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海の踊り子

 それはもともと私の仕事でもあるが、今日は幾分ちがう事情で耳をそばだてている。肉のつまった8本の足がよく手入れされた畳を引っかく音と震動がふすま一枚を隔てた部屋の真ん中に向かって遠ざかっていくようであった。
 さっきまで小さなハサミを使って小器用に食べていたのであろう名産の笹かまぼこがゆっくり落ちて床に跳ねたか、私のか細い、1本足りない25本の足が痺れを催し、時を待たずに美味そうな魚肉の香が水の流れに乗ってきて触覚をなで上げた。
「ちょっと、体をお持ちして。ごめんなさいね」
 中から安奈さんの恥ずかしそうな声がして、私は返事を残して倉庫へ急いだ。
 首の無い江川達也の体が所狭しと並んだ庫内には、脂っぽい臭いが充満している。一番染みの多いだらしない身体をあてがってやろうと意地の悪い心を浮かべて、ぴかぴか光るクラゲの子を片方だけになったハサミでもって傘のように差し、江川達也の身体のわずかな隙間をうろつきまわっていると、隅の方から老タコの声がした。
「こらこら。江川達也の身体はこの世で一番、光に弱いのだ。そうクラゲを引っ張ってうろうろせず、手前から取ればよいではないか。二階番の中でも、お前は時々そうするようだが、いったい何をこだわっているのかね」
「これはたいへん失礼致しました。私もそれは承知しておりますが、なに、どうせなら良い身体でもって夜伽を楽しんでもらえればと気の向く夜もあるのでございます」
「それは見上げた心がけ。だが、殊勝なお前の腐心のその分、江川達也の身体は光を浴びたところから染みが出て、そこからじわじわ腐ってゆき、首もとのヒゲは不気味なことに伸び放題に伸びていくのだ。くれぐれも早くするように。それ、クラゲの子、お前ものこのこ付いてきてはいけないよ。いやな時はいやとはっきり言うことも必要だ」
 そう言うとタコは、我々のところまで粘ついた墨を吐きかけた。びっくりしたクラゲの子どもはかさをぴたりと閉じてころりと沈み、もうしわけ程度に砂をどかして横たわり、中心の点を残して光も失せた。
「そもそもこの遊郭ができたのは……」
 私はタコのこの口上をとうに聞き飽きていた。西暦2013年7月30日、東京湾沖でタモリ倶楽部のロケ中にクルーザーから落下して死亡した「江川達也の遺体を初代楼主の亀乃頭丸(あたまる)様が引っ張りこんで、八万匹のイソギンチャクで型を取り……」
 タコの言葉を右から左に聞き流して、いっとう用済み寸前の江川達也の身体を物色する。
「そんなによい身体がいいと言うのなら、そこにある昨日、型を取ったものを持っていくがよい。安奈様の付いたあの蟹は、ちくと様子がおかしかったからな」
「そうでしたか。ちっとも気づきませんで」
 伊達に年を取ってはいないタコはとぼける私より上手である、返事をせずに黙した。私は私のせいで怒られたクラゲが一生懸命泳いで倉庫を出ようと水をかいているうちに、一つの江川達也の身体を選んだ。ずるずると良い塩梅に腐りかけてあり、あの蟹奴も幾分か興醒めするに違いない。
「お持ちしました」
 襖を滑らせて、江川達也の身体を斜めに傾いで差し入れながら中へ歩を進めようとすると安奈さんが立ち上がり、わずかな衣擦れの揺らぎを立てた。
「ありがと。あと私がやるわ」
 安奈さんの礼の言葉は他の者が言うよりも音の一つ一つが湿って甘く、少しく舐めた飴玉のようである。安奈さんがそばまで出てきて身体を受け取り、酒で桃赤く上気した顔を着物の袖で隠して襖を閉めようとするので、私は驚いて言い返した。
「しかし、お客様が江川達也の身体をお召しになるまでが私の役目。ぜひ入れて下さい」
「いいのよ、働き者の手長エビもたまにはお休みになんなさいね。それに今日は」
「なんですか」
「なんでもないわ。さあさ、私がやりますから」
 安奈さんの瞳が濡れ落ちそうに震えていたので私は何も言わず、腐った江川達也の身体を片方のハサミから離すと、後ずさりに辞した。
 安奈さんはさらに自分で、膳も何も座敷の外へ袖を押さえた一つまみでもって出してしまった。座敷の中に目をやると、アルコールランプにしがみついた蟹がちらと見えた。
 襖が閉まり、本来ならとっくに世話役の役は御免であり、そのままエビらしい後ずさりでもってその場を離れ、事後なんなりとの手回しを始めるべきである。しかし私は初めて規範に背き、一度ちょいと離れてあとに、再びそこに居着いた。そしてまた耳をそばだてたのである。
「かっこいいわよ」
「身体がでしょう」
「首に乗った、お顔がよ」
「ただの蟹です」
 安奈さんの声はだいぶ上から聞こえるのだった。蟹の声はずいぶん低いところにあり、地を這うように響いてくる。つまり、安奈さんがあの沁みだらけた江川達也の身体に、馬にまたがるように乗り、蟹は多くの足でもって江川達也の首にしがみついているのである。
「二枚目の蟹よ」
 安奈さんのちょっと笑った息遣いは、そこで堰を切ったように荒くなってきた。
「どうっ、いいっ、お気分?」
「何も感じないけれども実にいい気分です」
