『ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー/野崎孝 訳

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
 

 

 あちこち出掛けて、博物館や郷土資料館があると必ず入ることにしている。高校生ぐらいからそうで、知識もまばらだったその頃に見たことなんて実際ほとんど覚えていない。松戸市立博物館の常盤平団地の展示とか、小さい頃の記憶が鮮明に甦って驚くこともあるけれど、大体は展示内容なんて記憶にないまま変わったスロープや階段とか、動線だけ覚えていたりして、来たことあるなとだけ思う。
 今でこそ、どんな順番で見るかなんて展示物ですぐにわかるが、そんな頃はめちゃくちゃだったろう。今でも、平日に体が空くのをいいことにのんびり見ていると、新たに入ってきた身なりの整った比較的若そうな老夫婦が、甕棺墓の埋葬方法を興味深そうに見たあとで後ろを振り返って、本来ならその部屋を時計回りにぐるっと回った後でたどり着くはずの大和絵を腕組みして眺め、そのまま反時計回りにぐんぐん時代を遡ってきたのとすれ違うなんて場面にはざらに出くわすが、そんなものである。自分も門外の出されるところに出されれば、似たような動きをしてしまうだろう。
 こうした博物館や郷土資料館は、もちろん学術を基準とした展示だから、多くの人々にとってはっきり言えば退屈なものとなっており、見ていると皆どんどん素通りしていく。つまり、ほとんどの人には興味の持ちづらいものが広く展示されている。そんなものだろうと当然のように受け取られるが、これは我々が恵まれているのであって、別に当たり前のことではない。

 ベラルーシ各地の郷土史博物館の類を見学すると、全体の三分の一か、下手をすると半分近くは独ソ戦に関する展示と相場が決まっている。一般国民の歴史イメージは、だいたいこれに相応しているのではないか。歴史といえば、ナチスの侵略と蛮行→パルチザン戦と勝利→戦後復興という筋書きであり、それ以前のクリヴィチだ、大公国だといったことは吹き飛んでしまっている。

(服部倫章『不思議の国ベラルーシ ナショナリズムから遠く離れて』p.56)

 委託先一つで学術に背を向ける図書館だって出るように、人の意識で何もかも変わってしまう。届かぬことは無しにするのが人の意識だ。忘却だって使いようとはいえ、こうした種類の忘却は虚しい。
 本来、博物館の全てに行き届くほどの意識というのは人に無く、それぞれに向けられたそれぞれの人の意識がその場の広さに応じて一堂に会し、公共の名のもとに場を譲り合い、あの静かな空間を作っているということを忘れてはならない。
 また、それを見るための知識によらず、誰もが入れるのが公共施設というものだ。もちろん、数百円払えれば貧富も何も関係なく、ドレスコードだってない。
 岩宿遺跡を発見した相沢忠洋は、浅草の履物屋での小僧奉公をしていた十二歳の時、初めてひとりで上野の博物館を訪れた。それまで「私のような者が行く所ではないような気がして、そのときは塀ごしに見ただけで帰ってきてしまった」こともある中、ある日に思いきって出かけ、「私のような格好をした者は一人もなく、みんなきれいなきものや服をきているので気が引けたが、勇気を出して建物の中に入った」とある。

 先日、自分は一年ぶりに栃木県立博物館を訪れた。螺旋状に上がっていくスロープの途中、当地の代表的な自然を一目で把握できるようにしたジオラマがある。右ではノウサギが茂みから飛び出し、左では鹿の親子が向き合っている。手前の子鹿は首をのばして奥の母鹿を見上げ、母鹿は子を見下ろしつつ、その先――つまりはスロープを上ってきた自分のいるこちらへ気を配っているようだ。一年前に見たままである。
 そのジオラマの鹿で、本書を思い出したのでこんなものを書いている。
 ホールデンは小さい頃に先生に引率されて何度も訪れた自然科学博物館の、いつも変わらぬ姿に思いを馳せる。

 いやあ、あの博物館にはガラスのケースがいっぱいあったなあ。二階へ行けばまだあって、水たまりの水を飲んでる鹿が入ってたり、鳥の群れが冬を越すために南へ向かって飛んで行くとこを納めたケースもあった。見物人に一番近いとこの鳥は全部剥製で、針金でつるしてあるんだけど、奥のほうのはバックに絵を描いただけなんだ。でもそれがみんな、本当に南に向かって飛んでるように見えるんだ。でも、もし頭を下げて、下から鳥を見上げるみたいにすると、それがいっそう急いで飛んでるように見えるんだ。でも、この博物館で、一番よかったのは、すべての物がいつも同じとこに置いてあったことだ。誰も位置を動かさないんだよ。かりに十万回行ったとしても、エスキモーはやっぱし二匹の魚を釣ったままになってるし、鳥はやっぱし南に向かって飛んでるし、鹿も同じように、きれいな角とほっそりしたきれいな脚をして、あの水たまりの水を飲んでるはずだ。

