待つババア



©Judy Mundy http://www.jmundyphotography.com/


 ババアはいつも、どこを見ているかわからない目で、道の遠くをぼんやり眺めている。
 ババアは待っていた。もう決して帰って来ることはないジジイのことを一日千秋の思いで待っていた。小雨の日も風の日も、ババアは待っていた。傘がいるくらい雨が降っているときや雪の日は「家にいます」という看板を出していた。
「ババアはどうしていつまでも待っているの?」僕は訊いた。
「ジジイとの約束だよ。ジジイが帰ってくるのをあたしは待ってるって、そう約束したんだよ」ババアは言った。
「でも、ジジイは戦争で死んじゃったんだろ」
 みるみるうちにババアの顔が変わった。口をゆがめて息を小刻みに吸ったり吐いたりしてフガフガいい出したので、僕は怖くなった。
「バ、ババア、ババアはそれは何なの。後ろの、ほら」僕は慌てて話を変えた。
 ババアは口をゆがめたまま振り返って、僕が指差した方を見た。
「拭くものだよ」またこっちを見た時、ババアは気の抜けた表情に戻っていた。
「拭くもの? 麺じゃないの、なんかの麺じゃないの? いや麺かな? 何これ!」
「麺じゃないよ。麺のはずないさ。なんで麺なんだい。これはね、拭くものなんだよ。あたしはね、このなんだかわからない拭くもので、ジジイの顔を拭いてやるんだよ。なぜならこれは拭くものだからね。そう、拭くものなんだよ」
「でも、ババア。これは僕には一本一本分かれてるように見えるよ。ババア、僕、触ってみていい?」
「だめだよ」
「ね、いいでしょ。拭くものなら、触ってもいいでしょ」
 僕は数歩歩み出て、それに手を伸ばした。一瞬の間にババアは背後から僕の腕を掴んでいた。
「だめったらだめだよ! これはジジイの顔を拭くものだよ。いんや顔だけじゃないさ、あと、腋とか首筋とかも拭くんだよ、ジジイは綺麗好きだから、この拭くものを渡したら、ひとたび渡したら、きっと膝の裏とかも拭くよ。股のところも拭くよ。それに、あたしらには想像もつかない、名前がわからない場所も拭くだろうね。拭くものを渡した日にゃ、拭くだろうね。それをお前が、お前が触っていいはずがないだろうが! 指一本、触れさせないよディー・フェンス! ディー・フェンス! ディー・フェンス! ディー・フェンス!」
 ババアは鬼のような顔で、狂ったようにディー・フェンスと絶叫し続けた。それはバスケットボールの応援風な言い方だった。僕はババアがいつスラムダンクを読んだのか考えてみたけど、わからなかった。ババアの筋張った腕は、恐ろしいほどの力で僕の腕時計をはめるらへんを握りつぶそうとしていた。
「バ、ババア、ごめんよ。触らないよ。でもさ、こんなに沢山あれば、ジジイを好きなだけ拭けるね」僕はババアの方を向いて力無く微笑んだ。
「ジジイの顔は、ジジイの顔は、ジジイの顔はそんなに汚れちゃいないよジジイの顔は!」
 ババアは僕の腕を思い切りねじ上げた。僕は小さな叫び声をあげながら、関節を守ろうとして変な体勢をとらざるを得なかった。痛い痛い痛い痛いたいたい、の体勢だ。ババアは腕を取ったまま顔をゆがめる僕の耳元に口を寄せ、囁くように「いいかい」と言った。
「ジジイの顔はねぇ……そりゃあ……綺麗なもんだよ……。あたしゃ初めて見た時、風呂上りかと思ったよ……、そんなジジイを、そんなジジイを……、あんたは、何だって……? 好きなだけ拭くんだってか! ジジイが不潔だってかい!!」
 僕の鼓膜が震えた。ババアの唾が耳から首筋にかけてかかるのがわかった。粒が大きかった。
「馬鹿言っちゃいけないよ! ええ! この拭くものでね、色んなところをサッと一拭きしたら終わりだよ。抗菌だよ。それでジジイはもう抗菌なんだよ! そこで拭くのは止めちまって、余りはサッと茹でて、ジジイと一緒にすするんだよ! あたしらは二人でね、これをすするんだよ! わかったらもう行っとくれ! ババアを放っておいとくれ!」
 僕は腕をかばいながら這這の体で逃げ出した。少し離れたところで振り向くと、ババアはもう、焦点の合わない目で道の向こうを眺めていた。