 それから二人は黙り込み、聞こえるのは安奈さんの息遣いばかりである。私はとっくに興奮していた。自分でどうにもならぬほど、腹の歩脚がその場でせわしく動くのである。自ら起こした水の流れはその奥にある腹節の隙間を洗い、私は本当にエビかと疑うほどに勃起していた。
「ああ、触って下さい、お願いです。そんなふうに江川達也の乳首ばかり触らず、僕を触って下さい」
 蟹が情けのない懇願の声を発した。安奈さんは腐りかけの江川達也の乳首を撫ぜたり摘んだりしていたのであるかと私は目の覚めるような思いであった。けしからん気がした。
 置かれたちょんの間は、安奈さんの蟹の殻に触れる間である。私は私の背中の天辺に、安奈さんの人間らしい指が降ってきて、段々になった尾扇を一段ずつ降りてくるのを想像した。
「ああ、すっごく、キチン質なのね……」
 同じ甲殻類の性か、私の尾がビンと跳ねた。
「う……もっと、その後はもっと爪で削り取る感じで!」
 よく分かっている。蟹は実によく分かっている。ああ、安奈さん……私は必死に思い浮かべる。
「あっ、あっ、あっ」
「気持ちよいですか」
 安奈さんは答えない。あの人は答えないからいいのである。私の目玉は取れてしまいそうに盛り上がってきた。
「んっ、あっ、あ、」
 激しくなってきた。私は安奈さんの痴態をどうしても見て目に焼き付けたい。急いた気の赴くままに、どうしたわけか固く閉じた襖を、力を込めてわずかに開けると、生暖かい水がどっと私を駆け抜けていった。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
 それが終わると、安奈さんの喘ぐ声がはっきりと聞こえ出し、私の腹は熱くなった。
 目の前には、江川達也の両足首までが見えて、それは布団から魚がくぐるほど浮き上がり、上下上下と小刻みに動いていた。よく見ると硬そうなすね毛がわずかに揺れているのである。初めて覗いた夜伽の最中の克明な様に、ああ、こんなことになるのかと私は感心した。
 しかし、肝心の二人は衝立障子によって隠された。私の仕事の誇りが、そこから先の立ち入りを許さなかった。私は江川達也の足先の動きから、少し先で動いている安奈さんの肢体の艶やかながんばりと揺らぎを想像した。
「あっ、あっ、あっ、あんっ」
 安奈さん、安奈さん、お願いです。私の尾扇の一つ一つを逆剥けにめくり上げ、剥いたところをこすりさすり、同時に背中の腸を、いっぺんにつつと抜き取ってはくれまいか。と考え、恍惚の崖に尾先が垂れ落ちたその瞬間であった。
「ダメッ、ダメッ、ダメッ、ああッ!!」
 我々はみな一緒に果てたに違いない。その証拠に、危険を感じたわけでもない私の身体は、白い糸を引きながら、後ろに何メートルも跳ね飛んでいた。そして、くるまった尾はしばらく戻らなかった。
 私は上手く動かぬ腹から下を必死で操り、ようやく戻ったのは半刻も過ぎた頃である。開けた襖を閉めねばならぬと思い立ったからだ。
 先ほどの衝撃でもげかけたハサミを襖にかけた時、また声が聞こえた。江川達也の足の奥に、安奈さんの白い足が見えた。私はもう、ただ美しい景色を見るようにしてそれを見た。
「ありがとう、でも、ダメなのね」
「そうですか。それはやはり僕が蟹だからでしょうか」
 安奈さんは黙った。蟹も私も黙った。冷めてもぬくたい妙な熱は、座敷の中に均等に散らばった後、布団の敷かれた底の方へと沈殿し、そこは親密で大切な話を交わす場と成り果てていた。
「この江川達也の身体、くたびれてぼろぼろ。きっと今回が最後ね」
「そうですね。こんなに状態が悪いのは初めてですね」
「でもよかったわ。これでもう使われないんだから」
「よかった?」
「ずっと変わらない思い出になる」
「どういうことですか?」
「同じのを使って、今日のことに塗り重ねられちゃったら困るもの」
「そうですか?」
「人間って不便なものよ。あら、変かしら?」
「変じゃないです。あの……!」
「なに?」
「やっぱり、僕には身請けはできませんか。安奈さんは僕についてきてはくれませんか」
 私の触覚はぴくぴくと不快に動いた。それは私自身の緊張でもあった。
「私は踊り子よ」
 安奈さんはどこか冷めた口調で言うのだった。私は驚いて身を固くし、次の言葉を待った。
「うらぶれた灯の下で踊っていることが大好きな踊り子」
 蟹は黙しているが、衝立障子の上に泡が一つ浮かぶのが見えた。しかし蟹はどうでもよかった。私はもう盗み聞きではなく、安奈さんの言葉を聞いていた。
「このまま 別れて行きましょう」
 そして私は知らぬ内に泣いていた。ハサミを無くしたエビなんぞ、食べる以外の役には立たない。明日にでも、私は客や遊女らへの馳走として、刺身にでも寿司にでもされる運命にある。
「短い夢と割りきって」
 安奈さんの声は真珠のようである。美しいが、なめても何の味もない。しかしそれは安奈さんが閉じ込められた優しい心遣いである。蟹はわかっていたに違いないが、私はもっとわかっていた。
「ほんとは少しだけまごころに打たれたわ」
 私はそこで襖を閉めた。やにわに強く挟んだせいで取れたハサミがそこに残った。
「御達者で」
 これがふとした目印になり、せめてまた明日ここに戻って来られることを祈って、私は厨房へと向かった。次に訪れた悲しい言葉を聞かずに済んだのである。