たかの2巻とのりしろの本

 けっこう前に、たかの2巻が出た。
 たかの2巻が出るなんて、とはもうさすがに思わないのは、たかの1巻が出た時に予想ができていたからで、順調な連載のペースに応じて出るべくして出たのだった。
 何らかの創作物を見て、上手い絵だとか巧みな見せ方だとかごちゃごちゃ言いたかったような時期も確かにあったけれど、最近では、結局、ある人間が何を見てどう考えいかに伝えようとしてきたかという生き方そのものが放つ、これまで一度も切れたことだけはないギリギリの電球あたたかな煌めきの前に立たされると、どんな白々とした明るさも「うるせーバカ」ぐらいにしか思えない気もする。
 かと言って、そういう興味深い人がマンガを描いたりするとは限らないのが世の中のむずかしいところだ。でも、たかさんはたかさんの傍から見たらたいへんな人生を生きて見て考えながら、『ドラゴンボール』を読んでマンガ描いて、たかたけしというマンガ家になって、連載もったマンガ家だから2巻を出したというわけなのだった。
 いるいないに関わらず、人の生き方に母なるものが関わらないはずはないけれど、先日、たかさんのお母さんが亡くなられた。その辺りの顛末は本人のブログ「今夜は金玉について語ろうか」で読むことができて、語ろうかじゃないよとずっと思うが、その記事だけでも一人の人間が何を見てどう考えていかに伝えようとしているかということがよくわかるから、それ以上、自分が何を書くでもない。ないけれど、「マンガ家になったことを伝えられて、あと棺に2巻も入れられてよかったですね」と思ったし、たかさんにもそんな風に言った。「それは思いますね」と返ってきて、父親が野村克也みたいに弱りそうだから話し相手になっているという報告を受けた。すごい精度で自分をカツノリになぞらえるんだなと思ったが言わず、半年ぶりのやりとりが終わった。
 だから、『契れないひと』の1巻と2巻はたかさんのお母さんと一緒に焼かれたわけだ。本というのは違うけれど同じ変なもんだから、自分の本棚にささっているのを見ると、これが徳島の火葬場で焼けたんだと思わないでもない。それで、水辺で気をつけしたたかと若かりしお母さんとか、引きこもりのお兄さんの部屋に続く階段とか、寝たきりになった後のお母さんの真上からとか、骨組みだけ残して燃えた車とか、こっちが見たいと言ったわけでもないのに見てきた写真が、代々木のデニーズの薄暗い照明と一緒にずいぶん思い浮かぶのは、作品にとっていいことか悪いことかわからないが、それらは明らかにたかさんが自分よりもっと生々しく目にし、きっと何事かもっと真剣に考えてきたものやことなのだった。一つや二つ欠けたところで『契れないひと』は別に描けたかもしれないそれらが、作品を見るこちらの目に煌めきを映しているのはどうも間違いがなくって、こういう関係ってどういう関係かわからないが、こういう関係でよかったと思ったりする。
 自分のこのブログの本も夏に出るけれど、たかさんの方でも少しはそんな感じで思うかも知れない。いやな言い方だが、こうして何冊か本が出るくらいに「成功」してうれしいと思うのは、たかさんと自分を一緒に思い浮かべた時だけだ。
 他にお世話になった人のことは跋文で書いたから、ここでは、たかの2巻にかこつけたこのぐらいにしておきたい。最後これは二十歳くらいまでの青いのりしろのためだけに言いますが、7月刊行の『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』をよろしくお願い致します。

 

契れないひと(2) (ヤンマガKCスペシャル)

契れないひと(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 

  

ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2020/07/10
  • メディア: 単行本
 

 

