少女A 1

 阿佐美景子は昨夜遅くのスポーツニュースでウェイン・ルーニーを見た。
 頭が丸くて、胸板の厚い、レゴの人形のようなそのサッカー選手が頭を下に飛び上がってシュートを放ち見事なゴールを決めた時、誇張なしに、彼女には何が起こったかわからなかった。ルーニーは何事か叫びながら、ピッチの隅にある旗――彼女にはそれも何のためにあるのかわからなかった――を目指して一直線に駆けて行った。彼は膝を立てて体を反らせてすべりこみ、きめの細かい芝にわずかに沈んだひざ小僧を両輪に、怒号のような歓声を一身に受けて進んだ。旗の手前でちょうど止まると、それを拳でなぐりつけた。倒れた旗が跳ね返って戻るころ、彼はもう同じぐらい屈強なチームメイトに取り囲まれていた。
 また、阿佐美景子は後藤という若い体育教師が嫌いだった。
 外で体を動かす割に白い肌も、ツーブロックに見せかけた小綺麗な刈り上げも、日ごろの体育の授業では、不自然にならないように消した性のにおいを香水でも振るように小出しにするのも、快く思っていないらしかった。
 たまの保健の時間、授業前に早めにやって来て、廊下で日ごろ馴染みの女子とおしゃべりしている一帯には、誰の目にもつかぬよう慎重にという留保つきで批難の目を投げかけた。彼らの儀式は、小学生以来の出席番号一番を守り通してきた彼女のロッカーのそばで行われるのが通例だったため、彼女は非常に苦労した。
「阿佐美、マーくんとハンカチ王子だったら、断然マーくんの方がいいよなあ?」
 漂白したトウモロコシを植えこんだような大きく白い歯をこぼして楽しそうにしゃべっていた体育教師は、教科書を取りに来た背の高い女生徒に、それまで話していたらしい話題をリンゴでも放るように投げかけた。彼女は微笑み、さりげなく耳を指で払った。こんな時ばかりは気に入りの名前のような名字が汚らしいものに感じるとでも言わんばかりの動作は、しかし肩まで伸びた柔らかい髪に隠されていた。
「いいよなあ?」
 念押しの問いかけに彼女は返答に窮した。家族以外で誰の食べ差しも口をつけられない潔癖のたちであることが影響しているようにすら見えた。「ええっと」そう言うと、きっかり二度まばたきをしてまた微笑んだ。瞳に涙をにじませるあくび、もどかしい空気を喉に押し返すおくび。そうしたもの同様のありもしない感情を持ち上がらせようという義務を負った空虚な感じがあった。
 体育教師を取り巻く同級生たちは彼女を注視することに負い目を感じたように視線を落としたり、カーディガンの肘の毛玉を手先でさぐったりした。
「そんなさみしそうに笑うなよ」体育教師は彼女の欠点を優しい手つきでひっくり返すような言い様をした。
「ええ?」それこそ彼女が最も得意としない種類の遣り口だということを証明するように、彼女の顔からせっかくこみ上げた表情が一瞬だけ忘れ去られた。しかしそれは、そこにいた誰もが見逃すほどに一瞬だった。「そんな笑い方してないでしょう!?」
「いや、してたしてた。恐ろしいぞ。自覚がないってのが一番。大女優だな」
 救いの手と見まがうばかりに体育教師の胸は張られた。彼女がそこを見つめると、次の言葉を待つように動きは止められた。
「ちょっと考えてみただけですから」
「どうかな。そういう女がいちばんこわいって、俺はけっこうだまされてるんでやたら敏感なんだよ。阿佐美はそういうタイプだよ」
「ウソ、先生けっこうだまされたの?」いたずら気に前のめりでのぞきこみ、口をはさんだのは体育教師の隣にいた津間希美だった。彼女の口元には、視線を一手に引き受ける大きなほくろがあった。「野球一筋じゃなかったの?」
「そうだな、そうだった」体育教師は一瞬そちらへ注意を移したが、一つ微笑んできっぱりした皺を頬に寄せて言った。「あぶないあぶない」そしてまた阿佐美景子へ顔を向けた。「で、どっちなんだ?」
