ワインディング・ノート24(『IMONを創る』・いがらしみきお・人間関係)

 GーIMONとはなにか。
 我々にとって儀礼というものは、意味の記号化という、ファイル圧縮であった。つまり、リアルタイムの項で述べたところの、あのファイル圧縮である。
 我々は年始の挨拶を年賀状という形でファイル圧縮して処理するし、日ごろのお礼というものもお中元でファイル圧縮するのである。
 でないと、5月になってもまだ鹿児島県にいる知り合いのところに年始の挨拶に行っているという事態になるし、10月という中途半端な季節だというのに、長野県あたりでまだ、日頃のお世話のお礼を言いに行っているというありさまになる。
 このように、GーIMONは我々がリアルタイムに生きる術をつかさどっている。そして、これまで、GーIMONはIーIMONよりはネガティブな存在として語られていたのではなかったか。なぜならば、GーIMONこそ、文化という意味の敵であり、原動力であったからだ。
 我々は「楽しい」と言う。
 そして我々はいつかそれに必ず飽きるだろう。これらのメカニズムこそGーIMONのファイル圧縮機能によるものだ。つまり、"楽しい" もファイル圧縮されれば、ハイそれまでヨの運命であるということ。
 よって、恋人たちは別れ、夫婦は倦怠期を迎え、老人は眠ることだけが楽しみとなり、漫画家はいつしか売れなくなる。


 我々は、リアルタイムを生きる上で、「GーIMON=儀礼的思考」という技術を使っているという指摘です。
 SNSやLINEでつながってしまう現代においては、圧縮の必要すらなくなります。日頃のお礼は日頃からできるものになることで、リアルタイムに生きることを困難にさせます。我々は、儀礼を使えなくなりつつあるのです。
 こうして、リアルタイムで生きなければいけない人類のリアルタイムはどんどん生きづらくなっていきます。だから、リアルタイムだけでは足りないのです。

 GーIMONは、"楽しい"だけではなく、"悲しい"や"つらい"にも強力な処理機能を発揮するはずであるし、事実、巧まざるしてそうなってきているだろう。
 そして、そういうGーIMONの処理機能は増大化し、普遍化しだした。それが現代というものである。
 その結果として、思いわずらうことなく乙女はゴルフをし、思いわずらうことなく男子はファッションに身をやつす。
 そして、GーIMONが苦手とする分野である、IーIMONの中核をなす、恋愛と宗教と快楽ばかりが生き残るという結果になっているのが現代だろう。
 それは憂慮すべき事態か。そうではない。だから、絶望感などというものは、安心してGーIMONで処理しなさい。


 ここでいがらしみきおが言うのは、圧縮して情報化・記号化できてしまうものは軒並みされてしまって、後はそれを消費するのみになるということです。『IMONを創る』から10年後に出版される東浩樹の「データベース消費」とも対応します。

 前回は、我々の中にあるOS、意味のIーIMON、儀礼のGーIMONについて説明した。
 このふたつは、以前述べたON、OFFの二値のようなものである。IーIMONから生まれ出た形は、すかさずGーIMONによって定型化され、処理される運命にあるからだ。
 ヒトは、"わけのわからないもの"こそオモシロイという。しかし、その"わけのわからないもの"さえも、発生したあとすかさずGーIMONによって"わけのわからないもの"という形容詞に定型化され、くくられてしまうのだ。
 我々は結局GーIMONから逃れられない。サラ金の取り立てとか、千代の富士に左上手を取られたとか、グリーン前に池がある、とかだったらまだ逃げ道もあるんだけどね。
 そして、IーIMONとGーIMONには必ず誤差が存在する。我々がなにかの感情を伝えようとするとき、言葉にしたとたんに、「ちょっとちがうな」といつも思ってしまうのはこのためである。
 このように、IーIMONとGーIMONのズレに悩まされながらも我々は何事かを伝えようとすることをやめない。
 そして、それこそがワタシが言う「人間は情報処理を使命としている」という理論の根拠なのだ。


