初恋

 あたしはこの学校に越してきた小2の時からずっと夜岡のことを気になっていた。ちょっと長すぎる前髪も、長すぎるから良いと思っていた。
 だから夜岡の誕生日会に呼ばれたアオイちゃんから夜岡の誕生日会にいっしょに行こうって誘われたときは「別にいいけど」なんて言ったけど、正直めちゃくちゃ嬉しくて、その日の日記はとても長くなり、あることないこと色々書いてしまった。
 夜岡の誕生日はちょうど週末の日曜日で、パーティーが始まるのは1時から。招待状があたしの家のポストにも直接届いて、その軽さにドキドキした。
 あたしは何を着ていくか迷いに迷ったけど、いつもと同じように、緑のニットに黒いスカートで出かけていくことにした。
「こういう時ぐらい、もうちょっと女の子らしいスカートで行こうって思わないの?」
 お母さんが玄関まで出てきて、嘆き節であたしを見送る。自分が買ってきたくせに。お母さんは何もわかっていない。でも、わかっているのかもしれない。
 近所の公園でアオイちゃんと待ち合わせると、アオイちゃんはいつもより着飾っていた。といってもさりげなく。靴にはちょっとだけヒールがついていた。外はあたしと歩くだけなのに。でも、だから、夜岡のことが好きなのかなとちょっと思った。
「ツルちゃんはいつも自然体だよね」アオイちゃんはあたしの格好を見るなり言った。
「そう?」と素っ気なく答えるのがいつものスタイル。
「そうだよ。あたし、いっつもうらやましくなるんだ」
「そうなの? 私はアオイちゃんの方がうらやましいよ」夜岡とふつうに話してるし、と心の中で付け加えた。
「え、なにそれ、意味わかんない!」アオイちゃんは笑いながら大声で言った。静かな住宅街だから、すごくよく響いた。
 自然体。その言葉を、誰が最初にあたしに言ったのだろう。いつしか、みんなが言うようになっているような気がする。でも、きっとあたしは図々しくて、楽をしたいだけなんだ。あたしだって、アオイちゃんと同じくらい、それよりずっと装っているよ。着飾らないように気をつけるのは、着飾る心とそう変わらない。それを心で思うことが自然体に見えるなら、とてもヘンなことだ。
 アオイちゃんのために少しゆっくり歩くのがもどかしかった。先生の文句とか、行事のこととか、なんでもないおしゃべりが続く。気持ちのやり場を物陰の猫に向けたら、大きな目でこちらを見返していた。
 夜岡の家に着くと、エプロン姿のお母さんが出迎えてくれた。PTA会長で、学校行事の時とかによく見かけるビシッと決めた姿とは違うけど、やさしい笑顔は変わらなかった。
「あら、いらっしゃい。もうみんないらしてるわよ」
「おじゃましまあす」とアオイちゃんが言った。あたしもそこに声を混ぜた。
「原田さんかわいいわねえ、お人形さんみたい。舞鶴さんもいつも凛として、すごくいいわ」
 そのほめ言葉が心にぴったりきて、あたしはにっこり笑顔を返した。そうだ、夜岡のお母さんは自然体とかクールとか言わないんだ。だから夜岡のお母さんほんとうに好き。本やドラマのPTA会長とちがって、つんつんしてなくて本当にいい人だから好き。あたしのお母さんと似ていると思う。同じようなお母さんに育てられたから、夜岡とあたしはとても似ている。あたしはうれしくなった。でも、似すぎているのはよくないかもしれない。
 誕生会はすごく雰囲気がよかった。夜岡のお母さんが腕によりをかけた豪華な料理が出てきてすごくおいしくて、ケーキもちょっと遠いところ、住宅街にポツンとある所のオシャレなやつ。男子もはしゃいでいたし、ゲームが苦手なあたしでもマリオパーティーなら楽しめた。一度、夜岡と同じペアになったけど、あたしたちはひっそり負けた。プレゼントもみんなにまじって渡すことができた。ただのシャーペンだけど、あたしが日記を書くときに使っているシャーペン。そしてあたしは、夜岡のことをいつもよりずっとたくさん見ていられた。
 珍しく、とても気分がよかった。それでもちょっと疲れて、にぎやかなリビングを抜けてトイレに立った。少しゆっくりしてから戻ろうと、あたしはトイレを出てから、きれいな洗面所に長居した。手を洗ったり、整然と並んだ歯ブラシをながめたり。青くてほかより少し短いのに目をつける。これで毎日歯をみがいてるんだ。
 廊下には、靴箱のような両開きの棚が置いてあった。その上に飾られている水彩画に目をやる。いい感じの港町の絵。オシャレなクリーム色の背の高い建物が並んでいて、きれいな青色の海に面した波止場に、緑色の服を着た女の子が小さく描いてある。あたしがよく行く歯医者にかかっているのとそっくりだ。家の廊下に絵が掛かっているなんてすごい。
