ドアを強く鳴らすのは誰だ? (穂村弘『短歌の友人』)
謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の扉 小椋庵月
一読して、面白いなと思った。歌自体も悪くないのだが、それ以上に魅力のポイントがただ一点に集中していることが面白かったのだ。具体的に云うと、それは「ダシャン」の「ダ」である。この「ダ」に一首の命が凝縮されている。もしも、この歌が次のようだったらどうだろう。
謝りに行った私を責めるよにガシャンと閉まる団地の扉
「ダ」を「ガ」に替えただけで一首は死んでしまう。このかたちでは、<私>の体験の生々しさが伝わってこない。単なる報告のようにみえる。あたまのなかでするすると組み立てたものをそのまま言葉にしたようでもある。その理由は「ガシャンと閉まる」が慣用的な表現だから、ということになるだろう。
というようなことが書いてあり、一読して、面白いと思いました。
そもそも、音はただ鳴ります。
これがどういうことかと言いますと、「ガシャン」なのか「ダシャン」なのかは置いておいても、「謝りに行った私を責めるようにダシャンと閉まる」音がするわけではないということで、誰もがわかるところだと思われます。
これは比喩の問題というよりも、時間的関係、つまり我々に馴染みすぎてしまった統語法によって意味づけされた経験が醸し出す問題です。
つまり、ぼくたち人間は、
①ガシャンという音を聞く
②負の感情を持つ
③「私を責めるような音だ」という意味付けをする
ざっとこんな風にやってると思われるわけですが、統語法では、「私を責めるような音を聞いた」とまとめてしまうわけです。③が①と一緒にやってくるわけで、こうした統語法に関するイチャモンをつけたとされるオーデンのくさいくさい本を引っ張り出してみると、このように書かれています。
ギリシア語とラテン語は、事実を系統だてるための豊富なくふうや、接続詞、類別された時制のために、詩や格式ばった演説にはすばらしいが、この美点そのものが、つぎつぎに続く出来事や、気楽な会話を報告する段になると、かえって欠点になるのである。なぜなら、これらの美点は作者をいざなって、その素材を過度に系統立てようという気にならせるからである。また、実際には種々雑多さと偶発事件がおもな要素である世界から、あまりにきちんとした全体をつくり出そうという気にならせるからである。
(『第二の世界』)
なるほどね。
たとえば、何をおっしゃると言われるかもしれませんが、そのドアは単純にたてつけが悪くて勢いよく閉まってしまったのかもしれない。あるいは、家主はいつもそうやってドアを閉めているのかもしれない。
「偶発事件がおもな要素である世界から、あまりにきちんとした全体をつくり出してしまう」とありますが、つまり、ここでは「謝罪したい私」「拒否する相手」「大きなドアの音」のスリーカードがそろったことで、「謝罪に行ったら相手に激しく拒否されて傷ついてしまった私」という全体がつくられ、それに基づき、「ドアの閉まる音」に「責めるよに」という言葉が付されます。
それを感情表現ととらえれば、芭蕉が「さびしさや岩にしみ込む蝉のこえ」を「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と感情表現を排した推敲をした時の、前句のような段階にあるわけですが、そんなことは浜ちゃん司会の番組にやってもらえばよく、芭蕉でさえ「蝉の声」「さびしさ」という語と語を意味で結わえるような特定の文体=現実認識の方法から自由であることができない、現実のとらえ方はこれ全て表現形式に現われてしまう、ということの方が一大事でおもしろい。
というわけで、「文体」が世界に対する認識そのものを現してしまう。
ならば、感情の発露の仕方ということも文体によるところ大きいのであって、たとえば乱暴な「べらんめえ口調」に隠されているのは感情ではなく、「べらんめえ口調」という文体・思考法であり、その現実のとらえ方であるところの思考法が、感情の発露であるように見えてしまう、ということだけなのです。
文体というと難しいですが、因果関係を表す接続詞の使い方一つでもそうです。人には、接続詞の使い方の癖というものがあり、それはかなりその人の思考に影響を現すでしょう。「つまり」を多用するなら理屈っぽい思考をせざるを得ませんし、「でも」と口についた時点で頭に浮かぶのは反対意見になり、君はすぐ「でも」だな、と怒られてしまい、嫌われます。
中学生で読んだので引き写しもしてなくて引用できずに悔しいのですが、安部公房が「アルコールは言語というリミッターを外してしまう」というようなことを書いていたのも、そういうことなのかなと今、思いました。
言語の表現形式によって現実の認識が変わってしまうのですから、酒を飲んで言語表現が乱れれば、思考も変わってしまうのは当り前です。話すというのは、思考とほぼ同時に発話することですから、ろれつが回らない場合、思考も乱れているということができます。