たかの1巻

 たかの1巻が出た(作品の話はしない)。
 たかの1巻が出るなんて、ネットでやりとりを始めた十数年前には夢にも思わなかったし、初めて会った八年前も思わなかったし、たかさんがちゃんとマンガを描いて色々動き始めていた五年前ぐらいに逆に一番思わなくなった。その頃にアドバイスを求められても「背景を描くのはどうですか?」としか言えなかったし、去年のいつかにどこかで会った時も、もう連載に向けて動き始めている感じだったのに、たかの1巻が出ることには考えがいかなかった。
 でも、今、たかの1巻が出ているし、四回笑った。
 『ナニワ金融道』の青木雄二が初めて描いたマンガを「盛場ブルース」という。アパート暮らしの主人公が盛り場のウェイターのバイトで頑張りつつ「俺はいったいどうなるのだろうか?」とか絶望してるマンガで、おそらく自身の仕事経験を下手なりに一生懸命描いているというだけの作品という感じでたいていひどいのだが、背景が描き込んであるので五年前のたかさんより断然良い。
 僕が「背景を描くのはどうですか?」と言う時も、青木雄二のことを考えていたし言ったこともある気がするけれど、こうしてたかの1巻が出た今になって『盛場ブルース』を思うと、一時期にたかさんが描いたり書いたりしていたコンビニバイトでの経験と絶望によく似ている気がして、けっこう感慨深いものがある。
 青木雄二はその原稿を姉に送っていて、添えた手紙にこう書いている。
「もしも私が劇画家になったならばこれは貴重な物となるであろうから大切に保管しておいてもらいたい。仕事から帰って毎日インスタントコーヒーをすすりながらペンを走らすきょうこの頃です。」
 インスタントコーヒーをすすっておけばいいものの、たかさんは毎日ファミチキだのアメリカンドッグだの、とにかくホットスナックでまとまった借金をつくっていて、そんな中で背景のほとんどないマンガを描いたり、他人のために同人誌を出したりしていて、なぜそんなことができるのかよくわからなかった。でも、その間も、マンガ家になりたいということはずっと言っていた気がするし、そういうところは青木雄二みたいだったかも知れない。
 今、たかさんとは年に一回、会うか会わないかというぐらいで、僕は他の誰とも会わないからそれでも一番よく会う人なのだが、いざマンガ家になって連載が始まったり単行本が出たりしても「おめでとう」という気持ちが僕にはあんまりよくわからず、そうすると節目にも特に伝えることがないので、連絡もあまりとらない。会うごとに松本人志の話だけは絶対にするが、そのトーンも年々下がるばかりなので、次会っても何を話せばいいかわからない。
 これを書くために時系列を確認しようとラインを見たら「今年も終わりなので来月ご飯食べませんか?」というメッセージが11月19日にきていた。一事が万事この調子だから人との関わりなんてあってないようなものになっていくのだけれど、本当にたかさんだけはそれでも話しかけてきてくれるからなんか変だと思うし、それはこの界隈には珍しくバズることなくマンガ家になった後でも変わらない。ずっとそういう人だということがありがたいし、誇らしい。そういう人が1巻を出せる。

 

契れないひと(1) (ヤンマガKCスペシャル)

契れないひと(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 

保坂和志さんと対談した

 保坂和志さんと対談した。何が話せたわけではないけれど、保坂さんの「群像」の連載に自分のことが書いてあったので書きたくなった。
 その連載の第六回のタイトルは「鉄の胡蝶は歳月に夢は記憶の彫るか」となっており、単語が固定されないで水に浮かんでるみたいに変わってきている。そこに書かれた「乗代雄介との対談補遺」は、自分には良くわかる話でありながら、同時に自分ならそんな言葉は使わない使えないという言葉で書かれていたので活力になった。
 その書かれた言葉が少し前かだいぶ前かにその言葉や文になろうとしていた際、つまり書くという行為の最中に保坂さんが考えていたことは、自分が考えていたことと同じなんだと、けっこう心から思えてしまう。最終的にああして誌面に固まった言葉が、自分の思いようや書きようとは当たり前だが異なるからこそ、書こうとしていることが同じであると信じられるというか、異なる同心円から同じ中心に働きかけているということだけは、その中心から返ってきたように思える波紋でしかない文章が伝えてくれる気がするという、そういう実感を持つ時がたまにあるのだ。理解されたというのとは違う、もっと大きな何かに対する自問自答の応答の痕跡か響きを人知れず発見するような。それを「歌のように」と言い切るには歌に対する実感が僕には足らないけど、書かれたものではなく書こうとしていることをわかりたいというのが、僕が対談の後でまたぞろずっと考えたことだった。
 対談が終わったあと、講談社のある護国寺駅から池袋駅まで有楽町線で保坂さんと二人で帰った。途中、腰の曲がったおばあさんが、小さいキャリーバッグを転がして一人乗ってきた。池袋でどっと降りた後で保坂さんが話しかけて、僕たちはおばあさんを、階段を避けたルートで改札まで導いた。ゆっくりした足取りに合わせて、エスカレーターならいいと言うからエスカレーターに乗った。まだプラットフォームを歩いていた時、僕はキャリーバッグを持ちましょうかと訊ねた。おばあさんは「これがないと歩けない、支えられない」ということを言って、顔は見えなかったが笑っているようだった。杖代わりのほとんどからっぽのキャリーバッグだったということで、そう思って注意して見ていたら、点字ブロックを越える時もほんの少し浮かせて下ろしている。その動きがあまりに滑らかだからそうと知るまで気がつかなかった。エスカレーターに乗っている時、今度は保坂さんがキャリーバッグを持ちましょうかと訊いた。おばあさんはまた同じことを保坂さんに説明した。
 二人とも別々のタイミングで、(あの)キャリーバッグを持ちましょうかと訊ねたのが、なんとなく嬉しく、何度も思い出している。おばあさんと、見送るというより置いていくような形で別れた後で、保坂さんは前にライブに行こうとしたら鳩を助けた時のことを思い出したよみたいなことを、そこに浮かべておくみたいに言った。僕はぜんぜん何も思い出さないようだった。

