十一月の朗読

 教室の南側は全て窓ガラスがはめこまれているというのに、その日の天気を覚えられていない。学活の時間を二時間とって予告されたお楽しみ会の、二週間前から準備されたお楽しみは、十名の出し物からなっていた。
 その中でも、ノブヒコが楽しみにしていた唯一の出し物は一番最初にあった。
 今、隣の席の的場さんは、肩より長い髪を耳の後ろにかけて、先生の話を聞いている。とても細い黒髪は、こうして毎週金曜日に着てくるグレーのワンピースにかかるとちょっと金色に光って見えるのだった。横顔では、小さく高い鼻、少し空いた唇の上と下、丸くとがったあごが整列して四つの半島をつくっている。冬の夜の円形広場のような白い頬は、その丸い突端の奧に目を潜ませて、ノブヒコに見えるのは、ぴんとはねた睫毛の束だけだ。
「じゃあ、机を後ろに寄せましょう!」先生がパン、パンと手を叩いて言った。
 ノブヒコはいつまでも的場さんの方を見ていたわけではなかった。前を向いたままはっと我に返ったが、先生が言い終えるより早く騒がしい物音に包まれた教室でそんなことは取るに足らない。ノブヒコの列だけ引っ込んでいくのが著しく遅れながら、子供たちは大きく空いた教室の前の方に固まって座っていった。
 的場さんの出し物は朗読だった。このような盛り上がりに欠ける出し物が成立したのも、彼女の有無を言わさぬところのある魅力によるところが大きかく、白羽の矢が立ったと言う方が正しかった。
 司会は誰だったろう。岡安だったろうか、とにかくその言葉があって、的場さんはみんなの前に歩み出て、華奢な体をこちらに向けた。
 丸くない襟が白い首もとにまっすぐ線を引いている。それと平行の線がワンピースのおなかのあたりにある、それはちょうどその下にある的場さんの体を思わせるような幅のファスナーつきのポケットで、絶妙にもたついた厚みの蓋のせいでファスナーは見えないけれど、銀の小さな持ち手が端からしずくのようにのぞいている。彼女と仲の良い伊能さんや倉田さんが戯れに後ろから回した手を突っ込んでいたりしていたそこに手を差し入れて、的場さんは音もなく一冊の文庫本を取り出した。
 一礼して顔を上げた。ノブヒコは目を凝らした。首の後ろを自分でつかんで、顔を揺れないようにした。
 太くて薄い眉は下がって、いつでもはにかんだような奧二重の目は大きくない。それでも貧相に見えることがないのは、下のまぶたが瑞々しい余裕をもって縁取り影をつくるせいだ。その影と眉の両端を結べば、おおらかな紡錘形の額縁が「目元」という名で現れる。その重心で、くもりのない白目に浮いた大きな黒目がちら、ちらと動いて、自分の方を向くことはない。
 的場さんが本を捧げるように持つと、ノブヒコからは、上半分の鼻筋が筆で光に溶いたように見えない鼻も、この世のぜんぶにあらかじめ微笑みをそなえておくような口元も、何も見えなくなってしまったのだった。
 しんと静まった教室で朗読は、お楽しみ会の幕開けに反して、パーティーの終わりから始まった。

 

 みんながひきあげてしまうと、あとにのこったフィリフヨンカは、げんなりした気持で、台所のまん中に立っていました。なにもかも、てんやわんやです。花づなはふみつけられているし、いすはひっくりかえっているし、ムーミンパパのちょうちんは、やたらと、ところかまわず、なんの上にでも、ろうをこぼしていました。フィリフヨンカは、ゆかにおちていたサンドイッチを一きれ、ひろいあげました。なにげなく、ちょっとそれをかじり、それから、ごみバケツの中にポイとなげすてました。
「いいパーティーだったわ」
 と、フィリフヨンカは、ひとりごとをいいました。

 

  これをみんな、どんな風に聞いていたものか。
 的場さんが、日頃、つまり朝の読書の時間や、休み時間の誰も友だちが話しかけたりしてこない少しの間に本を持って、頭の中に、どんな調子で透明な声を響かせているのかということがわかるのは、ノブヒコにはとてつもない出来事だった。
 そしてそれは、こんな風かと一人でぼんやり考えてみるよりもずっとたどたどしかった。たどたどしいと言うよりも、一つの句点や読点に、なめらかな声の運びが辿り着くと、そこで何か考えるように、今まさに考えているように、ふっと間が空くのだった。

 

 