「それ、ケンスケが描いたのよ」
 驚いて振り返ると、夜岡のお母さんがいた。
「あ、え?」とあたしは驚く。
「去年に、半年ぐらいかけて」
 なんとか会話の内容をのみこんで顔を上げる。まじまじと絵を見つめた。
 これが夜岡の絵? 絵、描くんだ。しかもこんなすごいの。そんな話、聞いたこともない。アオイちゃんは知っているだろうか。仲の良い男子も知っているのだろうか。
「私、ぜんぜん知りませんでした。確かに夜岡くん、図工の絵も上手かったけど、なんていうか、こんなにすごくなかったですし」
「そういう、人前で何かするのが苦手なのよ、堂々とやればいいのにね」
 夜岡のお母さんは、あたしに見せるためのかわいらしいため息をついた。あたしの緊張の糸がするするほどけるような気がした。
「でも、なんか、わかります。それで、半年もかけて何かを成し遂げるなんてすごいです。尊敬する」あたしはちゃんと本当の気持ちを言った。
 夜岡のお母さんは、心地よいスリッパの音を響かせてあたしの横に来た。絵に向かってゆっくり手を伸ばす。ぴんと伸びた人差し指の爪が意外に幅広くて、あたしはハッと息をのむ。見てはいけないものを見てしまった気分。少し胸が騒いだ。
「ほら」
 その爪が指したのは、緑色の服を着た後ろ姿の女の子だった。つまらなさそうに、町の方に歩きかけて行くみたいな、なんとなく気だるい傾きをした女の子。
「これ、舞鶴さんなのよ」
「え!?」冗談ぬきで、心臓が止まりそうになった。「私?」
「こんなこと言ったらケンスケに怒られちゃうわね。でも、そうなのよ。今と同じ服、着てるでしょ。舞鶴さん、この服が好きだものね。ケンスケ、去年の林間学校の写真を見てずっと描いてたのよ。何度も何度もこの部分だけ、いろんな紙に下書きして」
 心臓が、遅れをとりもどすように音を立てて鳴り始めた。
 あたしにはその写真がわかった。みんなで朝の散歩に行った時に、少し遠くの方で誰ともつかず離れず、一人歩いているあたしの後ろ姿。アオイちゃんは低血圧で朝が弱くて、先生に押されるように後ろの方を歩いていたんだ。夜岡は手前の方でカメラの方に振り向いて、微笑みかけるほんの少し前の表情をしている写真。あたしはその写真だけ買った。夜岡といっしょに写っている写真の中でいちばん気に入ったから。
「海の色とちょっと合わないから、苦労してたわ」
 確かにそうかもしれない。女の子だけがきれいな風景から浮いているみたいだ。
「あの子、舞鶴さんのことが好きなのよ。2年生で、あなたが越してきた時からずっとね」
 頭が真っ白になった。言ってる意味もわかった。でも、ただ真っ白。なんもなし。言葉を忘れてしまったよう。
「え、でも……」
「舞鶴さんは、どうなの?」
 あたしが考えるより先にどんどん話が進んでいる。どうなってるんだろう。
「私は、そんな、好きとか、そういうのじゃないですし……」
 なんて言っていいかわからなくて勝手に出てきた言葉はすぐにあたしから離れて、小鳥みたいにいなくなった。その言葉を、あたしはどうにもできない。もう取り返しがつかないという気持ちだけが心の中にある。どうしてだろう。どうしてあたしは素直になれないのだろう。
「そうなの。付き合ってあげてくれないかしら?」
「む、無理ですよ」とあたしは言っていた。
 自然体というアオイちゃんの言葉が頭をよぎった。そうだったら、自分の気持ちにそのまま身を任せられたらどんなにいいだろう。夜岡と両思いで、お母さん公認で付き合えるかもしれないよ。なのに、どうしてこんなに意気地がないのだろう。今はただ早くこの場から逃げ出したいなんてことを、どうして思ってしまうんだろう。
「ほんとにずっと好きなのよ」
 そこであたしはぞっとした。自分がそう思っているみたいな言い方。いつもの明るい笑顔はなくなっていて、突き刺すような、それでいてあたたかみのあるような、あのお説教の目があたしをとらえて離さなかった。
「こんなにお願いしてるのに、ダメなの?」
「お願いとか、そういうのじゃなくありませんか?」
「どうしてダメなの?」
 笑顔が浮かんだけど、あたしを責めるような変なゆがみがあった。
「どうしてって、そんなこと、急に言われても困ります」
「急じゃないわ。二年生から、ずっと思っていたことだって言ったでしょう? 中学に上がったらケンスケは私立に行くだろうから、2人は離ればなれになってしまうわね。せっかくの初恋なのに」