 この後、昔は意味と儀礼のメモリーが膨大ではなかったため、あらゆるところに存在したルールに、それほど疑問を持たずにすんでいたと書かれます。そして、現在はそうではなく、メモリーは増大し、脳という記憶媒体に収まらなくなった、と。
  僕がこの本を初めて読んだのは大学1年の頃ですが、再読してみて、全く損なわれていない説得力は、別にこれがきちんとした手続きを踏んだ哲学であったこと はわかっていたので驚きには値しませんが、横溢する語りとふざけきった註(ここには書きません)が現役であることにとても驚いております。

 我々はメディアによって、溢れるばかりの"意味"と使い切れないぐらいの"定型"を持つことになった。
 かくて我々は、膨大な意味と定型のデータの、それぞれがつながれるべき、定型と意味を検索するという気の遠くなるような作業にあきれ、とうとう「どうでもいいんじゃなーい?」という定型の切り札でトドメをさすことになる。
 いや、ワタシは"どうでもいいんじゃなーい?"を批判しているのではない。たいがいのことは、ホントにどうでもいいことなんだからそれは正しいのである。
 問題は、このままでは世の中がどうでもいいことばかりになってしまうのではないかという、3歳児的な恐怖感である。
 それは「このまま人間が増えていくと、そのうち日本中がお墓だらけになってしまうんじゃないかー」というようなものかもしれないとしてもだ。なにが「どうでもいいんじゃなーい?」という言葉を吐かせるかというと、それはGーIMONのなせる技である。
 メディアによって、IーIMONはドンドン拡大されるが、GーIMONはそれ以上にIーIMONを浸食し、バンバン強力になり、すべてのIーIMONを記号化してしまう。大概のことが"どうでもいい"ことならば、我々にこの先やるべきことが残されているのだろうか。


 1990年のいがらしみきおは、こう問いかけたあと、パソコンもまた"すでに"退屈になりつつあると言い、それを人間にも適用します。

 我々の新しい使い方を誰も指し示してはくれないまま、我々もこのまま退屈な生き物になってしまうのだろうか。
  我々の新しい使い方のカギはGーIMONが握っている。GーIMONとは、儀礼と定型だけではなく、表現というものすべてを司るものなのだ。マンガ家は IーIMONで考えたことをGーIMONで表現し、映画監督もIーIMONで考え、GーIMONで映画を撮る。それでは一般のみなさまにとってのGー IMONとはなにか。そして表現とは。それは"人間関係"のことだ。わかんない?
 さて、"マルチタスク"の項は今回が最後である。
 前回は"一般のみなさまにとってのGーIMONとは、表現とはなにか"というネタフリで終わった。
 つまり、マンガ家や、そのほかのいわゆる"文化に携わる方々"は、IーIMONで考え、GーIMONで表現するのだが、一般人にとってGーIMON、または表現というものがどういう意味を持つのかということ。一般人にとって表現すべきことはあるのか。
 結論から言おう。一般人にとって、"人間関係"こそがGーIMONによって表現すべき対象であり、フィールドになったのではないか。
 すなわち、"人間関係"は、ここにきて"作品"になるということだ。
  前回ワタシは、かつての我々にとって、ご家庭、ご近所、ご交遊、お社会様とのおつきあいに異質なものが入り込む余地は少なかったと言った。しかし、我々が メディアという膨大で種々雑多なGーIMON情報に取り囲まれることによって、シンプルなかつての"おつきあい"というGーIMON情報にも、混乱をきた した。
 誰かに「ありがとう」と言われれば、「コイツ、ホントにそう思ってるのか?」とか、「コレあげる」と言われれば、「何か売りつけるつもりだろう」とか、「ばかやろー!」と怒鳴られれば、「ふふ、オマエよりはバカじゃねえよ」とか。
 結局、我々はひと筋縄ではいかなくなったということなのだ。
 ひと筋縄ではいかなくなったからこそ、戦争という、結果が見えてることをやらなくなったのだが、片一方で、ひと筋縄ではいかなくなった者同士の人間関係は、ご家庭で、ご近所で、ご友人の間で、そしてお社会様の中で混迷を極めることになる。
 近年クローズアップされてきた"人類の問題"として、原子力の危険、環境破壊の問題などあげられるが、誰も"人間関係"などとは言い出さなかった。こんなこと言うのはIMONだけである。
 なぜならば、人間関係はあくまでも個人で解決すべきパーソナルな問題だとされていたからだろう。
 しかし、原子力の危険にしろ、環境破壊にしろ、それらはハードの問題なのだ。我々個人がクーラーを使うのを控えたり、ヘアスプレーや割り箸を控えたからといって改善される問題ではないことをワタシは断言しておきたい。
 ハードの問題はハードで解決するしかないのである。カネがないのと同じである。カネがないから節約しようってんでしょ?