十一月の朗読

 教室の南側は全て窓ガラスがはめこまれているというのに、その日の天気を覚えられていない。学活の時間を二時間とって予告されたお楽しみ会の、二週間前から準備されたお楽しみは、十名の出し物からなっていた。
 その中でも、ノブヒコが楽しみにしていた唯一の出し物は一番最初にあった。
 今、隣の席の的場さんは、肩より長い髪を耳の後ろにかけて、先生の話を聞いている。とても細い黒髪は、こうして毎週金曜日に着てくるグレーのワンピースにかかるとちょっと金色に光って見えるのだった。横顔では、小さく高い鼻、少し空いた唇の上と下、丸くとがったあごが整列して四つの半島をつくっている。冬の夜の円形広場のような白い頬は、その丸い突端の奧に目を潜ませて、ノブヒコに見えるのは、ぴんとはねた睫毛の束だけだ。
「じゃあ、机を後ろに寄せましょう!」先生がパン、パンと手を叩いて言った。
 ノブヒコはいつまでも的場さんの方を見ていたわけではなかった。前を向いたままはっと我に返ったが、先生が言い終えるより早く騒がしい物音に包まれた教室でそんなことは取るに足らない。ノブヒコの列だけ引っ込んでいくのが著しく遅れながら、子供たちは大きく空いた教室の前の方に固まって座っていった。
 的場さんの出し物は朗読だった。このような盛り上がりに欠ける出し物が成立したのも、彼女の有無を言わさぬところのある魅力によるところが大きかく、白羽の矢が立ったと言う方が正しかった。
 司会は誰だったろう。岡安だったろうか、とにかくその言葉があって、的場さんはみんなの前に歩み出て、華奢な体をこちらに向けた。
 丸くない襟が白い首もとにまっすぐ線を引いている。それと平行の線がワンピースのおなかのあたりにある、それはちょうどその下にある的場さんの体を思わせるような幅のファスナーつきのポケットで、絶妙にもたついた厚みの蓋のせいでファスナーは見えないけれど、銀の小さな持ち手が端からしずくのようにのぞいている。彼女と仲の良い伊能さんや倉田さんが戯れに後ろから回した手を突っ込んでいたりしていたそこに手を差し入れて、的場さんは音もなく一冊の文庫本を取り出した。
 一礼して顔を上げた。ノブヒコは目を凝らした。首の後ろを自分でつかんで、顔を揺れないようにした。
 太くて薄い眉は下がって、いつでもはにかんだような奧二重の目は大きくない。それでも貧相に見えることがないのは、下のまぶたが瑞々しい余裕をもって縁取り影をつくるせいだ。その影と眉の両端を結べば、おおらかな紡錘形の額縁が「目元」という名で現れる。その重心で、くもりのない白目に浮いた大きな黒目がちら、ちらと動いて、自分の方を向くことはない。
 的場さんが本を捧げるように持つと、ノブヒコからは、上半分の鼻筋が筆で光に溶いたように見えない鼻も、この世のぜんぶにあらかじめ微笑みをそなえておくような口元も、何も見えなくなってしまったのだった。
 しんと静まった教室で朗読は、お楽しみ会の幕開けに反して、パーティーの終わりから始まった。

