ワインディング・ノート27(こだまさん・吉田健一・坂口安吾)

 黙っている間に集団的自衛権に関する閣議決定がなされ、「カツマタくん」はクソをひり出すように続き、僕は群像新人文学賞をもらい、夏の甲子園が始まり、こだまさんの文章が活字になり、甲子園が終わり、堀北真希が結婚しました。
 それなりに忙しくなる、人に会う機会ができる、お金がもらえるなど、状況こそ多少変わりましたが、心持ちは何も変わらないようです。最終候補に残り、取れるか取れないかの電話待ちみたいな時期もあるにはあったし、そういう時期やその後のあれやこれやについて、だいぶ前にはちょくちょく考えていたような気もするのですが、ただ一切は淡々と過ぎゆくばかり、時々、誰にともなくうるせーバカと思うぐらいでした。
 そういう「世に出る」ような時が来たらどうなるかと、昔々に青臭く考えていたこと。それは例えば松任谷由実が、恋が成就してしまう直前の幸福な気分として「つぎの夜から欠ける満月より 十四番目の月がいちばん好き」と書いた歌詞に表れるような、大きな期待と不安の入り交じるときめきの予感でありました。
 ただ、実際はなんということもない。もちろん、嬉しくなかったわけはないけれど、そもそも群像新人文学賞が満月かというと、そんなことでもありません。「十四番目の月がいちばん好き」だという女の子だって、それが人生に一度の恋であるはずがなく、そもそも衛星としての月が何度も満ち欠けして見えるように「十四番目の月」にあたる気分はネクストの恋ごとに何度だって訪れるんだろうから、そのたびにときめいておればいいかとも思いますが、そんな気分でいられるような、ある種の「おめでたさ」みたいなものがあるなら、何かを仕遂げることは一挙に難しくなるだろうと感じています。
 なぜといって、およそ芸術という括りで呼ばれるような世界で何かを仕遂げるとは、これまでだらだら書いてきたように、この世に実現するはずのないものの姿を、追い求め続けてのたれ死ぬようなことだからです。別に他のことでも長いことやっていればそういうことになるでしょうが、ぜんぜん仕遂げることなんかにはならない。どうせのたれ死ぬのだから。
 そう考えると、目の届く範囲で今一番わかりやすくのたれ死にそうなこだまさんが注目されているのはある意味当然の結果であるのかもしれません。

    いかなる問題が起ころうとも、"しない"ことによって解決しようとしてはいけない。常に"する"ことで解決するしかないのだ。やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!

  こう書いたのは1990年のいがらしみきおですが、こだまさんの生き方に憧れという名の共感を持ったりする人が多いのは、この文が伝えるところと僕は考えております。
 "する"というのは、その時々で(なんでそんなことになるのかは置いておいて)出会い系で男とヤることであったりするわけです。
 同じくいがらしみきおは『Sink』の中で、「バランスは必ず崩れる、でも崩れてしまった時が一番安定している」とも書いているのですが、こだまさんもまた"する"ことで、現在の歪なバランスを崩し、崩しきったところでの安定に解決を見ようとしたのかもしれませんし、助かったということもあるかもしれないでしょう。
 ただ、そんなことをしていたらやっぱり辛い。なぜといって、最高にバランスが崩れて完全に安定した状態が「死」というものであるのは明白で、安定を目指す衝動が向かう墓場は決まっているからです。
 生きるためには"する"しかないのですけれど、バランスを崩して新たな安定を得るという繰り返しはリスクが大きい。そういう手立てしかなかったらとっくに死んじゃってたんじゃないかと思いますが、こだまさんには書くという手段があった。これが命綱であったと思います。書くことがあって本当によかった。
 たまたま「文章を書く」という共通点があるから言わせてもらうと、こだまさんは、小さい頃の日記を見てもわかる通り、誰に何と言われようと言われなかろうと書いているであろう人で、そこが信頼できるという気がする。
 そしてそれは(こんなこと言ったらいけませんが)、こだまさんが他人にどんなすばらしい人格的な態度を取っていても、最終的に「ほっといてくれ!」と思っているにちがいないことを証明するのではなかろうかと僕は思います。

 これだけテクノロジーが発達した今ですら、書くといえば一人で書くことを意味します。書いているそばから、こうした方がいいとか、そこは改行しろとか、つまんねーなとか、やめちまえとか、読みづらいとか言われたりするわけではない。それは書くことではない。
 まず書くのは自分であり、読むのも自分。書きつつ読んでいるのか、読みつつ書いているのかは判然としないけれども、とにかくそういう自分だけがいる行為であり、時間が、書くということなのです。
 それに、最初に書いたものから一語変えれば意味が変わり、一語足せば印象が変わる。それを逐一読んでいる。上書き保存の世界で無限に生まれうる幾多のバージョンの中で、いったいどれを人に見せるかということを考えて推敲したりするわけですが、そんなことをしていると、自分の意見なんてものが存在するのかすらあやしくなってきます。
 いい文章が書きたい。いい文章が読みたい。
 その思いは、自分の意見というものがあるとして、そいつを殺した上で、乗っ取りかねない。もしかしたら、「いい」ものが書けることに比べたら、意見なんて何ほどのことでもなくて、「いい」ものが書けたからそれを意見に採用しているだけかもしれないのに、書けたら書けたで証拠ができたとばかりに、自分の確固たる意見なのだと信じている。
 人が自分の意見を曲げないのは、その意見が美しいと信じているからかもしれません。小林秀雄が「美しい花がある。花の美しさというものはない」と言ったことを、まわりまわせばそういう意味にもなりそうだ。
 しかし、それに対して懐疑的になっちゃった時に、崩れ崩れてたどり着いてしまうのは、意見なんて「"どっちでもいい"し、"ムキになるようなことじゃない"し、"なんとかなる"し、"うーーーん"なのが世の中」であるという安定した視座ではないでしょうか。
 つまり、正解みたいなものはとっくのとうにないわけで、じゃあ、どう思おうと全員正解、クソみたいな人生を美しく書けて、美しく書けたことを自分の意見としてしまえるなら、それは美しい人生ということになるような気もする。
 そういえば、こんな文章を『十七八より』という小説で引用したのでした。

 人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである。
 (ガブリエル・ガルシア=マルケス

  美しい生涯のようなものを知らず知らず目指してしまうところが人間と思いますが、では、なぜそんな曖昧でありもしないようなものを目指してしまうのか。
 引用をもう一つ。おそらく死ぬまで幾度も、ある契機ごとにお目にかかり、やはり最近も読むことになった吉田健一のこの文章。

 戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。
 戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

  歴史の一部になると同時に振り返っていることだって、書くと同時に読んでいることと何が変わるっていうのか。「生活を美しくして、それに執着する」ことで戦争への意見を放棄するように、「文章を美しくして、それに執着する」ことで何かへの意見は放棄されます。美しさには、何の意見もありますまい。
 こう考えてくると、考えるというか二葉亭曰く牛の涎のように書いてくると、意見がなくただ在る、というのはどうも美しいらしく、人は大体そうなりたいと思うらしい、と思えてきます。子供や動物、無垢なもの。太宰やサリンジャー宮沢賢治固執したもののかたち。でも、ここまで書いてきたように、そんなものはない(らしい)。
 こういうことを、こだまさんの文章が美しく思われることについての考えにふわっと代えさせていただきたいのですが、きっと、もっと、はっきり書いた方がいいのでしょう。あれだけ生きて、あれだけ書きながら、何の意見も言わなかったと。だから美しく生き、美しく書いたと言えるんだと。
 坂口安吾は、小林秀雄を批判してこう書きます。

 美しい「花」がある、「花」の美しさというものはない、などというモヤモヤしたものではない。死んだ人間が、そして歴史だけが退ッ引きならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは大嘘の骨張で、何をしでかすか分らない人間が、全心的に格闘し、踏み切る時に退ッ引きならぬぎりぎりの相を示す。それが作品活動として行われる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目にすぎないものだ。
 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもつていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。
(『教祖の文学』)

  「人間の詩」には、何の意見もないだろうと僕は思います。美しさだって、本当はない。でも、そう生きずにいられなかったこと、それを書かずにいられなかったということ、その「退ッ引きなら」なさを、人は「美しい」と呼びたがるとなると、人間っていいよなと思います。こだまさんの文章を読んで、みなそういう気分になるのでしょう。僕もなる。この文章に出てくる人たちの文章を読んだ時と同じような気分になるのです。
 それはむしろ「十四番目の月」を見るような気分に近いのですが、こんなことを書いておいて、それが「美しい」とは口が裂けても言えません。そんな時は、こういう啖呵がやたら身にしみるようです。
 やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!
 そんな感じで、こだまさんの最低限のご健勝をお祈りしております。かしこ。

 

 

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

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十七八より

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生きて、語り伝える

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堕落論・日本文化私観 他22篇 (岩波文庫)

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ワインディング・ノート26(『IMONを創る』・いがらしみきお・(笑))

 今回から2,3回ほどの予定で、IMON3原則の最後"(笑)"について述べたい。
 これまでほかの2原則である"リアルタイム"、"マルチタスク"の意味と効用について述べたわけだが、たぶん「むずかしい」、「よくわかたない」、「夏バテになった」などの感想が多かったかもしれない。
「世の中、キミたちのわかることばかりではない」などと言うつもりはないが、物事は核心に迫れば迫るほどむずかしくなっていくもんです。
 松尾伴内は、あれほどわかりやすい人間のように見えても、ひと晩一緒に酒を飲んでみたらわからないよ。そのまんま東の嫁さんに惚れてたかもしれないじゃないか。そんなことないか。あはは。
 実際、核心に迫れば迫るほど世の中むずかしいことばかりである。しかし、核心の核心に迫ったとき、物事はこの上なく単純なものになるのではないか。まるで台風の目に入ったときのように。
 IMONでは、すべてのことの核心の核心は"(笑)"であると考える。核心の核心(以降これを"K点"と呼ぶ)が"(笑)"であるという例はいくらでもある。それこそ森羅万象すべてのK点は"(笑)"であると言ってもいいので、それらの森羅やら万象やらをいちいちとりあげることはできないが、例によってIMON流に森羅を独断し、万象を偏見してみたい。ただ、その前にやらねばいけないことがある。つまり、"(笑)"とは、はたしてどんなテイストか。
    
 さて、森羅万象、すべての事物の核心の核心である"K点"はどうして"(笑)"なのか。
 これについては、"すべて結果は同じ"なのだから、なんらかの方程式を持ち出すのが一番説明が通りやすいし、そのほうが"(笑)"でもあろうから、ちょっとやってみる。
 エーと、 K=Xa×(ω-ω)
 ナンダ、これ。わはははははは。
 いやー、1時間考えてコレなんだからやめたほうがいいな。あはは。
 つまり、K点というものは価値や意味をはぎ取った状態のことである。
 価値や意味に肉迫することが、核心に迫ることであるのならば、その核心の核心、つまりK点は、それらの価値と意味をもはぎ取った結果でなければならないだろう。
 なぜならば、それらの価値観と意味は我々が自ら創り出した勝手な決まり事でしかないからだ。たとえば、オカネのようにね。
 それら作り出された価値と意味が付随する限りK点とは言えない。K点とは、作り出されたあらゆる価値と意味を除いた地点である。K点にたどり着けば、我々にとっての森羅万象はただ単に森羅万象なだけで、なんら価値も意味もないという結論が出るのだ。これをもって、虚しいと感じるようではまだまだ人生修行が足りないよ。これをもって"(笑)"を感じなければまだまだ人生修行が足りないよ。これをもって"(笑)"を感じなければ、これから先の話は、マニュアルも読まないで、シミュレーションゲームをプレーしようとするのに等しい。
 森羅万象は森羅万象でしかない、我々はどこにもいない幽霊を見ているに等しい、ということを、我々は薄々感じていただろう。そうしたことをここで改めてあからさまにすることは、ワタシにとって、この上なく、まるで「人殺しはよくない」と言うのと同じくらいみっともないことである。しかしね、これは必ずや知っておかねばならないことなのだ。「人殺しはよくない」と言うのと同じように。
     
 価値と意味を教育する最大のシステムが学校というものであるが、そこでは、K点のことを決して教えてはくれない。なぜであろう。"我々と我々をとりまく世界は本質的には無意味だし、空虚である"などと言おうものなら、翌日から誰も学校なんかには出て来なくなるからだろうか。家に閉じこもって親指をしゃぶったまま「あばばばば」とか言ってるだけになるからだろうか。
 我々はすでにそこまでナイーブではない。たかが学校やIMONでそう言ったからといって信じるヤツはそう多くはないだろう。だからIMONではわざわざ言う。
 K点=(笑)
 これがたぶんこれからの時代のルールである。
    
     
 えー、そろそろ秋風が立ってきましたね。
 この連載も最近は季節の挨拶での始まりが多くなったが、この季節のご挨拶というものはなかなかいいものである。
 晴れの日は「いい天気ですねー」、雨が降ると「降ってますねー」、暑いと「暑いですねー」、寒いと「寒いですねー」、風が吹けば「風が強いねー」、雪が降ると「積もりますかねー」、台風になると「困りましたねー」などと言ったりする。当たり前のことをわざわざ言っているだけである。
 ここに当然、"情報"というものはない。みんな知ってることばかりだ。そりゃあそのあと「静岡のほうでは37度だったそうですよ」とか続いたりもするが、そのあと、各自の"お天気論"を戦わせたりしなければそれはそれで結構。なにがおもしろい、なにがおもしろくないという情報ばかりを、我々はシコタマ持たされているのが昨今である。
 つまり"評価"を下さねばならないことばかりだ。"とりあえず評価はおいといて"というものが昔から一番強かったが、今はそれだけが強い。たとえば、テレビの時代劇、ニュース番組、踊るポンポコリン、そして季節の挨拶。かつて"一億層評論家"とか言われた大衆は、"評価"ばっかりしてるのに倦み、飽きたということだろう。
 もしかして、季節の挨拶こそ次のトレンドかもしれない。"挨拶産業"とかが流行ったりして。あははは。そんなわけないか。
   
 えー、この"季節の挨拶"でもって、"(笑)"をもう少し具体的に立証できないだろうか。
 ワタシは中学生のころ、親しい間柄のヤツに、いきなり「今日はいい天気だねー」とか「寒くなったね」などという冗談を言っては笑いをとっていたことがある。それは中学生という"情報"を欲しがるさかりの年ごろの間で、季節の挨拶などすれば笑われるものだ。"情報"というのは、当然、"意味"ということである。"意味"のないものを"情報"とは言わないのである。
 中学生にとっては、季節の挨拶などなんの意味もないのだ。無意味なものは、結局のところ笑われる。
 郷ひろみ夫妻の新居の庭にニワトリ小屋があったらどうだろう。これは笑うに値するが、本質的には無意味ではない。我々の中での"郷ひろみ夫妻"というGーIMONにとっては、はなはだ異形なものであるぶんだけ無意味で笑いを誘うというのがその実体であるし、郷ひろみ夫妻にとっては"新鮮な卵を食べられる"という、あの人ならホントにやりかねないマジメな意味も相乗効果を高めているだけだ。こういうものは笑いというもののシステムであって、決して"(笑)"ではない。
 そうなると、"中学生と季節の挨拶"も、"笑い"のシステムであって、"(笑)"ではないということになる。そう、"(笑)"ではないということになる。そう、"(笑)"ではないのだ。
 "(笑)"とはOSであり、"笑い"はその上で動作するアプリケーションソフトである。
    
    
 あらゆる"意味"をはぎ取れば、残るのは"K点"である。つまり、そこが前回も言った、核心の核心こと"K点"である。
 ワタシはK点と具体的な"(笑)"をみなさんに見せてあげることはできない。ただ「森羅万象そのK点は"(笑)"だ」と言っているだけである。
 たとえ見せてあげることができたとしても、誰がそれをK点で"(笑)"なのだと証明できるだろう。そういう意味では非常に"科学的"な理論を展開しているのではないだろうか、ワタシって。物理や数学などの科学は、文学や哲学を、"ああして、こうして"という"現象学"でしかないという。しかし、物理学や数学などの科学もまた、現象学ではないのか。なぜならば彼らが説明し立証したものは、DNAにしろ量子論にしろ、やはり"現象"でしかないからだ。そして、現象を立証するのにも、現象を使うしかないのが科学である。
 我々は、科学に「なぜ」と問う。科学は「こうだから」と、"物質の性質"という現象をもって説明する。そして我々はまた「なぜ」と言うだろう。結末はどんどん伸びていくばかりだ。物理学が見つけた"最小物質"と言われるクォークにしろ、"それより小さいものは見つかっていない"という理由によってそうなっているだけである。物理学などの化学が到達した"最小物質"がクォークだというのならば、文学や哲学が到達した"本質的に森羅万象は森羅万象でしかない"というK点のほうが、まだ結末に近いのではないだろうか。だからこそ、文学と哲学の役目はとりあえず終わったのだろう。
    
 科学の理論や発見などというものを、我々は身近に感じることはない。それを信じ、身近に感じるのは、その理論や発見に基づいて作られた製品や技術を目にするときだけである。
 文学と哲学が発見した"森羅万象は森羅万象でしかない"というK点理論が、IMONによって身近になるかどうかはわからない。ましてや具体的な製品になるかどうかというと、これまたわからない。まさか「さぁさぁ、K点理論に基づいた精神安定剤だよ! 安いよ!」とか言って通信販売とかコミケで売ったりするわけにもいかないしね。いや、それもおもしろいかもしれない。
 それがコミケになるか通販になるか、パソコンショップの店頭販売になるのかはわからないが、いずれそうしてみたいとは思う。ただ、メディアについては確約できない。ビッブのOSになるのか、または音楽CDなのか、それこそパソコンソフトか、はたまたマンガかもしれないだろう。
    
 ワタシは前回"K点=(笑)"がこれからのルールになると言って結びとした。なぜそんなことを言われるのかわからない人がほとんどだろう。
 "K点=(笑)"というものをはじめて聞いた人でも、"価値観の多様化"という言葉は聞いたことがあるだろう。もし多様化したのならば、それまでの価値観というものはどういうものだったのか。人は「それはね、愛です」と言うだろうし、「反体制だ!」と言うかもしれないし、「銭ズラ」と言う人もいたし、今と比較してもそう谷綱価値観だったとは言えない。
 我々の価値観が多様化したのではなく、愛も反体制も銭も我々にとって、かつてのようなリアリティーがなくなっただけだろう。かくて、我々はそれらの価値観という"共通の挨拶"を持っていた。その共通の挨拶がリアリティーを失ったとき、我々はとりあえず"気持ちいい"という価値観にリアリティーを感じたのだ。
 そして、問題はその"気持ちいい"という、共通の挨拶を価値観にできなかった者がいることだ。そういった人々の前にこそ"人間関係"という問題が立ちはだかり、彼らを怯えさせ、ワタシはワタシで"季節の挨拶"を再評価したりすることになる。
    
    
 さてまだ"笑"である。安心してください。"(笑)"については今回でおしまいです。
 "愛"に疲れ、"反体制"に飽き、"ゼニ"をも手に入れた人々は"気持ちいい"という価値観を採用した。しかし、"気持ちいい"を採用できなかった人々もいる。それらの人々はどうしたろう。
 それらの人々の一部は原発に反対し、環境破壊に反対し、ゴルフ場に反対しはじめた。なぜならば"原発"も"環境破壊"も"ゴルフ場"も"気持ちいい"が源だからだ。
 つまり、価値観というのもやはり"二値"である。ONがあれば必ずOFFもある。
 原発と環境破壊とゴルフ場に示されるように、"気持ちいい"には"限界がない"という意味で限界がある。
 そして前回も言ったが"気持ちいい"というのはレッテルを貼り歩くという意味で横移動なのだ。これもまたひとつの限界を持つ。
 今や世界中どこに行っても日本人観光客だらけだというのがその象徴でもあるだろうし、最近はシャトルに乗ってとうとう宇宙まで行くという女性がいるらしいじゃないか。しかし、"気持ちいい"という価値観は圧倒的である。文句の言いようがない。
 ただ"欲がない"ということはできるだろう。報酬にカネだけを求めるのと同じぐらいに"欲がない"。
 そして、その"欲がない"という意味でも圧倒的に正しいのが"気持ちいい"というものだ。
   
 "気持ちいい"が圧倒的に正しいのならば、原発や環境破壊に心を痛めるのもやはり圧倒的に正しいだろう。こちらも文句の言いようがない。しかし、当然"どちらでもない"という人間がいる。そして、古今東西、"どちらでもない"人間が一番多いのが歴史的事実というものだ。アンケートをとって見ればわかるだろうが、"まぁまぁ"とか"普通"とか"うーーーーん"とかが統計上一番多い。"気持ちいい"も"環境破壊"も彼らにとってみれば"まぁまぁ"なのだ。でなけりゃ"うーーーん"。
 つまり基本的に"どっちでもいい"とか"ムキになるようなことじゃない"とか"なんとかなる"という人々である。そして、これも圧倒的に正しい。なぜならば、"どっちでもいい"し、"ムキになるようなことじゃない"し、"なんとかなる"し、"うーーーん"なのが世の中というものだからである。
「あー、じゃあ、正しいことばっかりじゃないか」と思ったアナタは間違ってはいない。しかし、クチに出して言うのならこう言ってほしい。「こういうことしかできない」と。しかも、我々が中身を知りたいと思って開けつづけた箱は結局カラッポだったのだ。これが"(笑)"でなくてなんだと言うのだろう。
 "(涙)"だの"(虚)"だのであってはいけないのだよ。