の得』、細柳一良」
 細柳くんは、原稿用紙を掲げ、なぜか誇らしそうだった。その声には、いつもの落ち着きの中に、抑えきれない喜びがハキハキとにじみ出ていた。


「兄ちゃん、待ってよ」
 弟が、後ろから泣きそうな声をあげたので、ぼくはドアを開けたまま待ちました。早く行きたくて少しイライラして、でも弟を待ちます。
 こんなふうに、朝起きるとすぐ、ぼくと弟は朝ご飯も食べずに出かけていきます。
 ぼくたちの行き先は、近所のオリジン弁当の厨房の裏にある、白っぽいプロペラ機械の前です。本当は走って行きたいけれど、カロリーを使わないように、はやる気持ちを抑えて歩いて行きます。
 朝の八時にもなると、八つあるその機械は早くも大回転して、風をゴウゴウ出しています。ぼくはそれを見て、いつも『早起きは三文の得』という言葉を思い出します。なぜなら、その機械が、中のオリジン弁当とつながっていて、おいしい弁当の空気(ぼくたちはこれを、オリジン・エアー弁当と呼びます)を放出するので、それをひとり、いや、ふたり占めできるからです。お店の弁当は食べたことはないけれど、エアー弁当なら、いくら食べてもいいのです。
 突然ですが、うちは貧乏です。貧乏だから、ご飯もあまり出ません。朝ご飯を食べないのは、朝ご飯がないからです。だからお腹が減るし、やせてきます。やせるのはとても恥ずかしいことです。ぼくはいつも恥ずかしい思いをしています。そんな時、二回しか会ったことのない佐賀のおばあちゃんが、弁当屋の裏手に回れ、と知恵を教えてくれました。だから、ぼくと弟と、お母さんは、おばあちゃんにとても感謝しています。ぼくのおばあちゃんも、がばいばあちゃんなんだな、と思います。
 ぼくと弟は、夕方までオリジン弁当の裏にいます。拾った新聞紙を広げて、二人で寝転がります。夏は暑いけど、風が吹いているのでまさに一石二鳥です。そこで何をしているかというと、大森くんが、
藤子・F・不二雄全集を買うから、古いのをあげるよ」
と言ってぼくにくれたドラえもんのマンガを読みます。大森くんには、ありがとうと言いたいです。油断をしていると、せっかくもらったマンガが吹き飛ばされそうになるので、しっかり持っていなければなりません。マンガを読んでいる途中、口と鼻いっぱいに風を吸い込むと、今、中で酢豚を作っているな、ということがわかります。ぼくは、酢豚が大好きです。
 毎日、そこでマンガを読んでいると、ぼくと弟は少しずつ太ってきました。8月10日の朝、プール道具を持った橋本くんとすれ違ったけど、橋本くんは気づきませんでした。8月15日の終戦記念日、田舎へ帰る工藤さんと家族と目があったけど、気づきませんでした。弟の同級生も、ぜんぜん気づきませんでした。
 ぼくはなんだか、生まれ変わったような気がしました。毎日、がんばって早起きをして過ごしたおかげで、新しい自分になれたような気がします。だから、早起きは三文の得と言うけど、三文どころの得じゃなかったなぁ、と思いました。それをお母さんに言ったら、お母さんは、ウフフと笑って、
「本当にその通りね」
と楽しそうにして、弟も太った体をくねらせてはしゃぎまわって――




 細柳くん、君はなんて、世界で一番不健康な太り方をしたんだ。ぼくは夏休み前の出来事をありありと思い出し、餓松を探した。餓松は、給食がないのが相当こたえたのか、夏休みの間さらに痩せ細って、もう肉眼では見えなかった。ただ、そこに物欲しそうな目があるのを感じるので、いることはわかった。
 細柳くんは時々、何もない餓松くんの席を見ては、優越感に満ちた顔を浮かべ、ぼくはそのたびに吐きそうになった。
「ぼくは、酢豚が、大好きです」
 細柳くんがゆっくりそう言って原稿用紙をカサリと閉じた時、大きな拍手が一つ、飛んできた。
 沼椿先生は感動のあまり涙をこらえているのか、口をハの字にしきりにうなずきながら、ぼくたちに拍手を促すように、とても強く、二つの手を打ち付けていた。
 忌まわしくおぞましい何かに満ちたその音を、ぼくは一生忘れないだろう。