(J・D・サリンジャーライ麦畑でつかまえて』p.188)

 こんな場面も、博物館に何度も訪れてそれを見るという経験がなかったら、そこまで感興をそそられるかわからない。そのぐらい、そこでしか生まれ得ない感情が詳らかに語られている。
 このあとでホールデンは、何度行っても変わらない展示の中のものたちに対して、見る方は行くたびに変わっていることに言及する。それによって何が示されようとしているかは目下の考え事なのでここで詳しく書かないが、いわば公共の場に置かれるようにして小説に書かれる感情が、言葉ではなく記憶とともに実感できるというのは、読み手にとって深い歓びであるのは間違いない。

 何であれ、こうした私とつながる瞬間のために公はあるのだろう。公共は対置される概念である私や個に恩恵をもたらすものであるべきというのが公益の考え方で、もちろん、博物館もそのような目的でそこに建っている。
 歴史や郷土のために貴重で意義深いものが保存されているというだけではなく、同じものがいつもその形でそこに置いてあるということがどんな理由であれ個人に何かを思わせる、それだけで公益だと多くの人が考えられるような社会であるといい。いつ来て何を閃くかもどんな感慨にふけるかもわからない個人のために、博物館はひらかれているのだ。
 相沢忠洋は、一家離散の上に奉公に出されるというつらい身の上の中でひとり大事に集め、築き上げてきた私を、個を、博物館の中に見出した。それを受けてさらに育まれていった彼の知見によって初めて関東ローム層から発見された打製石器は、今、岩宿博物館のガラスケースの中に収められている。彼が初めて上野の博物館を訪れた時の続きを載せておく。

 最初のへやに入ると、ガラスの大きなケースに、埴輪や大きな土器があった。
 順路にそって見ているうちに、私は自分の目をうたがうくらいおどろいてしまった。自分が、コウリのなかにもっているやじりや斧とまったく同じ形をしたものが、この立派な博物館のなかにいくつも並べてあったからだった。
 私は息をつめて凝視した。
 石斧や土器を初めて手にしたときの鎌倉でのことや桐生でのことが、走馬燈のように頭のなかで回転するのだった。
相沢忠洋『「岩宿」の発見』p.54)

 

不思議の国ベラルーシ ナショナリズムから遠く離れて (岩波オンデマンドブックス)

不思議の国ベラルーシ ナショナリズムから遠く離れて (岩波オンデマンドブックス)

  • 作者:服部 倫卓
  • 発売日: 2018/01/11
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて (講談社文庫)
 

 

『声と日本人』米山文明

 

声と日本人

声と日本人

  • 作者:米山文明
  • 発売日: 1998/02/01
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

 

 何か創作したいと思って、まず人はその創作物から学ぼうとする。映画から映画を、マンガからマンガを、小説から小説を考える。そして、絵画からマンガを、演劇から映画を、お笑いから小説を考えたりする。もちろん、世界に生み出された作品の数を考えればそれだけでもきりがないのだけれど、世界はそれよりもっと広いのだから、創作物から創作物について考えることすら、せせこましい気もしてくる、だんだん。
 いくとこまでいった人ほど、その枠を越えたあらゆるものから自分の分野に資するものを得るのに貪欲だという傾向はありそうだ。世の人はそこへ能動的に学ぶ姿勢を見出して感心したりするが、年がら年中一つのことについて考えているから、触れたもの全てをそれに繋げて考えてしまうだけというのが本当に近いと思う。
 逆に言えば、異分野から学び考えることができないのは、年がら年中そのことについて考えられないある種の未熟さを表すと言えるかも知れない。もちろん、そのあることで何者かになりたいと思っているなら、だけれど。

 異分野のそれとは自分に加える変数みたいなもので、奇特なものだろうと別に構わないが、あんまり好き勝手にやっても、外れるのはいくらでも外れられるのだからつまらない。個人的な意見として、例えば小説について考えることが野放図にならぬよう、一方に文学史や理論があり、自分が有象無象から学ぶべきものを大きく選りわけてくれている気がする。その知識が、縁遠いと思われる異分野に広く目を配る時の命綱となる。
 どんな分野でも、そんな感じで使えるものは何でも使おうと、いやな言い方をすれば「役に立つもの」を渉猟していくわけだ。そうやって桑田は古武術を学ぶ。その師である甲野善紀も、まあ快く思わない人もあるだろうが、自分の技を「役に立つもの」として積極的に他分野へ広めている。
 本書にも「人体を使って表現するあらゆる行動で、呼吸はその原点になる。各種スポーツ、芸術、その他における例は枚挙にいとまがないほどである」(p.40)と書かれ、あらゆる分野の人々がその専門家である著者を頼ってくる様子が豊富に紹介されている。
 自分がこんな本を読むのも、「役に立つもの」かも知れないという期待があることは否定できない。ふつうは今の引用中の「人体を使って表現するあらゆる行動」の中に文学を含めたりはしないかも知れないが、自分は含める。だからそのまま活かすことができると都合よく考えるし、そうでなくとも、転義法が全てを学びに変えてしまうということもある。