 フィリフヨンカは、ハーモニカに口をあてて、ふいてみました。右へうごかしたり、左へうごかしたりしながら、音色に耳をすませました。食卓の上にこしかけました。あれは、どんなふしでしたっけ。ティードロ、ティードロ……。ふしをまちがえないでふくのはむずかしいわ。フィリフヨンカは、もういちどふいてみました。いろんな音色をふいてみながら、耳をとがらせました。

 

 ノブヒコは、ふっと空いた間のその奧にまだまだ的場さんの声があるのだとわかった。彼女と仲の良い伊能さんや倉田さんでも聞いたことのない声。音よりも息に近いその声を、ノブヒコはせいぜい、耳をちぎりたいほど聞きたい、というような言葉で思いかけたにちがいなかった。

 

 最初にきこえる音色が見つかりました。二ばんめは、ひとりでに出てきました。ふしどおりうまくふけそうになって、するっと、調子はずれになりました。でも、また、もとにもどりました。つまり、感じでふいていけば、しぜんにうまくふけるのです。どうだったっけなんて、あれこれ考えながらふくことはないのです。ティードロ、ティードロ、さあ、もう、あのふしが、そっくりうまく流れだしました。どの音色もぴったり、その音色のところにおさまって、もんくのつけようもありません。
 フィリフヨンカは、何時間も、何時間も、食卓にこしかけたまま、感じで音色を追いかけながら、われをわすれて、ハーモニカをふいていました。音色をならべたような感じから、ふしらしくなり、そのうち音楽らしくなってきました。フィリフヨンカは、スナフキンの歌をふきました。それから、自分の作った曲もふきました。フィリフヨンカは、そばに近づきにくいほど、いっしんになってふいていました。心の中は、すっかりやすらかにおちついていました。人がきいていようが、いまいが、もう、とんじゃくしませんでした。

 

 ノブヒコにもフィリフヨンカのように思えたのは、声の抑揚が少しずつなだらかになっていって、しまいには耳鳴りまでしているような気がしたからだ。
 そこにフィリフヨンカの吹いているハーモニカの音はなんにもなかったのに、彼女の姿も想像がつかないというのに、確かによくわかった。その文章を書いているのが自分であるかのような、頭がぼうっとしたわかり方をした。あとの部分は、ノブヒコにどうにか聞き取れた箇所である。

 

 おもての庭は、ひっそりしていました。もそもそはいまわる連中は、みんないなくなりました。だんだん風の強くなる、いつものような、暗い秋の晩というだけでした。
 フィリフヨンカは、両手の上に頭をのせて、食卓のところでねむりました。あくる朝野八時半までも、ぐっすりねむりこみました。それから目をさますと、あたりを見まわして、思わずひとりごとをつぶやきました。
「まあ、なんてちらかっているんでしょう。さあ、きょうは、ひとつ、大そうじをやらなくちゃ」

 

 おそうじが、またできるようになったなんて、すばらしいことでした。フィリフヨンカはどんなごみがかくれているところでも、ちゃんと知っていました。ごみくずは、ふわふわした灰色のかたまりになって、ほうぼうのすみっこに、ちゃっかりおさまっていました。ころころころがっていくうちに、大きく太って、髪の毛だらけになり、ぜったいに見つかりっこないと安心しているごみというごみを、フィリフヨンカは、かたっぱしからはきだしました。

 

フィリフヨンカだけは、なにも食べもしなければ、おしゃべりもしませんでした。そんなことをしているひまなんて、あるわけないし、また、する気にもなれないのです。口ぶえは、ときどきふきました。かろやかで、きびきびした身のこなしです。フィリフヨンカは、まるで風のようにうごきまわりました――ここにいたかと思えば、またあっち。そうしているうちに、フィリフヨンカは、きゅうに、また、たまらなくさびしくなりました。おそろしくもなってきました。なぜ、こんな気持ちになったのかしら。わたしは、ただの大きな灰色のごみのかたまりになっちまったんじゃないのかしら。考えてみても、そのわけは思いつきませんでした。

 

ワインディング・ノート32(サリンジャー/キルケゴール/『死に至る病』)