ふだん、自制して言葉・意味の使い方に気をつけている人ほど、その表現を使用できなくなり、言語による統制を解かれた感情が、泣き上戸、笑い上戸という風に表立って出てくるのかもしれません。お酒は飲めませんが。
こういうわけで、意味を付与しやすい文体を使い続けることによって生まれた意味だらけの現実においては、文体を選択することで私たちはいかようにも語れてしまう。
だから、こうして歯磨き粉を変える感覚で文体を変えて楽しんでいるのですが、普通こんなことなんかせず、人は、自分にあった思考、つまり、最も自分を納得させることのできる考えを生むための思考を毎日しているはずです。
なぜなら、こうして文体を変えることで思考を無理に変えるのは、あくまで自分として調子の出る、感情が忠実に再現できていると感じられるお得意の思考法を制限している状態にすぎず、あんまり気持ちのよいものはないからです。つまりは自分にあんまり納得の出来ないことをがんばって喋っているバカあほマヌケというわけなのですが、そもそも、と僕はここで思うのです。
そもそも、他人を理解するというのはそういうことではないかと。
言ってしまえば、文体を変え、思考を変えた気になったところで、根本的な感情というのは変えることができません。いや、できないと決めつけるのはよくない、非常に難しい。
人には誰が上にも好きな人、厭な人と云ふものがある。そしてなぜ好きだか、厭だかと穿鑿して見ると、どうかすると捕捉する程の拠どころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。
(森鴎外『阿部一族』)
つまり、感情は、言葉から断絶されて自立しているわけで、だからこそ揺るぎないのです。
文体・表現によって現実に対する認識や思考も変わるというのは上で書いてきた通りですが、そもそも言葉に出来ないんだったら、変えようがありません。
だから、他人をわかろうというのは実に億劫なことなのです。
私たちが他人を知る際、一番知りたいのは感情のはずですが、言葉から見ると、感情というのは絶海の孤島としてあります。
自分の感情すら怪しいのに、他人の感情なんてもってのほかです。
でも、それでも私たちが他人を理解する気になろう、なりたいと思うのならば、思考を再現するしか方法はありません。
自分の文体で考えれば、それは自分の思考にならざるを得ず、それを相手のこととして適用すれば、正月の集まりでわかってる感を出してくる親戚のおじさんみたいなことになってしまうからです。
だから唯一の方法は、文体を変えることなのですが、それは自分の文体ではなく、だからこそ上手く使いこなせず、まして中途半端になればわかった振りだけをすることになり、すごくむかつきます。
きちんと考えなければ、何の意味も有難味も効果もへったくれもない。こんなことをするのはまるっきり時間の無駄と言ってもよいでしょう。
となると、みなさん、苦心惨憺文章を考えるというのは、そのまま、自分でない他の人の考え方で考えるということなのです。その手に馴染まないオールでもって、誰のものかもわからない、しかも絶対にわかったと言えることのないものに向かって、漕ぎ出していくわけです。
今まさに、いい例を思い出しました。
晩年、フリオ・コルタサルは、文章が「だんだん下手になって行く」と自慢そうに言っていました。これはつまり、小説を通して伝えたいと思っていることを表現するためには、型にはまった形式にとらわれない言い回しを見出さなければならないと感じていたからにほかなりません。つまり、言語に備わる本来の性質に戦いを挑み、自分の創造した人物、あるいは出来事がより迫真力のあるものになるように考えて、自分の散文に独自のリズムや規範、語彙、歪曲を付け加えたのです。実を言うと、下手に書くことによって、彼は見事な文章を想像したのです。
(バルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』)
下手に書くとは、独自のリズムや規範、語彙、歪曲とは、自分以外の者になろうとすることに他なりません。ただし、感情は己の内にあり、完全な他人になることは叶わない。それでも、思考には、文体には、迫ることが出来る。言葉に備わる本来の性質、つまり世界認識の仕方そのものに戦いを挑み、勝たないまでも、負けぬ。だから、コルタサルはうれしいのです。他人の思考を獲得しつつある自分が自慢なのです。
ずいぶん遠いところまで話が来てしまいましたが一気に戻ってみるとして、この「ダシャン」です。表現を模索することが他人になることであれば、「ダシャン」も同じことなのではないでしょうか。
つまり、この「ダシャン」は、生命の一回性に加え、一般的な「ガシャン」と区別された、相手の怒りの固有性の慮りとして、違った文体を試みようと生まれた「ダシャン」だとすることもでき、それって、すごく、良いことだよね! と思った次第です。
さて、自分はこの歌を良いと思っているのか、それとも悪いと思っているのか、自分にもわからなくなるこういうことが文学と心得ております。おわり。