「"人間関係"は、ここにきて"作品"になるということだ」
 この言葉を絶えず反芻しなければならないという胸騒ぎも、僕としては10年目になりました。この本が、良くも悪くも、僕の"人間関係"にどれほどの影響を与えたのか、想像するとちょっと怖くもなりますが、続きます。

 

 

ワインディング・ノート23(『IMONを創る』・デカルト・太宰治)

 みなさんも不安だろうから、ワタシはひと思いに言ってあげよう。我々は"正しいこと"なんかできはしないのだ。できるのは"すべきである"決断と行動という情報処理だけである。そして、その結果が正しくなかったとしても、我々はリアルタイムであることをやめてはならないだろう。 それに続く"すべきである"決断と行動という情報処理を、継続するしかない。いかなる問題が起ころうとも、"しない"ことによって解決しようとしてはいけ ない。常に"する"ことで解決するしかないのだ。やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!


 つまり、リアルタイムであることの本義とは、「やるしかない、やめるな、一生やれ、なんでもやれ、ほっといてくれ」なのであります。
  「決断と行動という情報処理」をするのは当人、もしくは大きな総体としての人類なのですから、やるしかないし、やめるわけにはいかないし、一生続けなく ちゃいけないし、なんでもやらなくちゃいけないし、ほっといてもらうしかないのです。ほっといてもらうのは、決断や行動について何を言われたところでやるしかないしやってしまうのだからという意味でしょう。
 デカルトは言ったじゃないか。「選択肢があった場合、より成功しそうなことを選び、一度決定したことには従う」のだと。
 これは「"すべきである"決断と行動をやるしかない、やめるな、(決断と行動を)一生やれ、なんでもやれ、ほっといてくれ」と同じことです。
 さて、リアルタイムについてはおわかりいただいたと思います。
 次はマルチタスクです。

 それでは今回からは"マルチタスク"について語ろう。マルチタスクは前回まで語ってきた"リアルタイム"と対になっている。
 生き物が情報処理を務めとして生きるのなら、まずリアルタイムであらねばならない、ということはもう言った。そして、リアルタイムであるのならば、マルチタスクでなければ意味がないのだ。
 逆に、マルチタスクを実現するのならば、リアルタイムでなければ不可能でもある。我々は膨大な情報を処理して生活を営んでいる。
 たとえば、会社に遅れそうだとしよう。遅れそうならば、一番合理的な交通手段についての考察というものが発生するわけだし、万が一、遅れた場合の上司に対しての言いわけも考えなければならない。
  そして、情報はそれだけではない。ガスの元栓は閉めただろうか、ドアにカギはかけただろうか、このババア、邪魔だぞ、どけ! とか、昼飯代はあったかなとか、だから3時まで『オーガスタ』やってたりしなけりゃよかったんだとか、それと同時にババアを罵ったり、子供を突き飛ばしたり、すれちがった若い女の顔を一瞬のうちに品定めしなければならないわけである。


 この本は、というかいがらしみきおは、具体例の描写がよくできたスナック菓子のように軽やかにわかりやすく面白いのがすごいのですが、それと同時に『オーガスタ』で相当に時代を感じます。が、ともかく続けましょう。
 造語も多いので説明が大変ですが、大変なことはしたくないので、できるかぎり引用したいと思います。人の文章を書き写すというのは、気分が乗るのであれば、実に悦楽的な行為です。そこにおぼれつつ、検索しても言及1つ満足に出てこない歴史に埋もれたこの本の意義を伝えるということに重きを置こうと思います。