 もう少し「星」を頼りに話を進めましょう。
「シーモア―序章―」で、語られ役であるシーモアは「小説家」である弟のバディに向けてこう批評を綴ります。

 なつかしきバディよ、今夜は陳腐なこと以外、何を言うのも恐ろしい気がする。結果はどうあれ、どうかおまえ自身の感情にしたがってくれ。ぼくたちが登録するとき、おまえはぼくのことでずいぶん腹を立てた〔その一週間前、彼とわたしと数百万のアメリカの若者は最寄りの小学校に行って、徴兵の登録を済ませた。わたしは、わたしが徴兵カードの空欄に記入したことを見て彼が微笑しているのに気づいた。家へ帰る途中ずっと、彼は何がそんなにおかしかったのかわたしに説明することを拒否しつづけた。わが家のものなら誰でも証言できることだが、彼は自分にとって都合よく事がはこびそうにみえるときは、かたくなな拒絶者になることができた〕。ぼくが何を見て微笑していたかわかるかい? おまえが著述業と記入したからだ。いままでこんなに美しい婉曲な言い方を聞いたことがないと思ったのだ。ものを書くことがいったいいつおまえの職業だったことがあるのだい? それは今までおまえの宗教以外の何ものでもなかったはずだ。そうだとも。ぼくは今すこし興奮しすぎているようだ。ものを書くということがおまえの宗教である以上、おまえが死ぬとき、どんなことをたずねられるかわかるかい? だがはじめに、だれもおまえにきかないようなことを、ぼくに言わせてほしい。おまえは死んだとき、すばらしい感動的な作品を手がけていたかと、きかれることはないだろう。それが長編なのか短編なのか、悲しいものか滑稽なものか、出版されたかされなかったかきかれることはないであろう。おまえがそれを手がけているときは、調子がいいかわるいかをたずねられることはないであろう。それを書き終えるときがおまえの最後の時になることを知っていれば、おまえはその作品を手がけてきたであろうかということすら、きかれることはないだろう――そんなことをたずねられるのは、あのあわれなゼーレン・Kだけだろうと思う。確かなことは、おまえに対して二つだけ質問が出されるということだ。おまえの星たちはほとんど出そろったか? おまえは心情を書きつくすことに励んだか?


「おまえの星たちはほとんど出そろったか?」
「おまえは心情を書きつくすことに励んだか?」
 この質問と、以下の質問は、全く異なるものとして書かれています。
「すばらしい感動的な作品を手がけていたか」
「長編なのか、短編なのか」
「悲しいものなのか、滑稽なものか」
「出版されたかされなかったか」
「それを手がけているときは、調子がいいかわるいか」

 ものを書くということが宗教的なものである場合、最も大事なことは下のグループのようなちゃちなものではないのです。
 『死に至る病』で絶望について書いたゼーレン・Kもといキルケゴールのように考えるなら、そんなことには、とっくに絶望しなければなりません。
 キルケゴールは、「絶望は、絶望=死に至る病からの治癒の最初の形式だ」と難しいことを書いています。

 絶望そのものがひとつの否定性であり、絶望についての無知は新たなひとつの否定性である。ところで、真理に至るためには、ひとはすべての否定性を通過しなければならない。


 つまり、あらゆる絶望を克服し、知ることで、絶望自身の治癒の端緒にしなければならないのですが、『死に至る病』で僕が読み取り考えられことと言えば、「永遠なものを失」い、神の言など信じるに値しないと絶望し、絶望し尽くした時に、その絶望の届かぬ領域に、神や自己が初めてその姿を現すだろう、それこそが真の信仰である、というようなことです。
 しかし、その繰り返される「絶望」にピリオドをもたらす者などいるのでしょうか。
 キルケゴールは、全ての書き物を宗教に捧げたと言いたくなるような人ではありますが、その死は、本人が頓着していなかった現世的な死としてとらえれば、やはり「のたれ死に」にふさわしいものでした。

 長い沈滞期に別れを告げて、キルケゴールは程よい健康状態を楽しんでいたようであった。ところが、彼は1855年9月の下旬に病気になり、10月2日に道端で倒れた。その後、彼自身の要求により、コペンハーゲンのフレデリク病院に搬送されたが、病状は悪化する。キルケゴールの姪によると、病院に担ぎ込まれたとき、彼は死ぬためにここに来たと言ったらしい。六週間後、11月11日に、彼は42歳で亡くなった。死因ははっきりしていないが、診断書には躊躇いがちに結核と書かれていたという。
 夥しくも華々しい文筆の仕事に消耗し、或いは個人的な生活とデンマークキリスト教の惨めな状態に消沈して、キルケゴールは単純に生きる意志を喪失してしまったように思われる。最後の見舞いに訪れた終生の友人エミール・ベーセンは、結果的に彼の人生の大半がうまくいったということをそれとなく優しくキルケゴールに語った。すると彼は、「私がこの上なく幸福でもあり、この上なく悲しくもあったことの理由はそれだ。なぜなら、私はこの幸福を誰とも分かち合うことができなかったのだから」と答えた。そして、彼は「死と共に、この絶望から解放されることを祈っている」と続けている。
(『哲学者たちの死に方』)