「どっちかなんて決められないですよ。二人のこと何にも知らないし、そもそもこんなこと言ってんのもおこがましいし。しかも、マーくんて結婚してるじゃないですか。私、そういうの絶対ダメですからね」
「感心だな。じゃあ、ハンカチ王子か?」
「うう、追い込まれてしまった」道化混じりに彼女は息をついた。にやりと笑みも浮かべていた。それからすとんと落っこちるようにしゃがみこみ、エメラルド色のリノリウムの床につま先と膝をつく姿勢で、自分の真新しいロッカーへきちんと正対した。その場所からは横にいる同級生たちのスタイルに恵まれた者たちから順にスカートの内部がのぞけそうだった。彼女はそうせず、ロッカーに向かって「言うならば」と厳かに言った。
「バリバリのスポーツマンってちょっと苦手なんですよね。ハンカチ王子はちょっとちがうでしょう。だから、まあ、ほんとにそうかもしれない。あくまでもその二人だったら、の話ですよ」
「それは俺にケンカを売ってるってことだな」と体育教師は言った。満足いく取引を終えたことを示すような誇らしい表情を隠そうとしなかった。
「いえいえ」彼女はロッカーとにらめっこしたまま力なく笑った。
 体育教師はふと顔の筋肉を硬直させ、会話している当人にわかる分だけ声を低めた。「そういうところな」
「なんですか、それ」と彼女は言った。少し笑みを強めながらも前を向いたままだった。その横顔は、愛らしさと見れば慎ましさが、慎ましさと見れば愛らしさが、隠された側の面差しに予期されるようなものではあった。そこで彼女は突然、相好を崩して、体育教師の方を大きく振り返った。「恥ずかしいから終わり、終わり! 先生、おかしいですよ」
「そうか? お前の方がおかしいように見えるけどな」体育教師は彼女をまじまじと見つめた。「俺なんかより、ずっとな」
「勝手な人ですねえ」そこでちょっと間を置いた。「困った人とも言いますね」
 体育教師の顔がこわばった。しかしそれは抑圧の代償ととるのが自然なほど、微笑みの前兆めいたところがあった。首をしめられた微笑はとうとう外へは出なかった。
「とにかく、私におかまいなく」
 彼女はロッカーを開け、積み上がった教科書やノートから該当教科のものを探った。
 廊下では彼女の言葉を受け、彼女によって乱された会話が仕切り直されていた。「あ、ね、先生、今日の授業、いよいよヤバいとこでしょ。大丈夫?」
「大丈夫って何がだ」体育教師は振り向きながら背を反らし、胸のあたりを無雑作にかいた。声は気の置けない調子に変わっていた。「俺がお前らにからかわれてドギマギして鼻血でも出せば満足か? あのな、俺がもう何べんそのお前らのいうヤバいとこを繰り返し授業してきたと思ってるんだ。教科書なんか見なくたってペラペラ喋るし、目をつぶったって図も描ける」体育教師は長い人差し指で宙に描くしぐさをした。
「図!」何人かが手を打ち合わせる華やかな音が廊下に響いた。
 阿佐美景子は、ロッカーの中でいったん全て端を持ち上げた教科書やノートを、一冊一冊、指先からこぼすように落としていった。彼女のために設けられた小さな空間の中で、不揃いのリズムで物騒な音がするたび、空咳のような風が起こった。両膝の上にまっすぐ張りかかったカートがふるえるように小さく揺れた。彼女は次々に現れる表紙を、口をつぐむ用途を備えた微笑みを浮かべてながめていた。
 授業が始まってもなお阿佐美景子の表情はそのままだった。
「卵管でできた受精卵が子宮内膜に着床することをもって妊娠の成立とするわけだ」と体育教師は言った。教壇を両手で押し込むように突っぱって教科書を見下ろしていた。
