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陽子(人生はゴムの味)

「灯油~ 灯油 ハンパな量でもオーケーです リッター単位で計算させていただきます」

 町内に響き渡るその声。なんと明朗な、感じのいい美声であろうと陽子は思った。その心地よい調子によって全てのアレルゲンが除去されていったように思えて、陽子は電子レンジのあたためを止めた。ハクビシンは温まりながらまだ生きていた。
 生き死になぞ単なる偶然。その偶然を排除しようと血の通わないシステムを完成させようとする人間に未来はあるのかといえば当然ない。
 主にネット上での「コージー富田のアンチ活動」に使用するノートパソコン。それを載せる机代わりにしているところのポリ容器。それを持って、陽子はアパートの部屋を出た。ポリ容器は一面、黄色のポスカで塗られていた。また、陽子の部屋の21型ブラウン管テレビも、前面が半分ほど黄色く、その変わり目がかすれたようになっている。そこでインキが尽きたのだ。
 なにはともあれ、陽子の胸は弾んでいた。あの若人の爽やかな声の震えを顔いっぱいに受けることができたら、濃厚なチーズを食べたように毛穴が開き、明日への活力を得ること請け合い。
 そんな確信と期待を持ちつつ、陽子はアパートの3階から植え込みの上にポリ容器を、下も確認せずに落とした。そしてから自分は悠々と階段を降り、再び拾う。レンジにはハクビシン。こうして動植物と密に関わりながら知恵をたくましくさせ、人間としての尊厳を高揚させているのだ。

「灯油~ 灯油のご利用はございませんか 安心と信頼を第一にご町内をまわっております」

 ポリ容器を持って小走りする陽子に灯油屋は気づかず、相変わらずのうっとりするほどの美声を響かせながら徐行していた。
 容器が黄色いせいだろうが、この理不尽な仕打ちを受けても、恋心にも似た情念を胸に生じている陽子は、いやな顔一つ見せずスピードを速めた。学生時代は国体に出場したこともある陽子の足は、年齢を感じさせないほど細くしなやかで軽やかに回転した。
 あっという間に追いついて車内をのぞきこんだ時、陽子は叫び声をあげ、乙女のようにポリタンクで口元を隠した。
 なんと、予想に反して、不潔なヒグマのようなヒゲ面の大男がハンドルを握っていたのである。
 車が停止し、灯油屋の男が出てきても、陽子は立ち尽くしていた。
 黙って男が出てきた。頭にタオルを巻き、ウインドブレーカーのようなものを着ている。自分を見下ろしている男の迫力に負けて、陽子は口を開いた。
「0.5リットル、いただけますか」
 陽子は石油ストーブを所有していない。灯油などあってもしょうがない。ただ、それぐらいあれば、小さめのボウルに灯油を満たし、ハクビシンと一緒に電子レンジに入れてみてもおもしろいかもしれないと咄嗟に思ったのである。
「リッター単位なんですよ」
 放送と同じ言葉が聞けたというだけで多少の嬉しさが豊満な胸にこみ上げかけたが、その無愛想な声は、今も聞こえている放送の美声とはまさに月とスッポン。陽子はカセットテープの音声に欲情してしまったのである。しかし、そんなことは恥ではない。陽子を笑える人間などいるはずもない。
 男は真顔で陽子の返事を待っているようだったが、全く何も考えていないようにも見えた。ハチミツ二郎。黄色く濁った細い目は、認識した像に対して、何の思考も感性も働かせていないことを如実に示していた。
 陽子はレイプされると確信した。今まで何度もそう予感したことはあったが、生まれて初めて完璧に物事を理解したように思え、ある種、鮮烈な気分におそわれていた。そして、事実ものの数分後に陽子はレイプされてしまったのである。

 それはトランクに詰め込まれ山頂から蹴落とされるような荒々しいレイプだったと聞いている。たちこめる灯油の香りだけが車内に無用な清潔感を醸し出していた。もう少しで引火し車ごと炎上してしまうのではないかという、真に荒々しいレイプ。冗談でなく、陽子の死という最悪の結果をもたらすほどの苛烈さを持っていた。
 陽子がレイプされ、他の人々が働いたり夕飯の準備をしていたりする間に、日が暮れた。彼女は近くの小さな公園のベンチに座った形で捨て置かれた。人気ない年始の寒空の下に放り出された陽子の躰の元に、どこからか警官二名がどこか冷淡な歩調で歩み寄ってきた。
「ちょっといいかな」と一方が陽子に声をかけた。
 死人に口なし、返事はない。警官二名はLEDポケットライトを陽子のむき出しの下半身に容赦なく集めた。生前、その美貌とスタイルから、惨めかつ低俗で霊験あらたかな噂の引き金になることしかなかったが、その引き金は生涯引かれることのなかった陽子の引き締まった下腹部。それが、今初めて生々しく、神々しい輝きを放っていた。その美しいこと。これを見たら、陽子にはもっといい人生があったのではないかと誰もが思うことだろう。
 照らしてもなお陰になる深奥部をのぞきこむようにして、警官は言った。
「近所で問題になってる、自転車のタイヤの空気入れる所の黒いキャップの盗難。あれを盗み回っていた女はアンタだろう。もうずっと張ってたんだ。ずいぶん苦労させられたよ。さ、ポケットを見せなさい」
 確かに陽子はもう何年もキャップを盗み回っていた。そんなものを集めてどうしていたか。炒めて食っていたのである。また、後の調べによって、陽子のAmazonの履歴から大量のコンドームの購入が判明した。陽子はコンドームも、こちらは主に茹でて食べていたらしい。実証したわけではないが、彼女の所有していたグリーンの小さなル・クルーゼの鍋には強烈なゴムの臭いが染みついており、この趣味のいい鍋をコンドーム調理に愛用していたらしかった。しゃぶしゃぶ、または湯葉のようなものだったのではないかと関係者は考えた。電子レンジからはハクビシン、炊飯器から子猫が見つかり保護された。こうして、かけがえのない貴重な命が二つも同時に救われたのである。