  
 絶望の果てに真の信仰があると考えるキルケゴールは絶望の内に死んだ。
 シーモアは「おまえはその作品を手がけてきたであろうか」と語っています。そして、この質問は、ゼーレン・キルケゴールだけがたずねられる(受身)とも。
 「それを書き終えるときがおまえの最後の時になることを知っていれば」という前提があるので、キルケゴールはそれを知らなかったとシーモアは言いたいのかも知れません。
 「死と共に、この絶望から解放されることを祈っている」と今際の際で安らぐことなく言ったキルケゴールは、生涯を通じて宗教について、それによって真の信仰を目指すが如く書き続けました。「シーモア―序章―」でキルケゴールの「ものを書くこと」についての文章を、カフカと並べて引用していることから、キルケゴールは「ものを書くこと」と「宗教」にまたがる最良の例として出されていると考えられます。
 「死ぬまでやる」ということは、死ぬまで考え続け、書き続けることであり、途中で何かが終わるということはありません。人生を投じてやり続けるべきことであれば、その中で、ましてや生涯のある時期に何か成し遂げたものがあるか、などという成果主義的な質問は、意味がないのです。そこで「芥川賞をとりました」「ノーベル文学賞をとりました」などと答えるのであれば、その人にとって、「ものを書くこと」は宗教以外の何ものかなのでしょう。
 「ものを書くこと」が、死ぬまでやることを余儀なくされるような宗教になるのであれば「それを書き終えるときがおまえの最後の時になることを知ってい」るはずなのだから、「その作品を手がけてきたであろうかということすら、きかれることはない」はずです。
 が、キルケゴールは死の六年前に書いた『死に至る病』の中で詳細に書いた「絶望」が、死をもって終わるとは思っていませんでした。「永遠なものを失う」のが絶望だと書いている彼は、死ぬことで永遠なものになれるとはとても考えられず、せいぜい絶望から解放されることを「祈る」にとどまります。そして、それは生前にとっていた態度となんら変わるものではないのです。
 だから、無論もう「作品」を書くことなどできなくなる死後、それでもなお絶望から解放されないであろう「あのあわれなゼーレン・K」だけは、永遠なものから、こう訊かれることになります。
「おまえはその作品を手がけてきたであろうか」
 もう書くことはできないのにそれを問われるとしたら、やはり相当にあわれなことだと僕は思います。

 

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

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死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

 

 

哲学者たちの死に方

哲学者たちの死に方

 

 

ワインディング・ノート31(村上春樹/『驚きの皮膚』/cero)

とくに年若い時期には、一冊でも多くの本を手に取る必要があります。優れた小説も、それほど優れていない小説も、あるいはろくでもない小説だって(ぜんぜん)かまいません、とにかくどしどし片端から読んでいくこと。少しでも多くの物語に身体を通過させていくこと。たくさんの優れた文章に出会うこと。ときには優れていない文章に出会うこと。それがいちばん大事な作業になります。小説家にとっての、なくてはならない基礎体力になります。目が丈夫で、暇が有り余っているうちにそれをしっかりすませておく。

 
 『職業としての小説家』からの一節です。
 これを見ると、村上春樹も「若いうちに旅をしろ」派に名を連ねているようです。
 僕がこの記述をためらいなく「旅」と言ってしまうのは、村上春樹が若い頃の濫読を「多くの物語に身体を通過させていくこと」と表現するからです。
 わざわざ「(ぜんぜん)」と断って、それが皮肉でないことを示していますが、読むものは優れていないもの、つまりカスでも構わない。通過するものに対して身体に表れる何らかの反応、その蓄積。その数に頼んだ経験に比べれば「厳選された情報」などには全く用がない。「質より量」なのです。
 でも、せっかく本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たりしても、毒にも薬にもならなきゃ忘れてしまうんじゃ意味がないじゃないか、それなら強烈に良いものだけに触れた方が有益だ、と言う人もいるかも知れません。僕もそう考えていた時期がありました。
 昨日、『驚きの皮膚』という本を読んでおもしろかったのですが、この本は、人間の内部と外部、つまり身体と環境の境界となる皮膚が、身体自身から社会まで、人間にまつわる様々なシステムにどのような影響を及ぼしたかについての考察です。
 その一章「皮膚は『聴いている』」に、こんな研究が紹介されています。

 さまざまな大きさの銅鑼や鍵盤楽器を合奏するガムランというインドネシア民族音楽があります。大橋博士らは、バリ島ガムランの演奏時、演者がトランス(恍惚)状態になることに着目し、その原因として、耳には聞こえない音波の影響を発見しました。というのもライブ演奏ではトランス状態になっても、CD録音された演奏ではトランス状態にはならないのです。
  通常のCDでは音は周波数2万ヘルツまでしか録音されません。ところがガムランのライブ音源を解析すると実に10万ヘルツ以上の音まで含まれていたのです。そのライブ音源にさらされると、脳波や血中のホルモン量にも変化が認められる。
 さらに彼らは、被験者の首から下を音を通さない物質で覆い、再びガムランのライブ音の効果を調べました。すると驚くべき事に生理状態に及ぼす影響が消えてしまったのです。これらの結果から大橋博士らは、高周波数が耳ではなく、体表で受容されているという仮説を抱くに至りました。