 男子も女子もみな、恥じらいと笑いが相殺されて押さえ込まれた無感動な表情で体育教師の話を聞いていた。その塩梅は十人十色にちがうようだったが、使い切りのマーマレードの小袋のようにこぢんまりと、だが適量の好奇心がつまっているように見えた。教室は針でつくようなちょっとしたきっかけで恥じらいか笑いのどちらか余った方がはみ出そうなほど、弾力のある緊張に満ちていた。体育教師が顧問をつとめる野球部のメンバーが彼をおちょくるタイミングを見計らっていた。
「板書しよう」体育教師は片足を伸ばしたバレエのようなターンで黒板を向いた。長い白チョークを繊細な手つきでつまみ上げると、まず膣道の片側の線をまっすぐ引いた。それから腰を落として、下におりていった。左側から完成させるのが、彼の作法と見て取れた。みるみるうちに女性器が深緑の黒板に形を現してきた。
 阿佐美景子は、見ている方がひやひやするほどに恥じらいを放棄した目を壇上に奪われたまま何十分もそうしている津間希美を一瞥した。その恋する乙女が、頬杖をついた手の中で、最もいたいけに映るであろう落ち着いたゴールドのマニキュアを施した小指でもってすさまじいほくろを匿っていることに気づくと、はっきりと咎めるような目つきを投げかけた。
 黒板には、精緻な子宮をふくんだ女性器の略図が描き上がった。「何年描いてると思ってるんだ」Tシャツの袖から伸びたたくましく白い腕を落ち着きなく揺らして体育教師は言った。笑いがさんざめいた。しかし、手を広げたような卵管が抱えこんでいる瑞気に圧されたように、いつもより若干はやく落ち着きが取り戻された。
 阿佐美景子は図の完成時に一度だけ黒板を見上げたが、あとは教科書のカラー図版でまかなっていた。そのうすい彩色をほどこされた女性器の下に、手慰みにしては丁寧な字で「英検花子」と記入した。学校に提出する英語検定の申し込み用紙が今もカバンにおさまっていた。3級なんぞ早く取得して然るべきだが、彼女は二度にわたり落第しており、クラスの半数以上が先んじている。彼女は切れ長の目を細めながら、書きこんだ字を丁寧になぞって太くしていった。提出期限を守り検定にも優秀な成績で受かるであろう才女の模範的な性器に思いを馳せる愉快そうな表情が浮かんできた。
 ちょうどそのとき教室でちょっとした大きな笑い声が起こり、阿佐美景子は小さく肩を飛び上がらせた。
「だから鶴野、お前な。バカだなお前は。これはそういうことじゃない。そんなくりくりの坊主頭して、やらし~、じゃないんだよ」小気味いい笑いを引き起こした体育教師の笑顔を見て、さらに笑いは強まった。すると、まるで過冷却が結晶化したように、体育教師の顔に彫刻的表情が完成した。あまりに唐突で、それを怒りととる生徒が教室を占めるのに時間がかかったほどである。「ふざけるんじゃないぞ」その声は肉食性の動物が飛び掛かる前に身を伏せるような低い音程で留められていた。「お前は今、男性機能のある限りついてまわる死ぬほど大事なことに関して、自分の愚かさやいい加減さを証明したんだ。くだらん笑いをとるのと引き替えにな」
「いや、そんなつもりじゃなくって、冗談ですよ」相手との日頃の関係性に取りすがり哀願するような口調だった。鶴野明は見るからに萎縮していた。
「お前な」と前置きがあった。「イチローが小さい頃、野球を始めたての頃にでもいいが、野球のことを一度だって茶化したと思うか? どんなに本心とちがう建前でも、その場限りで周りの人間を喜ばせるためだとしても、って条件をくれてやってもいいけどな」
 反応はなかった。水を打ったように静まりかえった教室を前に体育教師は一度、咳をした。目を伏せ、それから時間をとって再び目を開けると、廊下側から窓側に向けて、手前から奥、奥から手前へと順にながめていった。途中からやや不服そうに教壇の縁のグレーの灰色をしたゴムに爪を立てていた。
「君たちはもう中学三年生だ。セックスだってもう他人事じゃない、というには遅すぎるぐらいか。こんな時代だしな。もう経験した奴だっているんじゃないか」
 誰もが呼吸をやめたその時、阿佐美景子と体育教師の視線が合った。彼女は話の内容とは無関係に、むしろ生来の無頓着さゆえ、ほんの一瞬さりげなく顔を上げたに過ぎない。誰もがやる偵察だった。この出来事に関しては、不運なことにと形容すれば間違いになるほど周到な人知が働いていたのだが、それについて彼女が知る由はなかった。
 二人は息をとめて見つめ合った。
 体育教師の頬に張った筋が、何か言いそうに動き始めた。それをとらえた彼女の目がゆっくり、大きく見開かれるにつれて脅えの色が現れた。
「阿佐美」体育教師は言った。「俺をぼーっと見てるけどな、阿佐美だって無関係じゃないぞ。みんなに関係あることだ。考えてみろ。どうせいつか考えるんだから、今考えてみろ。セックスと聞いて阿佐美は何を思い浮かべる。」
 クラスは物音一つ立てず騒然とする芸当を見せた。彼女はほぼ教室のへそにあたる位置に座っていたが、彼女の方を見る生徒も見ない生徒もいた。あるいは凝視し、あるいは少し安堵して体育教師を見たり、教科書に目を落としたりしながら様子をうかがっていた。ところで阿佐美景子は別に、そういうことを聞いてはいけないタイプの生徒ではなかった。清水柚希や唯川紀子のようにガラスの奥に陳列されるようなきれいどころに比べれば、質問者の思惑が下卑たものとして邪推される心配はなかった。それでいて彼女の器量は、街を歩けば好みに応じて何人かが振り向き、次の信号待ちでそのニュアンスに富んだ顔立ちを思い出す努力をさせるほどには良かった。奇妙な表現だが、彼女には真実味をもった女性らしさがあった。つまるところ、その真実味とやらが問題となるのなら、また下卑たものもご所望であれば、阿佐美景子ほどの適任者はいないと言えよう。クラスの空気はそれを思い出したかのように少しずつ静まっていった。
「真面目な話だぞ」
 阿佐美景子は大きく息をついた。表情を下から捉えることができれば、腹に据えかねるといった様子がわかっただろう。今にも、弾けるように立ち上がって、つかつか女の足取りで寄って行き、体育教師の真っ平らの頬をひっぱたきそうでもあった。
「はい」彼女は言った。こんなことで自分を好きになってたまるかという厳しく抑制された口調だった。そして彼女は背筋を正した。それは誰のためでもなく、今まで自分を支えてきた持ち前の理性をすんなり発揮するための作業に見えた。つづけて彼女は音なく立ち上がった。立ち上がる必要はなかっただろうがそうした。たじろぐ体育教師を見つめる目つきは強かった。
 視線にさらされた彼女は大きく息を吸った。その体は誰の目にもふくらんだように見えた。彼女は言った。「ルーニー選手がゴールを決めるんです」そのまま黙っていたら、男子の誰かが笑い出したにちがいない。しかし、彼女は誰にも邪魔をさせなかった。
ルーニー選手は、グラウンドの隅にある旗を目指して走り出します。そこには私がいます。旗をしっかりつかんで、四つん這いになって、ドキドキしている裸の私がいます。そこを目がけて、ルーニー選手が駆け寄ってきます。彼は、歓びを爆発させて、何か叫んでいるけれど、歓声で何も聞こえません。そのまま膝を立てたまま芝に飛び込み、すべりこんでくると、私のお尻を荒々しくつかんで、喉からそれが出てきそうなほどの勢いで、私の女性器に、自分の男性器を、挿入します。それで、私はセックスをします」彼女は喋っている間、体育教師から視線を外さなかった。
 体育教師はもはや彼の生徒たちと甲乙無いほど狼狽し、その意を迎えることに苦慮しているようだった。
 彼女は感情のこもらない息をついた。この世から全ての苦しみと救いを取り除き終えたように。しかし、この場の隅々にわたっている覚悟の無さと自分の程度を指弾する仕事を済ませた彼女が腰掛けるには、自分で話を終えなければならなかった。「そのぐらい、すごいものだといいなと思います」と彼女は言った。