 

 みんながひきあげてしまうと、あとにのこったフィリフヨンカは、げんなりした気持で、台所のまん中に立っていました。なにもかも、てんやわんやです。花づなはふみつけられているし、いすはひっくりかえっているし、ムーミンパパのちょうちんは、やたらと、ところかまわず、なんの上にでも、ろうをこぼしていました。フィリフヨンカは、ゆかにおちていたサンドイッチを一きれ、ひろいあげました。なにげなく、ちょっとそれをかじり、それから、ごみバケツの中にポイとなげすてました。
「いいパーティーだったわ」
 と、フィリフヨンカは、ひとりごとをいいました。

 

  これをみんな、どんな風に聞いていたものか。
 的場さんが、日頃、つまり朝の読書の時間や、休み時間の誰も友だちが話しかけたりしてこない少しの間に本を持って、頭の中に、どんな調子で透明な声を響かせているのかということがわかるのは、ノブヒコにはとてつもない出来事だった。
 そしてそれは、こんな風かと一人でぼんやり考えてみるよりもずっとたどたどしかった。たどたどしいと言うよりも、一つの句点や読点に、なめらかな声の運びが辿り着くと、そこで何か考えるように、今まさに考えているように、ふっと間が空くのだった。

 

 

 フィリフヨンカは、ハーモニカに口をあてて、ふいてみました。右へうごかしたり、左へうごかしたりしながら、音色に耳をすませました。食卓の上にこしかけました。あれは、どんなふしでしたっけ。ティードロ、ティードロ……。ふしをまちがえないでふくのはむずかしいわ。フィリフヨンカは、もういちどふいてみました。いろんな音色をふいてみながら、耳をとがらせました。

 

 ノブヒコは、ふっと空いた間のその奧にまだまだ的場さんの声があるのだとわかった。彼女と仲の良い伊能さんや倉田さんでも聞いたことのない声。音よりも息に近いその声を、ノブヒコはせいぜい、耳をちぎりたいほど聞きたい、というような言葉で思いかけたにちがいなかった。

 

 最初にきこえる音色が見つかりました。二ばんめは、ひとりでに出てきました。ふしどおりうまくふけそうになって、するっと、調子はずれになりました。でも、また、もとにもどりました。つまり、感じでふいていけば、しぜんにうまくふけるのです。どうだったっけなんて、あれこれ考えながらふくことはないのです。ティードロ、ティードロ、さあ、もう、あのふしが、そっくりうまく流れだしました。どの音色もぴったり、その音色のところにおさまって、もんくのつけようもありません。
 フィリフヨンカは、何時間も、何時間も、食卓にこしかけたまま、感じで音色を追いかけながら、われをわすれて、ハーモニカをふいていました。音色をならべたような感じから、ふしらしくなり、そのうち音楽らしくなってきました。フィリフヨンカは、スナフキンの歌をふきました。それから、自分の作った曲もふきました。フィリフヨンカは、そばに近づきにくいほど、いっしんになってふいていました。心の中は、すっかりやすらかにおちついていました。人がきいていようが、いまいが、もう、とんじゃくしませんでした。

 

 ノブヒコにもフィリフヨンカのように思えたのは、声の抑揚が少しずつなだらかになっていって、しまいには耳鳴りまでしているような気がしたからだ。
 そこにフィリフヨンカの吹いているハーモニカの音はなんにもなかったのに、彼女の姿も想像がつかないというのに、確かによくわかった。その文章を書いているのが自分であるかのような、頭がぼうっとしたわかり方をした。あとの部分は、ノブヒコにどうにか聞き取れた箇所である。

 

 おもての庭は、ひっそりしていました。もそもそはいまわる連中は、みんないなくなりました。だんだん風の強くなる、いつものような、暗い秋の晩というだけでした。
 フィリフヨンカは、両手の上に頭をのせて、食卓のところでねむりました。あくる朝野八時半までも、ぐっすりねむりこみました。それから目をさますと、あたりを見まわして、思わずひとりごとをつぶやきました。
「まあ、なんてちらかっているんでしょう。さあ、きょうは、ひとつ、大そうじをやらなくちゃ」

 