 自分が震えていることに気づかないわけにいかなかった。せっかくの初恋なのに? 何を言っているのかわからない。何を考えているのかわからない。でも、自分の方がまちがっているような気もしてくる。早くみんなのところにもどりたい。
 突然、夜岡のお母さんがしゃがみこんだ。反射的に一歩引いたあたしからは、つむじのあたりがよく見えた。意外と髪の毛が薄くて、真っ白い頭皮が透けて見えたので、またぎょっとする。もう、この人にあこがれていた時の気持ちをわすれてしまった。
「見て」夜岡のお母さんは、両手で力強く棚を開いた。
 思った通りにそこは下駄箱だった。全ての段に靴がぎっしり入っていた。低学年生のから、高学年の大きさまで、スニーカーばっかりだけど、いろんなメーカーのいろんな色が、全部、一面に、かかとを向けて。
 あたしはその靴をぜんぶ知っていた。だから言葉を失った。
 それはみんな、あたしの靴だった。
「驚いた?」と夜岡のお母さんは私をいたずらっぽく見上げた。「あなたが今まで履いてた靴、全部あるでしょう?」
 全部どころか今日はいてきた靴まであった。ほかのだって、家に同じ靴はちゃんとある。血の気が引いて、うまく考えることができない。ドキドキする。もういやだ。おそるおそる息を吸って、言葉の分だけたくわえる。
「どうしてですか……?」震えは声までのぼってきていた。
 夜岡のお母さんはちょっとずれていたあたしの靴をそっと直した。あたしの靴。あたしのじゃない靴。
「ケンスケに聞いて、あなたと同じ靴の同じサイズのものを買ってきたの。それで、あなたのと同じように汚すのよ。あの子絵が上手いから、ささいな汚れも目の前で見てるように絵に描けるの。私がそれを見て同じように汚して、学校で交換するの。それであなたが履いて、また汚れてきたら、同じようにうちにあるのを汚して、何度も交換して。それをくり返すのね。あなたが新しい靴を買ったら、また同じのを買ってきて、ある程度したら交換して……」
「なんでそんなこと……」
 夜岡のお母さんはけらけらと笑った。
「ケンスケはあなたが好きなの。好きな子の靴が、気にならないはずないじゃない」
 好きという言葉に喉がきゅっと締まる。そんなことには縁がないみたいに思っていたけど、それは、その言葉をすごくステキなものだと思っていたからだ。あたしには似合わないと思っていたからだ。
「いやです」とあたしは言った。
「どうしてよ」
「いやです」
 その時、リビングに続くドアのノブが回る音がした。途端に、下駄箱の扉が勢いよく閉じられた。ドアが開くと同時に、夜岡のお母さんはゆっくり立ち上がった。
 廊下に出てきたのはアオイちゃんだった。
「あ、なんだ。話してたんだ」
 アオイちゃんはほっとしたような顔を浮かべてあたしを見た。心配して抜けてきたんだ。ほんの少し、あたしの心に温かなお湯が流れこんだように思えた。
「そうなのよ。おしゃべりが楽しくてね。あ、ジュースとか、まだ足りるかしら?」
「いえ、大丈夫です。もうみんなあんま飲んでないし。空いたペットボトルとか、持ってきた方がいいですか?」
 この人と話すのが誇らしいみたいで、はきはきとしゃべるアオイちゃん。あたしはそれしか見ないようにしていた。
「ううん、大丈夫よ。ありがと。ホントに二人ともいい子だわ。ああもう、うちにも女の子がいたらよかったのに!」
 あたしのみぞおちが寒気をこみ上げるように震えた。顔の前で軽く合わされた手を見てしまった。寸づまりの爪。気づいたら薄いマニキュア。あの手によって作られた料理が、あたしの体の中に入った。あたしの体で熱になって、あたしを生かす。
 たまらなく気持ちが悪くなって、すごくいやな気持ちがみぞおちでうずを巻いている。それはどんどん深くなって、全部のみこんでいく気がする。
 今まで、こんな時どうしていたんだっけ。こんな時があったんだっけ。
「ツルちゃん?」
 視界が狭まり、まずアオイちゃんが見えなくなった。それでもあの人がそばにいるということは、わからなくならなかった。体の真ん中がぎゅっとしめつけられた。
 あたしはそこでみんな吐いた。ぴかぴかにみがきあげられた廊下にみんな吐いた。チキンもポテトもサラダもケーキも、ぜんぶ吐いた。
 その人は、それをきれいに掃除して、これ以上なくあたしを気づかった。家に電話をかけて、タクシーで送ってくれた。家に着くと、お母さんがあの人に何度も何度も頭を下げた。次の日、あたしは初めて学校を休んだ。