ワイルド・プロレスラー

 プロレスラーのとっくりマスクは、マスクが首元まで伸びていてだらしない印象。スポーツドリンクを口に含み、数十秒経ってから飲み込んだ。先日の試合のビデオを全部見終わって、よほどのショックを受けたらしい。
「ダメだ。野性味が全然足りない」
 とっくりマスクはわざと大きい声で言い、それとなく付き人の下田君に助言を求めた。大卒の下田君なら何かアドバイスをくれるに違いないと思ったからだ。
「そんなことありませんよ。とっくりマスクさんの6連続ワイルド空手チョップ、しつこいぐらいにワイルドでした」
 下田君は、お腹の上のクマのぬいぐるみを落とさないように首ブリッジトレーニングをしていたが、淀みない口調で言った。
 とっくりマスクは納得いかない表情をマスク越しに浮かべた。
「下田君、ここは正直な意見を、そう、建て前というマスクを悪役レスラーにはぎ取られた本当の意見を聞かせてくれないか」
「お前はとにかく全っ然、ダメだっ!」
 一瞬、とっくりマスクのマスクがびっくりして縮こまった。口も開いている。
「いつだって口ばっかり。空手チョップの前にワイルドと付けたからって、それは所詮ただの言葉にすぎないじゃない。吹き荒れる風、つぶてのような雨が全身を叩きつけ、波は高く逆巻き唸りながらお前を飲み込もうとする。どんな雄叫びもかき消され、自然の、野生の掟がその身に迫る。その時、初めてワイルドが、野性味が、お前に向かって『よろしく』と、漢に向かってこれからよろしく、と! 一声かけてくれるんじゃないんですか! ワイルドにこびへつらって何がワイルド。笑わせないでください!」
 逆さの体勢から撃ち出される下田君の言葉に、とっくりマスクは雷に打たれたようなショックを受けた。震えているのは寒さのせいだと言わんばかりに、パンツ一丁の体にマフラーを巻きつける。そしてさらに、先輩としての威厳を保つため、軽くヘソをいじくる何気ない動きを付け加えた。
「それが君の意見か」
「そうですよ。俺が見てえのは、あんたの気持ちなんだよ! ワイルドは気から!」
 下田君はお腹の上のクマのぬいぐるみを中心にして、回転を始めた。苦しそうな顔が向こう側へ消える。この無茶な動きは、いいトレーニングになるから、あと若いから、という理由だけで出来るようなことではない。何らかの怒りのパワーを借りてこなければこんな芸当は不可能だ。それはとっくりマスクにもわかった。だってこんな動きはしたことがない。出来る気が知れない。
 しかしながらマスクは、大卒の下田君が自分に向かって口汚く怒鳴ってくれたことが、逆に本当に嬉しかった。どうせまともな教育受けてないからわかりあえないに決まっている、と思われていた中卒と大卒の心が、共通の高卒の友達という架け橋なしで結ばれたのである。
 その喜びと、下田君から授かったワイルドの観念にあてられて、とっくりマスクの胸に、近頃くすぶっていたプロレスという炎がまた大きく燃え盛り始めた。それは飽くなき向上心と探究心、意地とプライドがぐつぐつ煮える具沢山の鍋料理にして究極のエンターテインメント、一言でいうなら最強の格闘技への道、締めはラーメンであった。
 とっくりマスクの声は、今では今朝よりグッと男らしく、聞かせるという感じになっていたが、その声でこう告げた。
「下田君、俺を野生のライオンの背中に縛り付けてくれ」
 下田君の回転が止まり、お腹からクマが慣性の法則で転がり落ちた。
「な、なんですって」
 下田君は腰を下ろして半回転、うつ伏せになると、肘を突いて筋肉質な胸を上げ、家でマンガを読むときの体勢になった。
「ワイルドな気分になるとは、野生を身につけること。野生を身につけるには、野生を制すことだ。それは、敵をやっつけることで敵の技を自分のものにしていく、もしくは敵を一人ずつ味方にしていくという少年マンガのルールが証明してくれている。そして、敵を制すとは、自然界の掟に従えば、敵の上に乗っかることだ。俺を野生のライオンの背中に縛り付けてくれ。一週間もすれば、野生を制しているはずだ」
「いきなり野生のてっぺんを取りに行…無茶です。ライオンは群れで生活する生き物。たとえ一匹に縛り付けたとしても、他のやつに食われます。いっぱいいるメスとかに。こぞって食われます」
「寄ってたかって、か」
「そうです。200パーセント死にます」
 とっくりマスクは優しい笑みを浮かべていた。自分が確実に死ぬと聞かされて微笑する。一握りの剣の達人しかたどり着けないといわれる境地に、ちょっと心を入れかえたプロレスラーが到達した瞬間だった。
「それで『野生の雄叫び空手チョップ』を体得できるなら、死んだって構わない。頼む、俺を、このとっくりマスクを、ライオンに縛り付けてくれ」
 結局、技の名前かよ、という言葉を、下田君自身ののどちんこが完全にディフェンスした。しかし、次の言葉がすり抜けた。うつ伏せのまま叫んだ。
「イヤだよめんどくせー!」