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米倉二等兵、最後の作戦

 日露の甘美な記憶に験を担げば、天気晴朗なれども波高し。軍用港を抱くようになだらかな輪郭を成した湾、その中央をただよう一隻の戦艦が粟立つように蠢くのを、地上から練習機で空へ飛び出した特攻隊員が上空から目撃した。獣のにおいがした。
 戦艦上では、甲板に建った操舵室の三階にある見張り台に、軍服姿の男がでてきた。男は身を乗り出し、眼下に向かって大声の演説を始めた。
「諸君、私が、陣頭指揮をとる米倉二等兵である。諸君に集まってもらったのはほかでもない、偏にこたびの重要任務完遂のためである。我々が乗っておるこの戦艦『哀峰』はどこもかしこも故障し、今日をもって、爆撃さる後、沈没する運命にある。なぜそんなことを言えるのかといえば、当鑑は囮、わざと憂き目を辿るにすぎぬからである。毛唐軍が、燃料も火薬も積載せぬもぬけの傷んだ古艦にうつつを抜かす隙に、敵の本陣を爆砕せしめんとするのが今回の作戦の大綱である。フィリピンなんぞくれてやるが、一矢報いずに散れば男児一生の恥である! マレーやインドシナ、南方で戦っている味方もわかってくれるであろう! しかし、いかな毛唐といえども、がらんどうの鉄の塊を爆撃するほど耄碌はしておるまい。ならば多少の人員を投じるか。しかし、損害は最小に止めるのが戦の定石である。そこで君たちに召集命令が出されたわけだ。知っているかと思うが、君たちのもとに届いたビーフジャーキーの切れっぱしがそれである。この中に食べちゃった者は!」
「ワン、ワン!」
 戦艦の甲板を埋め尽くす犬が吠えた。こう書くと今まで黙ってたみたいだが、さっきからずっと吠えていたのである。米倉二等兵には、自分の声すら聞こえ難かった。
「しかし食べちゃった者も安心するがよい。それは御国に殉ずる諸君への餞別であり、また毛唐を侮辱するための一戦術である」
 犬はこんなにぎゅうぎゅうなのに、それぞれ動き回ろうとくるくる回ってがんばっていた。そのせいで隣と喧嘩になり、米倉二等兵から見ると、喧嘩が発生しているスポットが十二、確認できた。しかしかまわず話を続けた。
「我々は、明日の日の出を待たずに死ぬ運命にある。しかし悲観することはない。御国のために死ぬのである。メスもかなりいると思うが、男らしく命を捧げようではあるまいか。またしかし諸君! 諸君に宝物はあるか! 家族と答えるものもいよう。契りを結んだ恋人もいるだろう。まして天皇陛下を敬愛すなどと申すのは言うまでもないことである。だが私が言うのはそうではない。ここからはオフレコである! 君の、君自身の個人的な宝物のことである。国策に背くことになれども、私は私(し)を滅することが最上とはとても思えぬ。告白すれば、だからこそ特進もおぼつかなかったのである。私の宝物を見せよう。特別に持参することを許された貴重な品である。全体、待て!」
 突然押さえつけた声で怒鳴り、米倉二等兵は一度、犬から見えなくなった。かと言って犬が見ていたわけではない。首が疲れるからだ。そしてまた現れた時、米倉二等兵は口の広くあいた一升瓶をかかげていた。鮮やかな色を放つものが中に詰まっている。
「これが私の宝物、たくさんの色とりどりの消しゴムである! 集めに集めた消しゴム40種、特別なにおいを発するものや星をかたどったものもある。綺麗であろう。四歳になんなんとする私の姪は、宝石みたいと目を輝かせたほどである。私は国を思い、母を思い、家族を思い、私そのものであるこの宝物とともに散る覚悟である!」
「ワン、ワン!」
「わかっている。諸君も、隠し通した骨の一本や二本を抱いて死にたかったに違いない。ただその連絡は叶わなかった。諸君が犬畜生だからである! 私は諸君の宝物の持参を許可するよう進言したが、犬畜生の心情を理解する者が上層部にはおられない。誠に嘆かわしいことである!」
「ワンワンワンワン!」
 心なしか、犬がいっそう騒がしく吠えたような気がして、米倉三等兵は空を見ながら不覚にも涙をにじませた。下にたむろっているのは我が戦友である。運命の締めくくりに席を同じくした者の心は自ずと一つであろう。しかし実際は、喧嘩の発生スポットが周囲を飲み込み成長したまでであった。今、眼下では死者すら出ていたのである。