 

これとは別に、皮膚が音を「聴いている」ことを示唆する研究が報告されています。
 この研究では、可聴領域の音が使われます。マイクに息があたるような「破裂音」paの音と、破裂音ではないbaの音です。実験では被験者にbaの音を聞かせると同時に、その首や手の皮膚に音が聞こえない程度の空気を吹き付けました。すると被験者はpaという音が聞こえた、と答えたというのです。だとすれば可聴領域の音を聞く場合にも、皮膚への音圧が関与している可能性があります。

 
 こうなるとやはり、「音楽のルーツを辿ること」が、「身体を通過させていく」という(比喩的な意味でない)「旅」の様相を呈してきます。後ろの例が示すように媒体がCDだろうと身体は何かしらの反応しているのですから、良かろうが悪かろうがすぐ忘れようがクソみたいな音楽だと怒りに震えようが、その音が身体を通過したことは決して変えることのない事実です。
 それは意識されない「感覚」であり、意識された「知覚」ではないかもしれません(この定義も『驚きの皮膚』から借りています)。
 ただし、この「感覚」を受容しておく=磨くともなく磨くというのが、若い時代の「旅」の一つの意義なのだと僕は思います。それは、やがて来る意識される知覚を記憶にしようという時に、頼もしい受け皿のようなものになるはずです。
 意識されない感覚が磨かれるなんて眉唾ものにも思われますが、『驚きの皮膚』では、皮膚感覚が脳を創っていったという説が提唱されています。全身が粘膜状の皮膚であるタコは哺乳類並の脳を持っているなんて言われると、なるほど、人間は巷で言われているように大きな脳を持ったから冷やすために体毛を失ったわけではなく、体毛を失って皮膚感覚が増大したために大きな脳になるよう進化したんだと、筆者の仮説に首肯したくなります。その仮説はつまり「感覚を受容すれば受容するほど、記憶の受け皿は大きくなっていく」ということを示します。

今の私たちは、昔の人たちに比べて、膨大な情報を扱っているように思いがちです。しかし本当にそうでしょうか。むしろコンピューターやインターネットに依存しているため、自分が処理している情報は、少なくなっているのではないでしょうか。情報を集めることは大したことではありません。とくにインターネットで「検索」すれば、とりあえずの答えが見つかる現代では、情報収集に才能は必要ありません。大切なのは、集めた情報の中から必要なものを選択することであり、いわゆる「頭が良い」人、仕事ができる人は、「物知り」「検索の達人」よりも、むしろ情報選択の能力が高い人、一見、関係がないような離れた領域から、必要な情報を抽出し、新しい考え方を創生する人であるように思います。
(傳田光洋『驚きの皮膚』)

 

ジェームズ・ジョイスは「イマジネーションとは記憶のことだ」と実に簡潔に言い切っています。そしてそのとおりだろうと僕も思います。ジェームズ・ジョイスは実に正しい。イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直観を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力になるべきものです。
村上春樹『職業としての小説家』)

 
 ここで、皮膚研究者とジェームズ・ジョイス、村上春樹が全く同じことを言っていることが、僕にはとてもうれしい。ここで語られていることができる人は、きっと「感覚」を磨かれた人であるでしょうから。
 そしてまたうれしいことに、村上春樹の「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」が「正しい物語の動力になるべきもの」だという断言は、この長ったらしい話の視線をふたたび夜空に向けるような気がするのです。

 そこには、こんな時代のせいで僕の住まいからはかなり見えにくくなっているのですが、いくつかの星が瞬いていて、知識の浅い僕にも覚えのあるいくつかの形を結んでいます。
 脈絡のない星々の組み合わせである星座。古代ギリシャ人たちがそれに神話を結びつけた約3000年前の営み。
 脈絡のない記憶は「星」のように、はるか昔のものからつい昨日のものまで、その遠近に関わらず、鮮やかにもおぼろげにもなりながら混在し、ある時は見えなくなり、ある時に姿を現します。
 そして人は、「終わりの来ない旅」の中で、その時その時に出ている「星」のような記憶を頼りに進むしかないのです。個人的な記憶から、人類の記憶と呼ぶしかないような作品、形にならない文化まで、それこそ星の数ほどある記憶によって人は生きている。