 人間にとって「生きる」ことは「呼吸(イキ)」ることである。息を吸う吸気によって大気中の酸素の多い空気を体内に取り入れ、体内で不要になった血液中の老廃物を息を吐く呼気として体外に排出する。そしてその排出するときの呼気流と呼気圧を利用して「声」をつくる。この発声をする際の呼気と吸気をいかにうまく、効率よく使いこなせるかという点が最も肝要でしかも難しい課題になる。呼吸は「声」にとって根源的な役割をはたしており、呼吸がなければ声も生まれ得ない。声は排出する不要のガスのリサイクルである。

 (p.26)

  転義法とは、こういうものを読んで、いとも簡単に次のように考えることができるということだ。

 人間にとって「生きる」ことは「書く」ことである。言葉を知ることで世界を認識するための新たな情報を取り込み、その意味では不要になった老廃物を文字として体外に排出する。そしてその排出するときの圧力を利用して「小説」をつくる。「小説」は排出する不要の言葉のリサイクルである。

 突飛なことで筋も通ってるんだかないんだか、何言ってるんだと思われるかも知れないが、この文章を読まなければ、およそ思いつかないようなことであるのは間違いがない。正しいとか正しくないとか、そんな問題ではない。
 およそ自分を喜ばせる新しさとは、何言ってるんだと思えるけれど関連がないとは言いきれないような何かでしかなく、それは、こうした無理筋の転義法の中で、それ以上解釈の難しい文章そのままの形として多く収穫される。もちろん、元々の文章そのものが興味深いものでなければそんな気も起こらないのだけれど、実際、自分は上の文章について考え続ける意義があると思っている。

 本当はそれぞれがこういう少しでも変わったことをどんどん考えて共有していかなければならないと思うが、大半の人が取り組んでいるような創作物から創作物について一生懸命学ぶ方法では、こんな幸運はほとんど起こらないということは、僭越ながらよくわかっているつもりだ。自分も以前はそんな風だったから。
 でも、そんな風だった長い時を経なければ、こんなことが自然に行えないことも知っている。じゃあその長い時の道筋はどうであったかということも、転義法を好き放題に用いれば、本書の中にヒントが書いてある。
 例外的な境遇は除いて、小説が別に誰にでも書けるのは、歌が誰にでも歌えるのと似ている。しかし、その先で「何者かになりたい」と思うとして、「何者か」と「そうでない者」の違いがどこにあるのか、「才能」と「努力」と呼んでしまっているものをどう捉えるのか。何より、その根本となる「どのように言葉を取り込むのか」について、次の文は多くのことを示唆してくれるだろう。

 呼吸の方式は前述のように胸式と腹式に大別され、安静時(声を出していないとき)の呼吸では胸部と腹部はほとんど同時に動く。これを等時性(synchronism)という。このときは胸郭と横隔膜とはほぼ同時に動いている。ところが発声時(話すとき、歌うとき)には同時に動かず、瞬間的なズレが起こる。これまでの内外の研究を要約すると、特に歌う場合、熟練した歌手では腹部の動きと横隔膜の動きが時間的にずれ、同時に動かない。腹部と横隔膜だけでなく、胸部と腹部も非等時性が顕著になるといわれる。
 歌うとき、話すときには非等時性がある方が有利だということになる。ある程度パターンのきまっている横隔膜の動きと、かなり複雑な動きの可能な補助呼吸筋すなわち腹筋群(腹筋、背筋、骨盤筋、臀筋、その他)とが同時に動くのは未熟な歌手の証拠だということになる。
 まとめてみると、発声時に望ましい呼吸とは
①腹筋周辺の動きと横隔膜そのものの動きとは非等時性がある
②胸部の動きと横隔膜そのものの動きとはほぼ等時性がある
③胸部の動きと腹部周辺筋群の動きとは非等時性がある。
ということになる。
 発声のための呼吸訓練をする上で肝要な点は、横隔膜そのものの訓練だけではなく、意識的にコントロールしやすいその周辺の補助呼気筋群その他を使って、間接的に横隔膜の動きを自分の意識下のコントロールといかに結びつけられるかということである。
(p.37)

 

声の呼吸法-美しい響きをつくる (平凡社ライブラリー)

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  • 作者:米山 文明
  • 発売日: 2011/03/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

古武術に学ぶ身体操法 (岩波現代文庫)

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  • 作者:甲野 善紀
  • 発売日: 2014/03/15
  • メディア: 文庫