僕は中学受験に失敗する

 スーツで決めた塾の先生は、いつものように一言も発さずに部屋へ入ってくると、これはいつもと違って、持っていた紙袋から片手で五冊ずつ、四回取り出した。二十冊のマンガが先生用の机に積み上げられた。
 僕は小学生だけど、よしマンガが読めるぞなどという悠長なことは思わなかった。みんなもそうは思わなかったに違いない。僕たちは中学受験を半年後に控え、いよいよ気分が出てきたところだったし、大体、先生の言いなりになって勉強してきたこの数年間、「日本の歴史」以外のマンガは頭が悪くなるので読んではいけないことになっていた。だから、今回の件は、きっと何かしら、受験に関係があるのだ。
「ここに、二十冊のマンガがある。全部、一巻だ」先生はそれだけ言うと、僕たちの起立を促すように手を上げた。
 僕たちは立ち、先生のカモンという手の動きに従って、前に集まった。マンガが沢山あった。
「一人一冊、選んでごらん。中を見ちゃダメだぞ」
 みんなは、積み上げたマンガを次々と手に取った。僕たちの顔は、次第にほころんでいった。どれも本当におもしろそうだ。『ドラえもん』って、これ知ってるぞ。アニメでやってる。マンガもあるんだ。そして僕たちは、夢中で、でも(騒ぐと定規で裸の腕をひっぱたかれるので)静かに、自分の気に入ったものを選んで席に戻った。
「みんな持ったな。じゃあ、説明をする」先生は歩き回りながら言った。「選んだマンガを僕に見えるように、立ててくれ」
 僕たちは言われた通りにした。先生はそれをゆっくりと見回した。
「岸野、立て」
 岸野君はマンガを持って立った。
「みんなにマンガを見せろ」
 岸野君が選んだマンガは『おれはキャプテン』というマンガだった。
「岸野は野球が好きだから、それを選んだのかな」
「そうです」岸野君は答えた。
「うん。『おれはキャプテン』は前、マガジンでやってた。今は、マガジンSPECIALで連載中だ。先生も読んでる。世間で『おおきく振りかぶって』が話題になってる頃、先生は『おれはキャプテン』に夢中になってた。『おおきく振りかぶって』も後から読んでめっちゃ面白かったけど、『おれはキャプテン』も面白い。なんたって蛯名が凄くいい。大物って感じが。これは『おおきく振りかぶって』には無い類の魅力だ。もちろん、逆も、『おお振り』にしかない類の魅力もあるけど、そのへんは好みだからぐちゃぐちゃ言わない方がいい。ちなみに先生は『砂漠の野球部』も当時サンデーで読んでた」
 僕たちは『マガジンSPECIAL』も蛯名も『おおきく振りかぶって』もコージィ城倉も『砂漠の野球部』も全然知らないので、黙って先生の話を聞いているしかなかった。先生はいったい何をしようとしているのだろう。どう受験とつながってくるのだろう。それとも、僕たちに息抜きの時間を与えてくれているのだろうか。
「で、これを選んだ岸野。このマンガは16巻まで出ていて、さっきも言ったけど連載中だ。だから、これぐらいなら読んでも受験に差し支えない。」
 みんなの肩がピクリと動いたのを、一番後ろの席にいる僕は見た。そんな僕も、受験という言葉に反応せずにはいられなかった。
「しかも連載は『マガジンSPECIAL』、この雑誌は月刊、毎月20日発売だ。置いてないコンビニすらある。ということは、もし立ち読みしたとしても、読んでしまえば一ヶ月はそれにとらわれないということだ。これが週刊連載だと、週に一回はマンガに気を取られるということになる。週刊少年ジャンプの連載だと、勉強時間に費やすべき土曜や日曜の発売日前にジャンプを売ってる場所がどこか無いかと探したりすることになる。それに、だんだん荒唐無稽になってきているから、そろそろ読まなくなるかも知れない」
 僕たちには、マンガの情報はわからなくても、先生が言いたいことの骨子は何となくわかった。つまり、あのマンガを読み始めても、そんなに時間を取られないのだ。勉強に支障をきたさないのだ。
「岸野がこれを選んだということは、ただの偶然じゃない。それはわかるな。自分の好きなものを岸野は選んだんだ。これは、岸野の持って生まれた、そして生きていく中で手にした、先天的かつ後天的な、岸野という人間の現在の嗜好だ」
 誰もが神妙な顔で先生をじっと見上げていた。これはなんだかえらいことになってきた。僕たちは自分の持っているマンガの表紙をチラ見して、自分の志向を確かめた。
「ということは、岸野はマンガで身を持ち崩すことは無いということだ。岸野は受験に成功するかはわからないが、『おれはキャプテン』を選ぶということは、少なくとも、マンガを読みすぎて受験に失敗するという可能性が無いことを証明したことになる。岸野は、今回のようなことが無くて、もし自主的にマンガを買おうと本屋に行っていたとしても『おれはキャプテン』を選んだだろう。それは、全員に言えることだ。みんな、好きに選んで、今手に持っているマンガを選んだはずだ。そういうことだ」
 先生は岸野に座るよう手で合図した。岸野は、どこか誇らしげな顔で座った。
「津田ァ!」
 先生は突然、机を思い切り掌で叩くと、僕の名字を外まで響く声で叫んだ。僕も、みんなも、驚いて肩を飛び上がらせた。
「お前、お前の選んだマンガのタイトルを言ってみろ。立て!」
 僕は慌てて立った。ドキドキした。そして、マンガを胸の前に持ち、読んだ。
ドカベン