 そう考えるならば、ceroが砂漠に向かった意味が非常によくわかります。雲もなく清潔で静かな砂漠こそ、地球上で最もはっきり星空が見える場所なのです。
 残念ながら、僕には音楽のことが「ものを書くこと」ほどには良くわからないのですが、新しいアルバム『Obscure Ride』では、砂漠にたどり着いたceroが「星」を「記憶」を、より透明な目線で歌っています。かなりいいです。

 

職業としての小説家 (Switch library)

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驚きの皮膚

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Obscure Ride 【通常盤】

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ワインディング・ノート30(村上春樹/cero/細野晴臣)

 この、「終わりの来ない旅」を続けるならば、永遠の入れ子構造や絶え間ない不信や矛盾に陥らざるを得ないという状況は、彼らのバイオグラフィーとも重なってくると思うのですが、思うというかそのようにインタビューで語られていたのですが、語られていたというか僕がそう取ったのですが、歌詞を書いた荒内佑はこう語ります。

     あれ(安部公房砂の女』)は砂漠を閉塞的な現代社会のメタファーとして扱っていると思うんですけど、そういう場所で何か新しいことを始めるには魔術的にならざるを得ない。「Yellow Magus」の"Magus"は"Magic"の語源で、ceroがブラック・ミュージック的なアプローチを試みることにしても、僕たちはもともとそういった出自ではないし、素養もないから、やっぱり、魔術の力を借りるしかないなと。

cero 1stシングル『Yellow Magus』 - 特設サイト

 
 魔術の力を借りて作品をつくるということは、様々に絡み合った隠喩から一つ選べば、「星が動けば これから起こることが分かるだろう」ということであるでしょう。
 村上春樹の『職業としての小説家』にはこんな箇所があります。

どういう小説を自分が書きたいか、その概略は最初からかなりはっきりしていました。「今はまだうまく書けないけれど、先になって実力がついてきたら、本当はこういう小説が書きたいんだ」というあるべき姿が頭の中にありました。そのイメージがいつも空の真上に、北極星みたいに光って浮かんでいたわけです。何かあれば、ただ頭上を見上げればよかった。そうすれば自分の今の立ち位置や、進むべき方向がよくわかりました。もしそういう定点がなかったら、たぶん僕はあちこちでけっこう行き惑っていたのではないかと思います。


 現存しない「あるべき姿」が見えることは、「これから起こることがわかる」ことであり、魔術と言って差し支えないはずです。
 そして、その依り代として、cero村上春樹も「星」を選び取ります。
 星が動いたり動いていなかったりするのはやはり気になりますが、それは、彼らの「現在」と関係があるような気がします。ceroの同じインタビューから再び抜粋しましょう。

     ――じゃあ、『Yellow Magus』で過酷な砂漠に踏み出したわけだけど、YMOだったり、『Eclectic』だったり、所々に存在するオアシスを頼りにしながら進んで行くという感じかな。
    髙城 日本人のデメリットかつメリットは、どの音楽からも遠いこと。ルーツみたいなものはあまりないけど、縛られるものがないということでもある。いま上がった先人たちに習って、その状況を上手く自分たちの音楽に還元していきたいですね。

 
 そして、YMO細野晴臣は、中沢新一との対談でこう語っています。

 僕たち、二〇歳そこそこでバンドやりだしたんですけれども、同年代のみんなはもちろんアメリカ音楽のコピーでした。いかにうまくコピーをやるか、それはその前にやっていたエイプリル・フールというバンドでやり尽くしちゃって、飽き飽きしてたわけです。当時、カリフォルニアバッファロー・スプリングフィールドというバンドが好きだったんですけど、彼らは二、三年で解散しちゃう間に素晴らしいアルバムを二、三枚作りました。そのアルバムのライナーノートに自分たちが影響されたルーツが全部書いてあるんです。それは音楽だけじゃなく、作家だったり、ヨーロッパのアーティストだったり。それに僕たちは影響されたわけです。自分たちがオリジナルをやるには、まずルーツを知らなきゃいけない。彼らのコピーをするんだったら、そこまでやらなきゃ駄目だ、と。音楽そのものよりも、音楽へのアプローチを教わったわけです。

 
 ルーツを辿り、知ることでしか、オリジナルは作れない。
 この本はごく最近読んだんですが、これまで散々書いてきたことと同じことを細野春臣が語っていて、だからこの程度のことは一角の人物の誰もが口を揃えて言うのですが、それでも嬉しくなります。帰納するのに用いる例は、いくらあっても多すぎるということはないでしょう。
 さらに細野中沢対談は続きます。

