『僕の知っていたサン=テグジュペリ』レオン・ウェルト、藤本一勇訳

 

僕の知っていたサン=テグジュペリ

僕の知っていたサン=テグジュペリ

 

 

 芸能人の自殺の報が多い。本人のことは何もわからないけれど、自分と同じような情報しか持っていないはずの人々からかなり色んな言葉が出てくる。ちょっと見ただけでも、何でそんなこと言うんだと思う。

 自殺でなくとも人が死んだら何らかの反応があり、普通は死人に口なしで言われるがままだが、稀に死人がトム・ソーヤーのように戻ってくることもある。
 サン=テグジュペリは1935年、フランス-ベトナム間最短時間飛行記録に挑戦した。機体トラブルでサハラ砂漠に不時着し、一時は生存が絶望視されたが、三日後に徒歩でカイロに生還した。『人間の土地』の「砂漠のまん中で」でその時の経験は詳細に語られている。
 戻ったサン=テグジュペリは当然、町に出る。一度は「死んだ」人間を見かける人々の中には、何か言わずにいられない人間もいる。『星の王子さま』で献辞を捧げられている親友のレオン・ウェルトはこんな回想をしている。

 彼がリビア砂漠から生還してほんの数週間後のある晩のことだ。僕らはカフェの奥のテーブルに座っていた。もう時間は遅かった。すでにカフェが照明のついた巣穴に変わる時刻だった。突然一人の女性が(それは有名な女優だった)、席のあいだを通って僕らのところにやってきた。サン=テグジュペリの前までくると、彼女は折りたたんだ両腕をわななく二つの翼のような仰々しい身振りで前方に差し出し、そして店内のざわめきを圧するような声で言った。「フランスのすべての女性が、わたくしと一緒に泣きました……。いまはフランスのすべての女性が、わたくしと一緒に喜んでいますわ……」。
 サン=テグジュペリは、謙虚さからテーブルを見つめるべきか、それとも礼儀からこの栄光の恐るべき寓意物を見つめるべきか、わからなかった。ようやく、その寓意物は戻っていった。彼の声が聞こえなくなるところまで彼女が遠ざかったとき、サン=テグジュペリは僕のほうに身をかがめて言った。「あの大きな七面鳥はなんだ?……」
 (p.116)

 

 レオン・ウェルトは「栄光が(生や死それ自体と同じように)滑稽さを免れないことがある」と書いているが、フランスらしい(レオン・ウェルトはユダヤ人だけれど)。
 2015年の『シャルリー・エブド』襲撃で重傷を負った記者のフィリップ・ランソンは、十三度の手術を経た退院後、プリンストン大学での集会でバルガス=リョサを相手にこう言っている。

シャルリー・エブド』襲撃の日に私たちが理解し、その後の襲撃で確信したのは、表現の自由は、自由の中で最初に来るものだということでした。つまり私たちが自由に話すことができなければ、他の自由について考えることもできないし、それをどのようにして実現するかも分からなくなってしまうのです。もし私たちが、なんらかの不都合な場合に表現の自由が「行き過ぎている」と考えるとなると、そうしたことが実現不可能になります。
マリオ・バルガス=リョサプリンストン大学で文学/政治を語る』p.240) 

 最初に来るこの自由は、どのように使うかというものですらない。
 竹内結子三浦春馬とデキていたとか大真面目に言ったとしても、人々の前で死を泣いて生に喜ぶだけだとしても――人をどんな気分にさせるかはともかく――それらは表現として同じことだ。コロナがどうとか産後うつや仕事がどうとか、多くの人が納得するような意見だって何も変わらない。

 無関係の人間が誰かについて話し出せば、七面鳥になる「滑稽さ」を免れない。それでも何かを言わずにいられないのだから、そんな己が滑稽だと自省しておくほかに、もしくは死んでもその自由を守り続けると覚悟しておくほかに、それを薄めさせる術はないだろう。

 サン=テグジュペリはふつう考えられているような憐憫は拒絶する。たとえば惨めな移民たちですし詰めの列車の通路などで、彼は責任の拒否にすぎない漠然とした憐れみをはねつける(というのも一切の人間に他人の悲惨や犯罪に対する責任があるからだ)。「ここで傷ついているのは人類のような何かであって、個人ではない……。僕は憐憫などほとんど信じない……」。
(p.96)

 

 さらに、サン=テグジュペリは、本を誰かに読んでもらうこともまた同じとわかっていた。責任の拒否に過ぎない憐憫を信じないなら、不特定多数に向けたあらゆる表現もまた信じるに足らない。『星の王子さま』の献辞は、第二次大戦下のフランスで暮らすユダヤ人である親友に、しかもその子供時代に宛てることで、表現が孕んでいる滑稽さに毅然と背を向けようとしているようにさえ見える。(この「さえ」の滑稽さを自覚しなければならない)

 レオン・ウェルトに

この本を一人の大人に捧げることを許してほしい、とぼくは子供たちにお願いする。大事な理由があるのだ。まず、その大人はぼくにとって世界一の親友だから。もう一つの理由は、その大人は子供のための本でもちゃんとわかる人だから。三番目の理由は、その大人は寒さと飢えのフランスに住んでいるから。慰めを必要としているから。これだけ理由を捧げても足りないようなら、ぼくはこの本をやがて彼になるはずの子供に捧げることにする。大人は誰でも元は子供だった(そのことを覚えている人は少ないのだけれど)。だから、ぼくはこの献辞をこう書き換えよう――

小さな男の子だった時の
レオン・ウェルトに
(『星の王子さま池澤夏樹訳)

 

トム・ソーヤーの冒険 (新潮文庫)

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人間の土地 (新潮文庫)

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