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宵の明星2(まだ普通)

 それから、わたしたちは少しずつ言葉を交わすようになった。でも、どこかこそこそと。わたしが「竹下さん」ときどき「奈緒」に変わったころ、千鈴の視線が柔らかくなった。その千鈴が、ゆかりちゃんと話している。千鈴は少し嬉しそうに笑っている。ははん、運試しがうまくいったのか、と思って見ていると、ちょっと来いというふうに顎をしゃくった。やっぱりこいつには逆らえない。気が小さいと自分でも思う。
 廊下の隅で、千鈴が小さな声で言った。
「あのこと、誰にも言ってない?」
 こくりとうなずく。
「書類選考、通ったの」
「そりゃあ、通るでしょうよ」
 あんたが通らないで、だれが通る?
「そうかな。でも、ここまで。親に認められるわけないから、面接には行かない。行けっこないし」
「ほんとは行きたかったんだ」
「別に。美少女っていわれたってしょうがない。あたしが望んでいるのは、そんなことじゃないし」
「……星だもんね」
「えっ?」
「女優になりたいって思ってるのかなって」
 千鈴の眉がキッと一センチぐらいはっきり上がり、顔がぐっと近づいてきた。そしてわたしの腕を思いきりつかむと、怖い顔で言った。
「そんなこと、人にいったら承知しないから」
「わかってる」
 五秒見つめて、千鈴はようやくわたしの腕から手を離した。痛いぞ、ばか力め。
「……なんで、そう思ったの」
 わたしが感じてること、口にしたら怒るかな。でも、いってみた。
「演じてるじゃん、ガッコでも、家でも」
 千鈴はまじまじとわたしを見た。それから、ふっと口をゆがめて笑った。
「いいよね、東京に帰れるあんたは」
「へっ?」
「ほんと、にくたらしいったらない」
 って、わたしのこと? だよね。ほかにはいない。だけど、そいつは筋違いってもんだろう。
「上から押しつけるのも、足かせもない。ある日、ふらっとやってきて、当たり前みたいに、春が来たら東京に戻っていく」
 そう言われても困る。やなことがあるのはあんただけじゃない。けど、わたしは黙って千鈴を見つめる。また千鈴が口を開く。
「うんざり。ときどき、何もかも投げ出したくなる。山も、ローションも、見るのもイヤ!」
 けど、見ないわけにはいかないぞ。ずっと目をつぶってることはできない。目を開けてみれば、どうしたって山と四角いローション工場が視界に入ってくるのがこの土地だ。
「わかる? わかんないよね。こんなとこ、どこもかしこも息苦しい。狭くて」
「わたしがいた練馬より広い」
「面積じゃないでしょ。みんな、出て行く。出て行ける人はいい。でもわかる? あたしは跡取りなの。鳴滝ローションの。出て行く自由なんてないの」
 ようやくわかった。越して来た時から、何でこいつだけあんなに素っ気なく、それでいて敵意が見られたのか。大発見だ。こんな何もかも恵まれているお嬢様に比べたら、とりたてて取り柄のないわたしが嫉妬されることもあるんだ。ただ、東京に戻れるというだけで。だけど、何でだろう。無性に腹立つ。鳴滝ローションあっての鳴滝千鈴だとでもいうのだろうか。これほど偉そうに振る舞うのが? そんなはずはない。
「別に、家を背負うこともないだろうに、カタツムリじゃあるまいし。そりゃ、あんなヌルヌルしたものの中に沈んでたらずいぶんイヤな気分だろうね。でもなんでそんなこと気にする必要あるのよ。鳴滝千鈴は鳴滝千鈴なんだから」
 言ってから、まずいと思った。思わず後ずさりしそうになったけど、千鈴はプッと吹いた。
「やっぱ、あんたって変」
 拍子抜けしているわたしに初めていたずらっぽい顔を寄せて千鈴は言った。
「ねえ、じゃあ、アレ使ったんだ?」
 改めて見るその顔、声。ジャージなのにいい匂いがしてくらくらする。女の子としての才能をもった女の子。書類選考に通ったという凄味も加わって、おそるおそる、でも確実にわたしはうなずいてしまった。
「気持ちよかった?」
「そりゃあ、ね。別に手でちょっとやっただけ」
 平静を装って言う。ほんとはもうちょいやっている。
「あんた、そんななんだ」
「は? なにそれ。だってそっちが渡したんでしょ。だからさ、私のことはとにかく、なんていうの、鳴滝千鈴は、あんなものにこだわってる必要ないってことよ。だって、あんなの、ちょっと使うのがいいんでしょ」
「ちょっと使う?」
 そう言って千鈴は小さく声を上げて笑った。わたしの顔が赤くなる。
「……だから! 美味しいものも食べれて、かわいい格好できて、そういうとこだけ上手く使って、得してりゃいいじゃない。正直、うらやましいね。平凡なわたしからしたら」
 千鈴は相変わらず、見せたことのないふざけた笑みを浮かべている。
「何よ」
 でも、千鈴はそれ以上わたしを追い込むことはしなかった。
「ありがとう。そうだね」
 そして急に真面目な顔になって、窓から学校の裏手の山を望んだ。わたしもそっちを見る。なんだかやっぱり馴染みきれず、キレイだなんて感心してしまうその景色を見る。
「なんか仲よくなれそうって、そんな気がしない?」

(つづく)