『佐倉牧 野馬土手は泣いている (続) 』青木更吉

 

 
 前に成田の辺りを歩いていたら、こぢんまりとしているが手入れの行き届いた寺があった。説法山多聞(門)院という。観音堂と小さな大師堂があり歴史も古いようだが、何より一番目立つのは名主治右衛門を祀った碑だった。
 治右衛門はいわゆる義民だが、近くの公津村から出た佐倉惣五郎のように広く知られた人ではなく、土地の人だけが忘れまいとして立派な墓に碑を建てて今に伝えている。

 

 ネットではこういう土地土地の史跡を回り調べてブログとかに長い記事を書いている隠れた篤学の人が沢山いて実に助かるのだが、ここに関しては一人しかいなかった。成田山新勝寺を横目に遠ざかるように歩いて行って、一面の田圃を眺めて森へ入る坂道を曲がりながら進むとあるみたいな場所で、さらに行っても森を県道が貫いているばかりで、飛行機もガンガン飛んで風情はないし、確かに史跡めぐりにはあまり面白みのないところかも知れない。
 それもそのはず、この辺りは、江戸時代は佐倉牧と呼ばれる放牧地の一部だった。江戸幕府の軍馬保有は、今の千葉県に三つの広い牧を作って放し飼いにして、好き勝手に原野の草を食わせておいて、年に一度「野馬捕り」と称して追い込んで集めて、良さげなのを採用するという豪快なものだった。
 広いといっても次元が違って、一つの牧が何区画かに分けられるのだが、その一区画が現在の市一つ二つ分くらいあったりする。野生の馬が何不自由なく暮らすには普通にそのぐらいの土地が必要らしい。区画に分けられているのは、その牧の中には当たり前に村や田畑があるためで、境界には馬が入ってこないように土手が築かれた。これを「野馬土手」という。


 当たり前だが、そんなものは時間が経つにつれて開発の邪魔なのでどんどんなくなる。その一つ一つや馬の水飲み場を捜して、それが減っていくのを憂い、地主に思いを聞くというのが本書の趣旨である。
 しかし、そこで紹介されるものさえどんどんなくなっていくのが現状だ。佐倉牧ではないが、柏のこんぶくろ池とか大きな公園の中にあるところなら先々も確実に見られるだろうし、鬱蒼とした森の中の静かな池で、昔はここで野馬が水を飲んでいたんだなぁとはっきり思えるようなところなので行くといい。そこで足をすべらせて死んだ野馬の記録も残っているらしく、死んだんだなぁともはっきり思う。


 そんな風に、牧は馬にとってみれば自由な広い原野でしかなく、年に一度なぜか追い込まれる以外はいい環境だったが、人間の方ではどうかというと、その管理者として任命された付近の住民は、別の土地ならいらない苦労をして大変だったようだ。
 ここで、名主治右衛門に戻ってくる。
 三十分かけて碑文を書き写してきたのでみんなにも見て欲しい。写真を撮れば簡単だが、これをしたためた当地の人の思いを少しでもわかりたいという思いで、その場で書き写している。いつもこんなことをするわけではなく、文章自体が面白かったからそうした。

 名主 治右衛門 様

 吉倉村(当時東西両村に分かれていた)の畑地帯は、両村の入会地として悔恨した(後に印西新田という)。ところが、この耕地に天領である取香牧より野馬の入り込むことしばしばで、両村民の貴重な作物がたびたび甚大な損害を受けた。
 万治二年(一六五九年)二月、両村民はこの事を憂えて野馬方奉行に訴えたが、訴えは一切取り上げられなかった。その窮状に西吉倉村の名主冶右衛門と東吉倉村の名主六兵衛は村民を代表して、この訴えを実現すべく公儀への陳情を繰り返すなど尽力した。 

  取香牧は、佐倉牧の中の一区画。この地がどう名を変えていくかもおもしろくて、牧の跡地には、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街……十余一、十余二、十余三まで、数字の地名が多く残っているが、これは、「明治時代、幕府の広大な牧が廃止され、農業地にする開墾を始めたとき、開墾の時期の順番で、数字の地名が十三まで付けられたから」(『「馬」が動かした日本史』)ということだ。
 で、取香牧の跡地は何番目とかという話ですらなく、開墾自体されなかった。その広大な平地は、種畜場となり、皇室で用いる農産物を生産する御料牧場となり、さらにその後で3分の1が成田空港となった。

 そんなところで、土手を越えてくる野馬に苦労していた治右衛門にまた戻る。こっからが大変だ。なぜって、本来ならば協力しなければならない人物のとんでもない裏切りにあってしまうからである。