 米倉二等兵はようやく視線を下ろしたところで事態に気づき、身を乗り出して叫んだ。
「やめないか! やめないか! 同胞を憎んでどうなる、何になる! 我々は仲間だ! 俺も一緒だ! 共に死ぬのだ!」
 感極まり、声も枯れよとばかりに叫ぶ米倉三等兵に一匹の犬が目に留まったのはその時であった。米倉二等兵は注視した。最も戦火の激しいところでひときわ暴れ回り、今は小さめの毛むくじゃらの犬の耳のあたりにかみついて、後ろ足で別の犬を踏みつけて突っ張っている茶色い犬を。
「ポケ」
 米倉二等兵は愛しげにつぶやいた。
 少年時代の米倉家で飼われていたポケは、普段は気立てが良かったが、とにかく喧嘩っ早い犬だった。散歩に連れても、他家の犬とすれちがうたび噛み付いてやろうと小さな米倉少年を引きずりまわして向かっていき、自分の倍ほどある犬にも怪我を負わせた。少年は、しつけがなっていないとたびたび他の飼い主に怒鳴られ、ひどい時は殴られた。少年が縁側で泣いていると、ポケは反省の色をなした物悲しい目つきでチラチラ彼を見つつ、庭の片隅で伏せっていた。そんなことが幾度あったか知れないが、二人はいつの間にか機嫌を直し、遊んだ。じゃれついて立ち上がっては顔を嘗め回すポケの温かい息遣いが鮮やかに思い出される。
「ポケ…ポケ……」
 米倉二等兵は繰り返し呼びかけた。ポケが死んだことを米倉二等兵は母の手紙で知った。供出され毛皮になったか、それとも単に殺されたかどうかは定かではない。あまり毛の長い犬ではなかった。
 犬たちは、互いに吠え、ナワバリを争い、うるさかった。さっき見つけたポケは隠れて見つからないが、全ての犬がありし日のポケと重なった。今、米倉二等兵の中に初めて自覚された感情は、はじめから犬の、他ならぬポケの顔の形をしていたに違いない。新たな涙が、先ほどまでの演劇的なにおいに満ちた涙を押し流した。
「諸君!」
 米倉二等兵は涙声をねじ伏せるように力いっぱい叫んだ。
「最後に一つ、話を聞いてくれ! 誠の心の叫びである! さっきまでのは偽りである! どんな理由であれ、犬死にはいけない! 私は諸君に犬死にしてもらいたくはない! 諸君は生きろ! 元気に生きるのだワン! そうでなくっちゃいけない! 私は無理だが、諸君は海に飛び込み、かの泳法で太平洋の荒波を越え、黒潮に乗って無事、大日本帝国、いや、君たちの家へと帰り着いてほしい! 死んで花実が咲くものか! 私は悲しい人間である! 流れ流されここに立ち、一丁前に君たちに話をしている。しかし、いったい誰に省みられたであろうか。私は何も成し遂げなかったのである! 今でさえそうである! この作戦が成功し死した後、私は必ずや二階級特進するであろう。しかしそれがなんになる! 私は信じる強さも無い無類の敗残者である! 犬死にである! 敗残者のまま死に、癒されることはない! 私の力不足がこれを招き、これに抗うことすら出来ない際まで私を追い込んでいる! 私は私を飼い殺し、漠として死ぬであろう! この腑抜けた戦艦は私である! もう弾は撃てぬ! 撃てぬ段になってこんなことを叫ぶのだ! 消しゴム集めしか能の無い、敗残者の故である! 本当を言えば私は、もっと消しゴムを集めたかったのだ! それも遠慮したのだ! 私は運命に翻弄されたのではない! 自分の意気地の無さに翻弄されたのだ! 諸君は断じて違う! 諸君の目は生命の欲に満ちている。抗え! 世界を覆う不条理に抗うのだ! 目にものを見せてやってくれ! 日本へ泳ぎきり、何か大切なものを、私が失くした何か大切なものを取り返してくれ! そして、日本の地を踏みしめ勝利した時、諸君は広なる太平洋を振り返り、ひとたび私に向かって、ワンと吠えてくれ! それが何より、せめてもの慰みである!」
「ワン、ワン、ワン!」
 米倉二等兵は知らなかったが、ここにいるのは全てフィリピンからかき集められた犬だった。しかし、米倉二等兵にとって目に映る光景は、自分の憧れた大和魂の何倍の輝きを放つ故に、至上の大和魂としてあった。