 さて、我々が実際にマルチタスクする場合、その複数のタスクがどういう順序と序列で処理されているかというと、第一に意味によってであり、そして第二に儀礼によって処理されているのである。
 これは我々の現在のOSというものが、意味と儀礼によって構成されているというよりも、意味と儀礼という、場合によっては矛盾し、バッティングするふたつのOSがあるのだと言える。
 意味の中には、快・不快などの感情である個人的側面がすべて含まれ、そして儀礼の中に、我々の"いやでもやらねばならない"という社会的側面が含まれている。
 そういった意味で、我々のOSはマルチOSであるし、IMONがマルチOSであらねばならないことの理由もそこにある。
 問題はこのふたつのOS(以降、意味のほうをIーIMON、儀礼のほうをGーIMONと呼ぶ)がうまく切り離されていないことであり、また、うまく連携されないところにこそ、あるのではないか。
 我々は、GーIMONで情報を処理すべきときも、IーIMONを持ち出してしまっている。
「ありがとう」と言いつつも、「誰もやってくれなんて言ってないじゃないか」などと思ってしまうのだ。
 そしてまた、IーIMONで処理すべき情報にもGーIMONを持ち込んでしまうだろう。
「うーん、いい絵だ」と言うそばから、「38万円か。クルマの頭金にしたほうがいいよな」と、思うのである。


 意味と儀礼が出てきました。
 ここで、太宰治を思い出してもらえるなら僕はうれしく思います。

  それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞讃を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。
 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。
 新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。
 友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。


 太宰は、意味と儀礼の狭間で苦しんでいます。前に書いている時は、慣習という言葉を使っていた気がしますが、それこそが儀礼です。それでも、作家であるとは、意味の方に寄り添うということでもあるのだから、作家と呼ばれる人は、遠慮せずそれだけやっていればよいのです。人間関係もやろうとすると、太宰みたいなことになるのだから、そんなもの片手間にちょちょいとやって、大人しくのたれ死ねばいい。手塚のように。
 それにしても、太宰の苦しみを、いがらしみきおはなんて即物的な言葉で説明してしまうのでしょうか。
 なら、太宰はどうやったら生きながらえていたのか。それは以下のような箇所にヒントがあるかもしれません。

 我々はマルチタスクでなければいけない。なぜならば、シングルOSの場合、一度ループにはまり出すと際限もなくループしてしまうからだ。
 プログラムの世界では、こういう場合の救済手段として"ジャンプ処理"という手を使う。
 そして、ループ状態を救う最良のジャンプ処理こそ"マルチタスク"なのである。
 意味をIーIMONで処理する場合、うまくいけば我々は、幸福感と言えるものを味わえる。しかし、意味をIーIMONだけで処理しきれなくなった場合、これはほぼ確実にループ状態に陥り、絶望感というものをシコタマ味わわされることになるのだ。
 そうした場合に、その絶望感というものを、GーIMONに処理させてみてはどうか。
 絶望感をGーIMONに処理させれば、「あぁ、みっともないな。大のオトナが」という客観性が生まれるだろうし、場合によっては「ハラへったな。とにかくメシ食おう」になるかもしれない。
 はなはだしく効果が上がる場合だと、「わははははははははは」で、すべてはカタがつくだろう。ワタシはなぜこんなに楽観したことを言うのだろう。それは、GーIMONというものが、以下のごとく強力なOSだからである。


 なるほど、デカルトは言ったじゃないか。「住んでいる国・地域の法や慣習に従う」べきだと。
 慣習や儀礼に、意味を考えずに従えば、ひとまず意味からは逃れられる。
 しかし、自分で書いておきながらなんですが、これは、太宰のような一筋縄でいかない人間には適用はできないかもしれません。太宰はすでにその真摯な実践者でもあったのですから。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
(「葉」)


 これは見事なGーIMONによるジャンプ処理です。こういう自発的な思い込みの言い聞かせは、作家にとって人工呼吸器のようなものであったでしょう。
 太宰はどうあがいても作家であり、もう八方ふさがりの破れかぶれのフツカ酔いであったので、手の施しようはなさそうです。小説なんかを書いていなかったらもっと早死にしていたにちがいない。作家というのは、文科系の不良とは、かようにどうしようもないものなのです。
 と例外をさらして説得力を減退させつつ続きます。

 

晩年 (新潮文庫)

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