ワインディング・ノート2(太宰治・『津軽』・贈与論)

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません。」
正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
「さうして、苦しい時なの?」
「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ。」
 私もいい加減にとしをとつたせゐか、自分の気持の説明などは、気障な事のやうに思はれて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言ひたくないのである。

 
 太宰治津軽』の、「序編」はとばして「一、巡礼」の冒頭である。
 主人公の津島修治(太宰の本名である)は、自分の気持ちの説明が「文学的な虚飾」になると断じて、口をつぐむ。
 「文学」もまた、ある種の共同体であるが、こうした芸術・学問においては、哲学の行き渡りや超越論によって、その法や慣習を否定しながらも、その共同体に存在することが許される。いや、というよりも、法や慣習を否定すること自体が「法や慣習」としてまかり通っている分野である。
 そこから独立してものを書こうなどということなどできないだろう。操る言葉は、全ては多岐にわたって複雑に組み合わさった引用に過ぎないが、それを引用元まで遡及することが余りにも困難を極めるのだ。
 死をもって、人は共同体から解放される。
 上の引用で、旅のはじめの女との会話に累々とあげられている同じ共同体にかつて孕まれていた死者たちの名前は、彼がこの後で故郷へと旅に出ることと相まって、くり返し、以下の言葉を思い起こさせる。

故郷を甘美に思う者は、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。

 
 ならば、故郷である津軽に帰らんとする津島修治は「故郷を甘美に思う者」なのだろうか?
 順番が前後するが、『津軽』の「序編」にはこんな言がある。

「数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、汝を愛し、汝を憎む。」

 
 フーゴーの言葉にあくまで寄りかかるなら、これは「完璧な人間」の言葉である。
 太宰は、明らかに「全世界を異郷と思う」作家だ。
 それでは、「故郷を甘美に思う者」と、故郷があると認めながらそれを疑い「全世界を異郷と思う者」の間には、どれほどの乖離があり、それはどんな形をとって現れるのだろうか。

 太宰に心酔する者は多い。現在もなお、広く読まれ続けることのできる作家は少ないが、彼はそれになった。これからもずっとそうだろう。
 吉本隆明は、『悲劇の解読』の中で、「その場かぎりのどうでもいい感情を吐き出しているようにみせながら、生まじめに真理をいう力がかれの本質である」と書いている。
 太宰の作の中で、他者はあらゆる関係の中で、他者のまま在り続ける。近親者ですらそうである。「ワザ」を見抜く阿呆の竹一すらそうである。そこには、いつ何がどうなろうと文句の1つも言う権利のないほど理不尽な、非対称の人間関係がある。
 しかし、その齟齬が悲劇に堕せず、どうしてもユーモアに流れるのは、太宰が「全世界を異郷と思う者」であるかはともかく、それについてよく知っているからではないだろうか。
 『津軽』では、故郷の青森の風土や歴史が細かく語られるが、太宰は、以下のような具合でいちいちそれを否定している。

私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知つたかぶりの意見は避けたいと思ふ。私がそれを言つたところで、所詮は、一夜勉強の恥づかしい軽薄の鍍金である。それらに就いて、くはしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。


「愛」を追求することが「津軽」を語ることになるのではないかと彼は言っている。
 ならば、いちばん「愛」だと思われる場面を見てみたい。
 最後、津島修治は三つから八つまで育てられた"たけ"に、これを一番楽しみにしていたから最後にとっておいたとかわいいことを言って、いそいそと会いに行く。だから、まあ、これがいちばんの愛でいいだろう。
 しかし、たけは子供の運動会に行っていて、家を訪ねてもいない。運動場に行ってみるが、人にまぎれて見つけることができない。するとだんだん弱気になってくる。

私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはゐませんか、金物屋のたけはゐませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまはつたが、わからなかつた。二日酔ひの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行つて水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジヤンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福さうな賑はひを、ぼんやり眺めた。この中に、ゐるのだ。たしかに、ゐるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせてゐるのであらう。いつそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらはうかしら、とも思つたが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだつた。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでつち上げるのはイヤだつた。縁が無いのだ。神様が逢ふなとおつしやつてゐるのだ。帰らう。私は、ジヤンパーを着て立ち上つた。また畦道を伝つて歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待つてゐたつていいぢやないか。さうも思つたが、その四時間、宿屋の汚い一室でしよんぼり待つてゐるうちに、もう、たけなんかどうでもいいやうな、腹立たしい気持になりやしないだらうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢ひたいのだ。しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰らう。考へてみると、いかに育ての親とはいつても、露骨に言へば使用人だ。女中ぢやないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕つて、ひとめ逢ひたいだのなんだの、それだからお前はだめだといふのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思ふのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違つて、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだらう。しつかりせんかい。

 
 津島修治くんの心は揺れている。今だけでなく、ずっと、生涯ふらふらと揺れているのだが、故郷に帰ってなお揺れるのだ。
 この場面は、要は、「故郷が、絶えず甘美であることなどありえない」という告白であろう。
 次の瞬間の自分の心持ちを制御できると、彼は考えない。いつあの、全てをどっちらけに帰する「トカトントン」という忌まわしくも安らかな間抜けの音が聞こえるか、常に考えずにいられない。その音は、来るのは怖いが、来たらなんの不安もないという特性を持っている。
 しかし、『津軽』の中で、太宰はたけの子供に会う。機嫌良くしゃべりまくり、案内されて後、ついにたけと再会し、ともに運動会をながめる場面で、その心境に変化が訪れる。
 引用が多すぎるが、自分はこれらの場面をすべてノートに引き写している。これを読んで何か考えることがあったのだろう。その時あったのだから、今もあるだろう。だから、ぜんぶ書くことにする。

「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。

 
「親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。」とは、単純明快だが、たけは育ての親で、生みの親ではないという点でちょっと単純でない。
 生みの母が与えなかった不思議な安堵感を、育ての母であるたけは与えた。
 太宰はここで、親子という血縁的な事実関係ではなく、生きた経験に基づく交流関係が人間に影響を与えると主張しているのだ。そちらの方が「自然」だと言うのである。
 ともすれば、与えられたから与えるのだともとれる、やや現金にも聞こえる論理だ。その証拠に、実の親には与えられなかったから親孝行をする必要がなかったと暗に言っている。

 単純な脳みそに、マルセル・モースの『贈与論』の論理が思い出される。
 モースが分析した贈与行為は、次の3つの特色をもっている。
 ①贈り物を与える義務、②贈り物を受ける義務、③お返しをする義務、である。これらが共同体の間で繰り返しループされる。

 わざわざ贈与の例を出さなくても、太宰の語るものを義理と言ってもいいかもしれない。やったからにはやらなくてはいけない。貸し借りについて自覚的であろうとする態度だ。
 とにかく、太宰の目には、人が人に対してやることなすことは、何か気詰まりな「返礼」という重荷を引きずっているように見えるらしいという、それは確かだ。
 そのくせ、である。
 太宰のことを考えようとすると、この「そのくせ」という柔な言葉を永遠に書き継ぐことができる。次回でそのことを考えたい。

 

 

津軽 (新潮文庫)

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贈与論 (ちくま学芸文庫)

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