美少女の「ビ」、アキラの「ラ」

 苦慮という言葉は父からもたらされた。自分は父の言いなりに利き腕を右とし、日本語を母語とし、それからやはり苦慮することになった。分別を過度に知ることで失い、崖下に美少女の「ビ」が見えた。
 自分は崖下に続く暗い道を下った。大阪近鉄バファローズのエルビラは守備に助けられながらノーヒットピッチングを続けていた。
 自分がアキラと名付けられる前のこと、産道の壁には爪痕のような字で「おぞましきことおぞましきこと」と書かれていた。正確に言えば、生後5年、脳裏にこびりついたきれぎれの形がアンパンマンあいうえお表によって意味を与えられたのだった。
 十年後、苦慮を重ねた自分は産後すぐに死んだという兄の存在を知らされる。あんな陰気臭いところを通った二人目だとは! 中世の力で乱暴に削られた岩壁に手をついて吐き捨てる。自分は苦慮する。この世のにせまみれ。おぞましきことおぞましきこと。心の生け贄となって方便をまき散らして有耶無耶にすることで形を保つ真似など。
 未だ自分の心はチャウシェスクの支配下にあるのかもしれない。自分が生まれたという証拠はどこにあるであろうか。しかし、それを探す罪に留まり続けていることが「にせ」ということではなかろうか。

 

 がけの下には岩がいくつもつみ上がっていて、おだやかな波が打ちつけていた。しずんだ青色の水は、くぐった岩の先へこみ上げるように顔を出しては、白くせいけつにあわだち、すずしげな音をきかせていた。
 すでにして美少女は岩の一つにだいたんに左足をさし上げ、ワンピースをくの字のへそまでめくり上げ、女性器をこちらに見せていた。くらい岩場で、彼女の体だけが月光にてらされて白かった。
 自分は岩に手をつき足をかけ、のろのろと近づいた。
 顔をよせた美少女のそれは自分の出てきたものとちがい、おさまりよい線がつらぬいていた。これこそ「美少女のビ」であろうと自分は思った。
「アキラ」と少女はすぐそばでつぶやいた。すると陰唇がわずかに震えるように成長して、その先々が、生暖かい空気にさらされた。自分にはそれが手をさしのべ、誘い込むように見えた。そして何より恥じらっているようにも見えた。
 反射的に劣情を催したその時、エルビラが清水雅治をショートゴロに打ち取り、ノーヒットノーランを達成した。
 性器は成長しながら崩れ、鈍く色を変えながらどろどろに溶けていった。しかしその形をしぶとく保ち、なおも陰茎を求めるように蠕動しているようであった。
 顔を上げると、そこにあるのは美少女ではなかった。いつの間に翳った月のせいで何もかも見えなくなっていたが、硬さを湛え始めた岩に似た塊が闇夜に黒く縁取られているのだけが理解できた。そしてその顔はこちらをまっすぐに見て、素知らぬ顔で何か訴えているらしかった。
 おぞましい赤黒い太陽が地平線の向こうに上り始めた。海がどどめ色にうねっているのが見えた。目を閉じた。どこからかラジオ放送が聞こえてきて、その途中で人は誰も事切れるのである。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ。朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ――