ワインディング・ノート26(『IMONを創る』・いがらしみきお・(笑))

 今回から2,3回ほどの予定で、IMON3原則の最後"(笑)"について述べたい。
 これまでほかの2原則である"リアルタイム"、"マルチタスク"の意味と効用について述べたわけだが、たぶん「むずかしい」、「よくわかたない」、「夏バテになった」などの感想が多かったかもしれない。
「世の中、キミたちのわかることばかりではない」などと言うつもりはないが、物事は核心に迫れば迫るほどむずかしくなっていくもんです。
 松尾伴内は、あれほどわかりやすい人間のように見えても、ひと晩一緒に酒を飲んでみたらわからないよ。そのまんま東の嫁さんに惚れてたかもしれないじゃないか。そんなことないか。あはは。
 実際、核心に迫れば迫るほど世の中むずかしいことばかりである。しかし、核心の核心に迫ったとき、物事はこの上なく単純なものになるのではないか。まるで台風の目に入ったときのように。
 IMONでは、すべてのことの核心の核心は"(笑)"であると考える。核心の核心(以降これを"K点"と呼ぶ)が"(笑)"であるという例はいくらでもある。それこそ森羅万象すべてのK点は"(笑)"であると言ってもいいので、それらの森羅やら万象やらをいちいちとりあげることはできないが、例によってIMON流に森羅を独断し、万象を偏見してみたい。ただ、その前にやらねばいけないことがある。つまり、"(笑)"とは、はたしてどんなテイストか。
    
 さて、森羅万象、すべての事物の核心の核心である"K点"はどうして"(笑)"なのか。
 これについては、"すべて結果は同じ"なのだから、なんらかの方程式を持ち出すのが一番説明が通りやすいし、そのほうが"(笑)"でもあろうから、ちょっとやってみる。
 エーと、 K=Xa×(ω-ω)
 ナンダ、これ。わはははははは。
 いやー、1時間考えてコレなんだからやめたほうがいいな。あはは。
 つまり、K点というものは価値や意味をはぎ取った状態のことである。
 価値や意味に肉迫することが、核心に迫ることであるのならば、その核心の核心、つまりK点は、それらの価値と意味をもはぎ取った結果でなければならないだろう。
 なぜならば、それらの価値観と意味は我々が自ら創り出した勝手な決まり事でしかないからだ。たとえば、オカネのようにね。
 それら作り出された価値と意味が付随する限りK点とは言えない。K点とは、作り出されたあらゆる価値と意味を除いた地点である。K点にたどり着けば、我々にとっての森羅万象はただ単に森羅万象なだけで、なんら価値も意味もないという結論が出るのだ。これをもって、虚しいと感じるようではまだまだ人生修行が足りないよ。これをもって"(笑)"を感じなければまだまだ人生修行が足りないよ。これをもって"(笑)"を感じなければ、これから先の話は、マニュアルも読まないで、シミュレーションゲームをプレーしようとするのに等しい。
 森羅万象は森羅万象でしかない、我々はどこにもいない幽霊を見ているに等しい、ということを、我々は薄々感じていただろう。そうしたことをここで改めてあからさまにすることは、ワタシにとって、この上なく、まるで「人殺しはよくない」と言うのと同じくらいみっともないことである。しかしね、これは必ずや知っておかねばならないことなのだ。「人殺しはよくない」と言うのと同じように。
     
 価値と意味を教育する最大のシステムが学校というものであるが、そこでは、K点のことを決して教えてはくれない。なぜであろう。"我々と我々をとりまく世界は本質的には無意味だし、空虚である"などと言おうものなら、翌日から誰も学校なんかには出て来なくなるからだろうか。家に閉じこもって親指をしゃぶったまま「あばばばば」とか言ってるだけになるからだろうか。
 我々はすでにそこまでナイーブではない。たかが学校やIMONでそう言ったからといって信じるヤツはそう多くはないだろう。だからIMONではわざわざ言う。
 K点=(笑)
 これがたぶんこれからの時代のルールである。
    
     
 えー、そろそろ秋風が立ってきましたね。
 この連載も最近は季節の挨拶での始まりが多くなったが、この季節のご挨拶というものはなかなかいいものである。
 晴れの日は「いい天気ですねー」、雨が降ると「降ってますねー」、暑いと「暑いですねー」、寒いと「寒いですねー」、風が吹けば「風が強いねー」、雪が降ると「積もりますかねー」、台風になると「困りましたねー」などと言ったりする。当たり前のことをわざわざ言っているだけである。
 ここに当然、"情報"というものはない。みんな知ってることばかりだ。そりゃあそのあと「静岡のほうでは37度だったそうですよ」とか続いたりもするが、そのあと、各自の"お天気論"を戦わせたりしなければそれはそれで結構。なにがおもしろい、なにがおもしろくないという情報ばかりを、我々はシコタマ持たされているのが昨今である。
 つまり"評価"を下さねばならないことばかりだ。"とりあえず評価はおいといて"というものが昔から一番強かったが、今はそれだけが強い。たとえば、テレビの時代劇、ニュース番組、踊るポンポコリン、そして季節の挨拶。かつて"一億層評論家"とか言われた大衆は、"評価"ばっかりしてるのに倦み、飽きたということだろう。
 もしかして、季節の挨拶こそ次のトレンドかもしれない。"挨拶産業"とかが流行ったりして。あははは。そんなわけないか。
   
 えー、この"季節の挨拶"でもって、"(笑)"をもう少し具体的に立証できないだろうか。
 ワタシは中学生のころ、親しい間柄のヤツに、いきなり「今日はいい天気だねー」とか「寒くなったね」などという冗談を言っては笑いをとっていたことがある。それは中学生という"情報"を欲しがるさかりの年ごろの間で、季節の挨拶などすれば笑われるものだ。"情報"というのは、当然、"意味"ということである。"意味"のないものを"情報"とは言わないのである。
 中学生にとっては、季節の挨拶などなんの意味もないのだ。無意味なものは、結局のところ笑われる。
 郷ひろみ夫妻の新居の庭にニワトリ小屋があったらどうだろう。これは笑うに値するが、本質的には無意味ではない。我々の中での"郷ひろみ夫妻"というGーIMONにとっては、はなはだ異形なものであるぶんだけ無意味で笑いを誘うというのがその実体であるし、郷ひろみ夫妻にとっては"新鮮な卵を食べられる"という、あの人ならホントにやりかねないマジメな意味も相乗効果を高めているだけだ。こういうものは笑いというもののシステムであって、決して"(笑)"ではない。
 そうなると、"中学生と季節の挨拶"も、"笑い"のシステムであって、"(笑)"ではないということになる。そう、"(笑)"ではないということになる。そう、"(笑)"ではないのだ。
 "(笑)"とはOSであり、"笑い"はその上で動作するアプリケーションソフトである。
    
    
 あらゆる"意味"をはぎ取れば、残るのは"K点"である。つまり、そこが前回も言った、核心の核心こと"K点"である。
 ワタシはK点と具体的な"(笑)"をみなさんに見せてあげることはできない。ただ「森羅万象そのK点は"(笑)"だ」と言っているだけである。
 たとえ見せてあげることができたとしても、誰がそれをK点で"(笑)"なのだと証明できるだろう。そういう意味では非常に"科学的"な理論を展開しているのではないだろうか、ワタシって。物理や数学などの科学は、文学や哲学を、"ああして、こうして"という"現象学"でしかないという。しかし、物理学や数学などの科学もまた、現象学ではないのか。なぜならば彼らが説明し立証したものは、DNAにしろ量子論にしろ、やはり"現象"でしかないからだ。そして、現象を立証するのにも、現象を使うしかないのが科学である。
 我々は、科学に「なぜ」と問う。科学は「こうだから」と、"物質の性質"という現象をもって説明する。そして我々はまた「なぜ」と言うだろう。結末はどんどん伸びていくばかりだ。物理学が見つけた"最小物質"と言われるクォークにしろ、"それより小さいものは見つかっていない"という理由によってそうなっているだけである。物理学などの化学が到達した"最小物質"がクォークだというのならば、文学や哲学が到達した"本質的に森羅万象は森羅万象でしかない"というK点のほうが、まだ結末に近いのではないだろうか。だからこそ、文学と哲学の役目はとりあえず終わったのだろう。
    
 科学の理論や発見などというものを、我々は身近に感じることはない。それを信じ、身近に感じるのは、その理論や発見に基づいて作られた製品や技術を目にするときだけである。
 文学と哲学が発見した"森羅万象は森羅万象でしかない"というK点理論が、IMONによって身近になるかどうかはわからない。ましてや具体的な製品になるかどうかというと、これまたわからない。まさか「さぁさぁ、K点理論に基づいた精神安定剤だよ! 安いよ!」とか言って通信販売とかコミケで売ったりするわけにもいかないしね。いや、それもおもしろいかもしれない。
 それがコミケになるか通販になるか、パソコンショップの店頭販売になるのかはわからないが、いずれそうしてみたいとは思う。ただ、メディアについては確約できない。ビッブのOSになるのか、または音楽CDなのか、それこそパソコンソフトか、はたまたマンガかもしれないだろう。
    
 ワタシは前回"K点=(笑)"がこれからのルールになると言って結びとした。なぜそんなことを言われるのかわからない人がほとんどだろう。
 "K点=(笑)"というものをはじめて聞いた人でも、"価値観の多様化"という言葉は聞いたことがあるだろう。もし多様化したのならば、それまでの価値観というものはどういうものだったのか。人は「それはね、愛です」と言うだろうし、「反体制だ!」と言うかもしれないし、「銭ズラ」と言う人もいたし、今と比較してもそう谷綱価値観だったとは言えない。
 我々の価値観が多様化したのではなく、愛も反体制も銭も我々にとって、かつてのようなリアリティーがなくなっただけだろう。かくて、我々はそれらの価値観という"共通の挨拶"を持っていた。その共通の挨拶がリアリティーを失ったとき、我々はとりあえず"気持ちいい"という価値観にリアリティーを感じたのだ。
 そして、問題はその"気持ちいい"という、共通の挨拶を価値観にできなかった者がいることだ。そういった人々の前にこそ"人間関係"という問題が立ちはだかり、彼らを怯えさせ、ワタシはワタシで"季節の挨拶"を再評価したりすることになる。
    
    
 さてまだ"笑"である。安心してください。"(笑)"については今回でおしまいです。
 "愛"に疲れ、"反体制"に飽き、"ゼニ"をも手に入れた人々は"気持ちいい"という価値観を採用した。しかし、"気持ちいい"を採用できなかった人々もいる。それらの人々はどうしたろう。
 それらの人々の一部は原発に反対し、環境破壊に反対し、ゴルフ場に反対しはじめた。なぜならば"原発"も"環境破壊"も"ゴルフ場"も"気持ちいい"が源だからだ。
 つまり、価値観というのもやはり"二値"である。ONがあれば必ずOFFもある。
 原発と環境破壊とゴルフ場に示されるように、"気持ちいい"には"限界がない"という意味で限界がある。
 そして前回も言ったが"気持ちいい"というのはレッテルを貼り歩くという意味で横移動なのだ。これもまたひとつの限界を持つ。
 今や世界中どこに行っても日本人観光客だらけだというのがその象徴でもあるだろうし、最近はシャトルに乗ってとうとう宇宙まで行くという女性がいるらしいじゃないか。しかし、"気持ちいい"という価値観は圧倒的である。文句の言いようがない。
 ただ"欲がない"ということはできるだろう。報酬にカネだけを求めるのと同じぐらいに"欲がない"。
 そして、その"欲がない"という意味でも圧倒的に正しいのが"気持ちいい"というものだ。
   
 "気持ちいい"が圧倒的に正しいのならば、原発や環境破壊に心を痛めるのもやはり圧倒的に正しいだろう。こちらも文句の言いようがない。しかし、当然"どちらでもない"という人間がいる。そして、古今東西、"どちらでもない"人間が一番多いのが歴史的事実というものだ。アンケートをとって見ればわかるだろうが、"まぁまぁ"とか"普通"とか"うーーーーん"とかが統計上一番多い。"気持ちいい"も"環境破壊"も彼らにとってみれば"まぁまぁ"なのだ。でなけりゃ"うーーーん"。
 つまり基本的に"どっちでもいい"とか"ムキになるようなことじゃない"とか"なんとかなる"という人々である。そして、これも圧倒的に正しい。なぜならば、"どっちでもいい"し、"ムキになるようなことじゃない"し、"なんとかなる"し、"うーーーん"なのが世の中というものだからである。
「あー、じゃあ、正しいことばっかりじゃないか」と思ったアナタは間違ってはいない。しかし、クチに出して言うのならこう言ってほしい。「こういうことしかできない」と。しかも、我々が中身を知りたいと思って開けつづけた箱は結局カラッポだったのだ。これが"(笑)"でなくてなんだと言うのだろう。
 "(涙)"だの"(虚)"だのであってはいけないのだよ。

 

ワインディング・ノート25(『IMONを創る』・いがらしみきお・カント)

 それでは、ソフトの問題はどうなのか。
 かつて人間には"我々は何者なのか"というソフト上の問題があった。ゆえに、そこここで若者やオジサンが、"人生とは"とか"生きることとは"とか、"愛とは"についてコジツケた理屈を言っていたものである。
  今はどうなのか。そこここの若者とオジサンはどうしているのか。そこここの若者とオジサンは"人間関係"について語っているのではないか。みなさんだってご自分でそう思うでしょ? "今、自分にとって一番大きい問題は人間関係だ"って。オカネがないことですか? それはハードの問題なんです。オカネはハー ドなんです。だからハードでしか解決はつかない。そういうハードの問題を抜きにした場合はどんな問題が残りますか?
 ね? "人間関係"でしょ?
 え? 恋愛問題?
 それはね、恋愛というものが"人間関係"の極北なんです。その極北のドンヅマリにあるのが家族ってもんなんです。
 かつて"おつきあい"だったものが、今では"人間関係"と呼ばれる。それは単に言葉を変えただけではなく、まったく異なったものに変質したのではないか。
 我々は"人間関係"をまるでシゴトのように対処しはじめているはずである。ただ、この"シゴト"には給料が出ない。いきおい、我々のこのシゴトはネガティブなものになる。
 しかし、給料の代わりに"快感"をもたらすことはできるのではないか。マンガ家にとって、たとえ売れなくとも、その作品がいくばくかの快感をもたらしてくれるように。
  IMONは"人間関係"を作品という見地から捉えたい。
 確かに、今現在、我々のタッチしている人間関係は駄作ばかりであるかもしれない。
 それは我々にはまだ技術がないからでもあるだろう。
  たとえば"リアルタイム"、"マルチタスク"、"(笑)"という技術が。この3つの技術があれば、作品としての、傑作である人間関係が創れるかどうかはワタシにもわからない。今はまだ、"人間関係"がテーマであるとは誰も言わないし、そしてそれはまだ始まったばかりだ。どこで始まっているのか。
 "パソ通"でである。
 そして、パソ通こそが作品としての人間関係を創る実験の場にもなるはずであるし、事実それを無意識に実践しているのが、いわゆるパソコンオタクなのではないか。
 我々は、作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう。
 そのための"リアルタイム"であり、"マルチタスク"、そして"(笑)"なのだ。


 もう引用機械に成り果てましたが、僕はこの本を読んだ時に、初めてカントが腑に落ちたような気持ちがしたのでした。

あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい
(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)


 カントが言うのは「作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう」ということに他ならないのではないでしょうか。
 芸術家は、その作品を創ることを「目的」とし、創られた作品を「手段」として金銭や人脈を得たいわけではない。そんな者がいたとして、そんな者は芸術家と呼ばれはしない。
 人間関係も、そのように「目的」と捉えなければならないのです。作品を創らないなら。
  20年前にパソ通と呼ばれていたものは今インターネットと呼ばれ、リアルタイムのコミュニケーション・ツールなど言うまでもない。無目的な「つぶやき」や 「いいね」はそれ自体が目的化したことの証拠なのですが、同時に、人はすぐにそれを「手段」としてしまいます。我々は、やはりまだ「人間関係の芸術家」に はほど遠い。
 そこでカント本人を参照してみます。カントは偏屈な社交家として知られています。

 午前4時45分、従僕ランペは主人の部屋に堂々と入っていき、「教授様、時間でございますよ」と叫ぶのが日課であった。そして、時計が5時を打つまでに、カントは朝食の食卓に座った。彼はお茶を何杯か飲み、それから1日に一度だけのパイプを吸い、そして朝の講義の準備を始めた。
 カントは階下の講義室へ降りていき、7時から9時まで教え、それから書くために2階へ戻った。12時45分をきっかりに、カントは料理人に向かって「時計が3/4を打ったぞ」と叫ん だ。それは、昼食が出されなければならないことを意味していた。彼が「ひと口」と呼んだ酒を飲んだ後、午後1時ちょうどから昼食を開始した。カントにとっ て昼食は1日で唯一のまともな食事であったし、また社交的であったカントには昼食が会話をする理由でもあったため、彼は昼食をとても楽しみにしていた。そして、実際にカントは――私も彼は正しいと思うのだが――、会話が消化作用を助けると信じていた。彼はまた、チェスターフィールド卿の規則に従った。この 規則とは、昼食を共にする客人の数が美の女神の数[3人]より少なくてもならず、芸術[文芸]の女神の数[9人]より多くてもならず、通常4人から8人の間でなければならないというものでもあった。食事中、カントは決して哲学のことを語らず、また昼食に女性が招待されたことは一度もなかった。
(サイモン・クリッチリ 『哲学者たちの死に方』 杉本隆久/國領佳樹 訳)


  こうした習慣は、しばしば神経症的な強迫観念だと言われますが、なんということはない、これは、社交を、人間関係を、傑作にしようと希求する姿であるように、僕には映ります。毎日のルーティン・ワークを極限まで単純・効率化して、精神・肉体的ブレをなくし、自身の姿を傑作として結実させようとするイチローを思い起こさせます。

 熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならない。
  それはリアルタイムであり、マルチタスクでありました。何か問題が起こったとして、それこそ人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、朝がきたら起きて、 お腹がすいたらご飯を食べる。別の事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。リアルタイムを生きる限り、正しいも間違いもないのだから、悩んでいる意味はないのです。
 そして、女がいたら、その女は、女との人格の交流は、性行為のための「手段」となってしまいかねない。そんなことでは良くないのです。
 こうしたことの集団知の実践が「なんJ」に達したのだと思いましたが、詳しく言うのは避けて、続く。

 

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

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  • 作者:カント
  • 発売日: 1976/01/01
  • メディア: 文庫
 

 

 

哲学者たちの死に方

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