 ところが、東吉倉村の名主六兵衛は自己の管理責任を問われることを恐れた野馬掛りの牧士の甘言に乗り、途中から自らの利益に走るようになった。たまたま公儀よりその被害状況を調査検分するという沙汰があり、この機会に六兵衛は自分の栄達のため野馬掛りの役人と共謀し、その前夜ひそかに一族を集め、耕地に接する牧場の土手を修復し、被害のあった畑を荒れ地のようにした。こうして証拠をもみ消したのである。したがって翌日の検分後、東西吉倉村民の訴えは一切成り立たないという結論が下された。 

  最低な六兵衛の最悪の隠蔽工作により、村民たちはお上に虚偽の訴えをしたという形になってしまったのだ。それでどうにかなるかというと、その場ではどうにもならない。後々こうして色々わかるだけだ。

 治右衛門はじめ両村民は大いに怒り、その不当を強く訴えたが、逆に公儀に迷惑をかける不届者として治右衛門は入牢に処せられる身となる。しかし、治右衛門は意志を曲げず、正当な裁きを求め、日夜お経を唱えて止まなかった。役人達が禁止を命ずるも聞き入れず
「我今罪なく牢獄につながる。身の死するをいとわざるも、村民の難儀救わざればやまず」
と、なお一層大声で読経を続けるため、役人共大いに怒り、遂に本人及び家族は同年三月十五日に経堂塚(現吉倉字大日入)で処刑された。 

 『天保の義民』なんかを読むと、規模は違えど、理由は何であれ牢の中で拷問があるとかなり非道い有様になっているが、ここではどうだったかはわからない。
 この救いのない展開に後世の人間が救いを見るとすれば、真相がわかって治右衛門が義民として残ったことだ。それだって、ただ残るわけではなく、残し続けた人間がいなければ残らない。

 両村民は幕府の厳しい掟のため治右衛門家族を正式に祀ることができず、この出来事を伝承し経堂塚を守ってきた。明治三十一年県道拡幅に際し、経堂塚の一隅から治右衛門家族の遺骨が出土した。吉倉ではその遺骨を多聞院境内に移し、墳墓を建立し御霊として祀った。
 治右衛門様は、吉倉村の名主にして野馬被害の訴えにより、村民のため家族共々処刑された義民である。
 その偉徳を敬い、ここに平成の整備を行う。
                               合掌
 平成十四年七月吉日

 明治31年は1898年で、1659年から240年ほど経っている。そして、それからまた120年経った。「この出来事を伝承し経堂塚を守ってきた」人々の時間にすり切れることのなかった思いがわかろうというものだ。
 野馬土手が均され、飛行機が盛んに飛び交うようになっても、罪なき牢で死を覚悟して村民のために大声の読経を続けた人間がいたことや、そんな状況に追い込んだ悪い奴がいたことに、あてもなく歩いているだけで出会うのだから、人の世は面白い。


 と言ったところで首肯する人の数もまた減っているのは間違いがない。本書を出版した崙書房出版は、長らく千葉の郷土史にまつわる本を出し続けてきた、流山の地方出版社である。小説を書く資料としても趣味の読書にしても非常にお世話になり、書棚を見てもすぐに何冊もその名が見つかるが、昨年に閉業した。
 東京新聞の記事には、小林規一社長の言として「プロの作家でも学者でもない地元の人たちが、みんなに知ってほしいと思う地域のテーマについて丹念に調べ一冊、一冊本にしていった。著者と読者が同じ視点で本がつくれたことは楽しかった。残念だけど、悔いはない」とある。
 本書もまた、こんな風に書かれたようだ。

 折りたたみ式自転車を肩から下げて、私は夜が明け切らないうちに流山の自宅を出た。佐倉牧の野馬土手調査は、週1回のペースで去年の3月から今年の3月までかかった。37回も通ったから、1牧5回の計算になる。
 原則として、現場でできるだけ多くの方から話を聞くことを心がけた。次の日は図書館で住宅地図をコピーして土手の長さを測り、土手の近くの方にはがきを書いた。電話で補助取材して、鮮度のいいうちに文章化する。電話取材して、後日に直接うかがった方も多かった。
 (p.229)

 土地に碑を建てるような気で本を作るのは、もはや流行らないということなのだろうか。人の世の行方は誰も知らない。

 

「馬」が動かした日本史 (文春新書)

「馬」が動かした日本史 (文春新書)

 

 

天保の義民 (岩波新書)

天保の義民 (岩波新書)

  • 作者:松好 貞夫
  • 発売日: 1962/12/20
  • メディア: 新書