中沢 若い時は未知のものへ向かって冒険していかなきゃ駄目だという感覚が強いでしょう。今まで人が触れていないものとか誰も行ったことがない場所へ冒険することによって新しい領域を開いていきたいと考えます。それは自我の拡大ということとも関係しているんですけれども、三〇歳になり始めたくらいにかならず挫折を体験することになる。僕もそうだったな。ヒマラヤへ入っていったときのことですが、荷物を持ってくれているシェルパの人がずっとウォークマンを聴いているんですね。なに聴いているのかなと思ってきいたら、マイケル・ジャクソンだった(笑)。いっぱしの冒険家の気分だったし、確かに日本人の研究者が一度も踏み込んでいないようなところに行くわけですけれども、一緒に歩いているシェルパの人にとってはそんな意識はまったくないわけでしょう。そこは彼らの庭先なんだし、そこでマイケル・ジャクソンを聴くのは当然だ。日本人にしても欧米人にしても、冒険だといって出かけていく世界は、そこに住んでいる人たちにとっては日常の世界なわけで、僕たちのエキゾチシズムなんか幻想にすぎない。お経の世界にひたってばかりいた僕は、そのとき冷水を浴びせられました。何か未知のものを手に入れて、それを高々とかざすようにして元の国や共同体へ戻ってくるという行為は、そもそも駄目なんじゃないかと思ったわけです。地球上のすべての場所は、既に誰かが一度は歩き、誰かが一度はフィルムに収め、誰かが一度は語ってきた世界になっている。そういう絶対的に遅れてやってきた者である僕らにできること、やらなければいけないことは別のかたちの新しい冒険を開発することなんじゃないかと思いました。細野さんが今「路地裏」と言ったけれども、誰もが知っていて、誰もが当たり前だと思っているものを全然違う目で見たり、全然違う編み上げ方で作り直していくときに、今までの世界はガラッと表情を変えてくる。これからの文化はそういうふうにして創らなければいけないんじゃないかと深刻に考えました。そういうアイディアを僕はYMOから受け取りました。
細野 よくわかります。
中沢 新しい世界を見たり作ったりするのに、何も遠い世界に出かけていく必要はないんじゃないか。もちろん、何か知るためには旅は必要ですよ。ただ、それは今まで知られている世界を新しく組み直すための方法を勉強するためにやるものなんじゃないか。それは僕が細野さんから学んだ思想的なちょっとしたコツでした。
細野 確かに今はもう旅することがなくなりました。だから、身近でいいんです。見方がいろいろ変わってくることこそ、やっぱりドキドキすることだしね。YMOでやったことは今はもう終わっちゃっているわけで、これからです。

 
 今日、様々な情報は、身の回りのインフラを整えておけば自動的に流れこんできます。地球上の全てはすでに誰かによって通過された場所であるということを信じるには十分なほどに過剰な量とスピードで、です。
 含蓄に満ちた言葉もbotをフォローすれば事足りるでしょうし、上手くそれを使い、誰かの鼻をあかすことだってできるでしょう。本や映画の感想も、政治的意見も、その情報の取捨選択で、それなりのことを言うことができる。
 そんな時代に旅をする必要があるのか、というのは確かにうなずけるところです。旅をした誰かが「僕らにとっての辺境で暮らしている人々だってマイケル・ジャクソンを聴いているよ」という有益な情報を届けてくれるのに、わざわざ自分でも旅に出る必要などあるのだろうか……。
 そういう考えに慣れきってしまうと、創作活動をやっていくぞと決意した時、自然と自分が今いる場所に陣取って気合いを入れることになりかねません。
 今いる場所に流れこんでくる情報を使いこなすことで自分は新しい世界を作ることができると無邪気に信じて疑わない、そういう人がアーティスト予備軍のマジョリティとなっています。
 このあたりのことは『アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人』に詳しいのでオススメです。芸能人の悪口もたくさん書いてあり、楽しい。

 半世紀前、細野晴臣バッファロー・スプリングフィールドに学び実践した音楽へのアプローチの方法は、先人のルーツを辿ることでした。ルーツを辿るとは、すなわち旅です。
 細野晴臣の「確かに今はもう旅することがなくなりました」という発言と、中沢新一の「もちろん、何か知るためには旅は必要ですよ」という発言は、端的に「若い時期に旅をしろ」ということを示しています。
 そして、ceroは意識的にそれを選択したのです。

 

Yellow Magus(DVD付)

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職業としての小説家 (Switch library)

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アーティスト症候群---アートと職人、クリエイターと芸能人 (河出文庫)
 

 