 そう、僕が選んだのは『ドカベン』というマンガだった。太った男と大柄な男が柔道着を着て、腕を広げている。他の人物もちょこちょこ後ろに描いてある。なんとなく、絵が気に入ったし、スポーツを描いたものがいいと思ったので、これにしたのだ。それに、なんとなく聞いたこともある気がする。
「お前の選んだそのマンガは、最悪だ。受験を半年後に控えた小学生が選ぶマンガとして、最悪だ」
 僕の足は机の陰に隠れて、押し寄せる不安にガタガタ震えていた。隣の小熊君が、『魔方陣グルグル』というマンガを机に立てながら、僕を心配そうに見ていた。
ドカベンについて教えてやろう。まず、表紙で柔道着を着ている大きい奴が二人いるな」
 みんなは僕の方を振り向いて、『ドカベン』の表紙を見つめた。僕もあらためて表紙を見た。
「そいつらは柔道部を辞めて、7巻で野球部に入る。つまり、野球マンガだ」
 部屋は突然ざわついた。みんな、同じく野球マンガを選んだ岸野の方を別になんというわけでもなく見た。岸野は『おれはキャプテン』の表紙をみんなに見せるように持った。みんなはそれを確認すると、僕の方を振り返って、思いっきり柔道着を着ている表紙を見た。あれが野球マンガだなんて、と驚いているようだったけど、一番驚いているのはきっと僕だ。
「そこから、そいつらは延々野球をやる。『ドカベン』は全48巻」
 みんなは息を呑んで、今度はじっくりと僕の持っている『ドカベン』を見据えた。そんなに、41巻分も野球をやるのか、という目をしていた。
「そして、山田太郎の、そのずんぐりむっくりの男が主人公なんだが、そいつとその大男、岩鬼というが、他にも野球部が色々いて、そいつらの高校三年、夏の甲子園を描いた続編が全48巻の『ドカベン』とは別に存在する。それが『大甲子園』全26巻」
 真木野君の顔が恐怖にゆがみ、開けた口を震わせて、山田太郎というキャラクターを指差していた。僕も、今では体全体が震えていた。僕は、なんていうマンガを選んでしまったんだ。
「そして、そいつらはプロに入る」
「イヤーーーーーーー!!」
 秋月さんが耳をふさいで、机に突っ伏した。先生はそっちをチラッと見ただけで、続けた。
「……『ドカベン プロ野球編』全52巻」
 秋月さんが伸び上がって目を見開いて口を開けたかと思うと、次の瞬間に気を失って、椅子から転げ落ちた。
 僕はただ呆然と立ち尽くすしかなく、みんなはハァハァと息を切らせていた。暗算が得意な僕たちでさえ、ドカベンが全部で何巻あったのか計算することは不可能だった。
「何を安心してる。今までに出てきたオリジナルキャラクターがFA宣言して、パ・リーグの新球団に散らばる『ドカベン スーパースターズ編』がまだ残ってる」
 教室の半分の十人ほどが、気を失って机に倒れ伏した。先生はそれには目もくれなかった。僕はスーパースターズ編と聞いたとき、とうとう涙がこぼれた。
「それが、24巻ある」
 残った十人のうち、また五人、気を失った。一番前にいる兵藤君のメガネが割れて、先生の方に飛んでいった。先生の服に破片が当たっているらしく、ばらばらと乾いた音がして、それから机に落ちるやや高い音が響いた。先生はそれにも気を留めなかった。
「現在も週刊少年チャンピオンで連載中」
 そこでついに、僕以外の全ての生徒が気を失って倒れた。先生は厳しい目で僕を見た。僕は、救いを求めて、すがるように先生を見た。今まで、先生の言うとおりに一生懸命勉強してきたのに、こんなことになるなんて。意識を失っているみんなの背中を見て、僕は怖くなった。今にも、先生にすがりつきたかった。僕は『ドカベン』を選んでしまってどうすればいいのか。早く、先生に何か声をかけて欲しかった。ドカベン。僕はどうすればドカベンから逃れることが。
「しかも、ドカベンに出てくるキャラクターで、別の独立したマンガで主人公だったキャラクターもいる。詳しくは言わんが、そのあたりは読んでいくうちに情報を得ていくだろう。真田一球、中西球道、岩田鉄五郎、水原勇気……お前がこれから知っていく名前だ! ドカベンの世界は無限に広がっていくぞ!」
 僕の顔はもう涙や汗、鼻水なんかでぐちゃぐちゃになっていた。それでも、歯を食いしばって、ふらつく体を立て直そうと努力し、狭まったり広がったりしながらやはり狭まっていく視界の中に先生をなんとかとらえていた。先生、何かアドバイスをください、先生、僕はずっと先生の言うことを信じてきたから、今も信じているのだから、どんなに無茶な厳しいことでも、先生がやれと言ったら、本当に厳しいことでも死ぬ気でやります。それで受験に成功するなら、一流中学に行けるなら、僕、どんなことでもします。だから、僕が『ドカベン』と関わっても受験に受かる方法を教えてください。本当に死ぬ気でやります。お願いします。お願いします。僕は喋ることができなかったので、口を動かし、喉の奥から空気を漏らして、そう言おうとしていることだけを伝えた。それをしばらく見ていてくれたのに、先生は途中で、問答無用とでもいうように僕を力強く指さした。
「津田! お前は、『ドカベン』を選んだお前は、志望校に合格できない! 落ちる! そして、二流の私立中学に入り、付属の六年間ドカベンシリーズを読み漁り、成績を落とし、三流大学に入学し、四流の会社で働き、死ぬ! お前は、ドカベンで人生を滅ぼすんだ! 水島新司に人生をメチャクチャにされるんだ!」
「がんばれがんばれド…カ……ベン」
 喉の奥から知らないフレーズがこみ上げてこぼれ落ち、僕は気を失って崩れ落ちた。