 おそうじが、またできるようになったなんて、すばらしいことでした。フィリフヨンカはどんなごみがかくれているところでも、ちゃんと知っていました。ごみくずは、ふわふわした灰色のかたまりになって、ほうぼうのすみっこに、ちゃっかりおさまっていました。ころころころがっていくうちに、大きく太って、髪の毛だらけになり、ぜったいに見つかりっこないと安心しているごみというごみを、フィリフヨンカは、かたっぱしからはきだしました。

 

フィリフヨンカだけは、なにも食べもしなければ、おしゃべりもしませんでした。そんなことをしているひまなんて、あるわけないし、また、する気にもなれないのです。口ぶえは、ときどきふきました。かろやかで、きびきびした身のこなしです。フィリフヨンカは、まるで風のようにうごきまわりました――ここにいたかと思えば、またあっち。そうしているうちに、フィリフヨンカは、きゅうに、また、たまらなくさびしくなりました。おそろしくもなってきました。なぜ、こんな気持ちになったのかしら。わたしは、ただの大きな灰色のごみのかたまりになっちまったんじゃないのかしら。考えてみても、そのわけは思いつきませんでした。

 

ワインディング・ノート32(サリンジャー/キルケゴール/『死に至る病』)

 もう少し「星」を頼りに話を進めましょう。
「シーモア―序章―」で、語られ役であるシーモアは「小説家」である弟のバディに向けてこう批評を綴ります。

 なつかしきバディよ、今夜は陳腐なこと以外、何を言うのも恐ろしい気がする。結果はどうあれ、どうかおまえ自身の感情にしたがってくれ。ぼくたちが登録するとき、おまえはぼくのことでずいぶん腹を立てた〔その一週間前、彼とわたしと数百万のアメリカの若者は最寄りの小学校に行って、徴兵の登録を済ませた。わたしは、わたしが徴兵カードの空欄に記入したことを見て彼が微笑しているのに気づいた。家へ帰る途中ずっと、彼は何がそんなにおかしかったのかわたしに説明することを拒否しつづけた。わが家のものなら誰でも証言できることだが、彼は自分にとって都合よく事がはこびそうにみえるときは、かたくなな拒絶者になることができた〕。ぼくが何を見て微笑していたかわかるかい? おまえが著述業と記入したからだ。いままでこんなに美しい婉曲な言い方を聞いたことがないと思ったのだ。ものを書くことがいったいいつおまえの職業だったことがあるのだい? それは今までおまえの宗教以外の何ものでもなかったはずだ。そうだとも。ぼくは今すこし興奮しすぎているようだ。ものを書くということがおまえの宗教である以上、おまえが死ぬとき、どんなことをたずねられるかわかるかい? だがはじめに、だれもおまえにきかないようなことを、ぼくに言わせてほしい。おまえは死んだとき、すばらしい感動的な作品を手がけていたかと、きかれることはないだろう。それが長編なのか短編なのか、悲しいものか滑稽なものか、出版されたかされなかったかきかれることはないであろう。おまえがそれを手がけているときは、調子がいいかわるいかをたずねられることはないであろう。それを書き終えるときがおまえの最後の時になることを知っていれば、おまえはその作品を手がけてきたであろうかということすら、きかれることはないだろう――そんなことをたずねられるのは、あのあわれなゼーレン・Kだけだろうと思う。確かなことは、おまえに対して二つだけ質問が出されるということだ。おまえの星たちはほとんど出そろったか? おまえは心情を書きつくすことに励んだか?


「おまえの星たちはほとんど出そろったか?」
「おまえは心情を書きつくすことに励んだか?」
 この質問と、以下の質問は、全く異なるものとして書かれています。
「すばらしい感動的な作品を手がけていたか」
「長編なのか、短編なのか」
「悲しいものなのか、滑稽なものか」
「出版されたかされなかったか」
「それを手がけているときは、調子がいいかわるいか」

 ものを書くということが宗教的なものである場合、最も大事なことは下のグループのようなちゃちなものではないのです。
 『死に至る病』で絶望について書いたゼーレン・Kもといキルケゴールのように考えるなら、そんなことには、とっくに絶望しなければなりません。
 キルケゴールは、「絶望は、絶望=死に至る病からの治癒の最初の形式だ」と難しいことを書いています。