石坂浩二さんがくれたドラゴン

 ドラゴンはとてもかしこい生き物だ。
 夕暮れ時、カーテンを閉めるついでに窓を開けてみると、春の風はなおも冷たい。明日は雪が降るらしい。
 ドラゴンは、やはり大きな背中をこちらに向けているばかりだった。汚れた猫の額ほどのベランダで、エアコンの室外機とせせこましくスペースを分け合っている。うっすら土汚れがのった黒い鋼色は、部屋の明りを反射することなく吸いこんでしまうようだった。
 眉の下がった石坂浩二さんの顔が浮かんだ。
 石坂浩二さんは、言わずと知れた博学才穎の人である。絵も上手だし、女性にもおモテになる。面倒見の良い方でもあり、俺もずいぶん世話になった。
  懇意になった共演者に様々な贈り物をすることで知られている石坂さんだが、その石坂さんが、俺にはドラゴンをくださった。6頭所有しているうちの1頭で、 ブルガリアで生まれたのを6年前に譲り受けたという鋼色の美しいドラゴンだ。名前をブルという。人間で言えばまだ小学校の低学年で、鳴き声も高く子猫のよ うである。
 今田さんは、石坂さんから「ドラゴンに乗った今田耕司」という題の肖像画をプレゼントされたらしい。今田さんちの玄関にかけてある。 バカでかい。今田さんには「ドラゴンに乗った今田耕司」の肖像画で、俺にはドラゴン。なぜそんな貴重なものを私にくれる気になったのか、俺の何がそんなに 気に入られたのか、検討もつかないが、悪い気はしなかった。
 俺はもう一度、ドラゴンの背中を見つめた。いつも背中しか見ないせいで、一面が鱗に覆われた細長い、意味のないオブジェのように思える。しかし、それは少しく上下動して確かに生きている。煩わしさを持っている。
  初めはそのうち慣れるだろうと高をくくっていた。毎週、石坂さんから届くエサの烏骨鶏だけベランダに放り出して、芸人仲間と夜通し飲みに行ったりしていた のが良くなかったのか、一ヶ月経っても一向に心を開く様子がない。烏骨鶏はきちんといなくなるのに、ふっくらしていた横っ腹はどんどん痩せてきた。
  俺だって、夢を見なかったわけではない。その固い背にまたがり、晴天の空を飛翔し、フジテレビへ向かう夢である。頬をなめられ、大きな腹にくるまるように 横たわり、昼寝をしてラジオに遅刻する夢である。俺はその夢の中のドラゴンを好きだった。だから目の前の鱗の塊を嫌うことになった。
 俺はその姿を見たことはないが、俺の家に入り浸る後輩芸人によれば、ドラゴンは時折、手すりに手を掛け立ち上がり、決まって南西の方角に向けて遠くさびしげに鳴いているらしかった。その先には石坂さんの家がある。俺はその姿を思うたび、胸が痛むより先に腹が立った。
「返してあげた方がいいよ」
 いつか連れ込んだ女子大生は、ベランダをのぞきこみ、うろつく烏骨鶏をしばし見た後、そう言った。女は事が終わった後も下着姿で同じことを言い、帰り際にまた言うのだった。
「やっぱり、石坂さんに返したあげた方がいいよ」
 その慈しみをまじえた声に腹が立った。殺してやろうかと思った。
「うるせえ、この売女!」
 俺はついさっき裸の腰を打ち付けたばかりの尻を今度は蹴って追い出し、カギを閉めた。しばしの喧噪を覚悟したが、女はすぐに立ち去って行った。
 ドラゴンはとてもかしこい生き物だ。
  自分の置かれた立場をすっかり了解しているのか、外界に開け放されたベランダにほっぽっているのに逃げる素振りも見せない。そうしてくれたなら、どんなに いいかわからない。凝り固まった翼を動かし、全てを吹き飛ばすような風を起こし、石坂さんの家にでもどこでも帰ってしまえばいい。来た最初の日に、こんな 狭苦しいところはごめんだと、暴れ回って火を噴いてくれればよかった。
 1ヶ月も弱々しく丸めた背を見せたのだ、こいつも今さら帰りづらいにちがいない。なまじ知能が発達しているせいで、大いに苦しんでいる。まるで人間のようで、それがまた憎い。動物が人間を嫌うように嫌われたのではない。人間が人間を嫌うようにして好かれなかった。俺はドラゴンが憎い。
 夜更けに窓を少し開け、網戸越しに言った。
「今日、お前が苦しい眠りについたら、俺はお前を殺そうと思うよ」
 ドラゴンの呼吸が止まった。夜の風がひんやりと流れこんできた。
「俺も、今田さんみたいに絵がよかったよ」
 とてもかしこい生き物の背中はまた静かに動き出した。明日は雪が降るらしい。