 絶望そのものがひとつの否定性であり、絶望についての無知は新たなひとつの否定性である。ところで、真理に至るためには、ひとはすべての否定性を通過しなければならない。


 つまり、あらゆる絶望を克服し、知ることで、絶望自身の治癒の端緒にしなければならないのですが、『死に至る病』で僕が読み取り考えられことと言えば、「永遠なものを失」い、神の言など信じるに値しないと絶望し、絶望し尽くした時に、その絶望の届かぬ領域に、神や自己が初めてその姿を現すだろう、それこそが真の信仰である、というようなことです。
 しかし、その繰り返される「絶望」にピリオドをもたらす者などいるのでしょうか。
 キルケゴールは、全ての書き物を宗教に捧げたと言いたくなるような人ではありますが、その死は、本人が頓着していなかった現世的な死としてとらえれば、やはり「のたれ死に」にふさわしいものでした。

 長い沈滞期に別れを告げて、キルケゴールは程よい健康状態を楽しんでいたようであった。ところが、彼は1855年9月の下旬に病気になり、10月2日に道端で倒れた。その後、彼自身の要求により、コペンハーゲンのフレデリク病院に搬送されたが、病状は悪化する。キルケゴールの姪によると、病院に担ぎ込まれたとき、彼は死ぬためにここに来たと言ったらしい。六週間後、11月11日に、彼は42歳で亡くなった。死因ははっきりしていないが、診断書には躊躇いがちに結核と書かれていたという。
 夥しくも華々しい文筆の仕事に消耗し、或いは個人的な生活とデンマークキリスト教の惨めな状態に消沈して、キルケゴールは単純に生きる意志を喪失してしまったように思われる。最後の見舞いに訪れた終生の友人エミール・ベーセンは、結果的に彼の人生の大半がうまくいったということをそれとなく優しくキルケゴールに語った。すると彼は、「私がこの上なく幸福でもあり、この上なく悲しくもあったことの理由はそれだ。なぜなら、私はこの幸福を誰とも分かち合うことができなかったのだから」と答えた。そして、彼は「死と共に、この絶望から解放されることを祈っている」と続けている。
(『哲学者たちの死に方』)

  
 絶望の果てに真の信仰があると考えるキルケゴールは絶望の内に死んだ。
 シーモアは「おまえはその作品を手がけてきたであろうか」と語っています。そして、この質問は、ゼーレン・キルケゴールだけがたずねられる(受身)とも。
 「それを書き終えるときがおまえの最後の時になることを知っていれば」という前提があるので、キルケゴールはそれを知らなかったとシーモアは言いたいのかも知れません。
 「死と共に、この絶望から解放されることを祈っている」と今際の際で安らぐことなく言ったキルケゴールは、生涯を通じて宗教について、それによって真の信仰を目指すが如く書き続けました。「シーモア―序章―」でキルケゴールの「ものを書くこと」についての文章を、カフカと並べて引用していることから、キルケゴールは「ものを書くこと」と「宗教」にまたがる最良の例として出されていると考えられます。
 「死ぬまでやる」ということは、死ぬまで考え続け、書き続けることであり、途中で何かが終わるということはありません。人生を投じてやり続けるべきことであれば、その中で、ましてや生涯のある時期に何か成し遂げたものがあるか、などという成果主義的な質問は、意味がないのです。そこで「芥川賞をとりました」「ノーベル文学賞をとりました」などと答えるのであれば、その人にとって、「ものを書くこと」は宗教以外の何ものかなのでしょう。
 「ものを書くこと」が、死ぬまでやることを余儀なくされるような宗教になるのであれば「それを書き終えるときがおまえの最後の時になることを知ってい」るはずなのだから、「その作品を手がけてきたであろうかということすら、きかれることはない」はずです。
 が、キルケゴールは死の六年前に書いた『死に至る病』の中で詳細に書いた「絶望」が、死をもって終わるとは思っていませんでした。「永遠なものを失う」のが絶望だと書いている彼は、死ぬことで永遠なものになれるとはとても考えられず、せいぜい絶望から解放されることを「祈る」にとどまります。そして、それは生前にとっていた態度となんら変わるものではないのです。
 だから、無論もう「作品」を書くことなどできなくなる死後、それでもなお絶望から解放されないであろう「あのあわれなゼーレン・K」だけは、永遠なものから、こう訊かれることになります。
「おまえはその作品を手がけてきたであろうか」
 もう書くことはできないのにそれを問われるとしたら、やはり相当にあわれなことだと僕は思います。

 

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

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死に至る病 (岩波文庫)

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哲学者たちの死に方

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