兄と吾郎とVリーガー

「いいか吾郎、今日は早く寝るんだぞ」
 歯みがきの時間、お兄ちゃんが口を泡だらけにして言った。かなり念入りに歯みがきをしている。
「うん、何時に起きる?」
「4時。そんで4時半出発。」
 まだ9時にもなっていないから、7時間はねむれる。
「うん、わかった。目覚まし時計をセットしなくちゃね」
「父さんのでっかいのを借りてあるよ。簡単にとめられないように、床に置いておくんだ」
「わ、いいね」
「吾郎がとめろよ?」
「え?」
「オレがとめたら、吾郎が起きないかもしれないからな」
「そっか、まかせて。明日さ、海まで行けるかな」
「オレの計算だと、ぎりぎりいけるな」
 ぼくは知っている。
「海、見たいなぁ」
「見れるって」
 ぼくは兄ちゃんが、バレーボール選手をベッドに連れ込んでいるのを知っている。
「ほら、先に口ゆすいじゃえ」
 そう言ってリステリンをスタンバイする兄ちゃんは、夜な夜な、ぼくが上に寝てる二段ベッドの下の段に、名前も知らないバレーボール選手(Vリーガー?)を、とっかえひっかえ、招き入れているみたいだ。
 さすがVリーガーと言うべきか、彼女たちの声はすごく大きいし、すごく暴れる。日々、二段ベッドのネジをゆるませるのを、僕はほとんど毎日聞かされて、ねむれやしない。
 それとは別に心配なことがある。それは、お兄ちゃんがVリーガーを連れ込んで大騒音を響かせるたびに、僕の金玉が、すごく”重く”なることだ。寝返りが打てないほど重くなって、ベッドの底が抜けそうになる。金しばりみたいになって、体がどんどん熱くなってきて、僕は、Vリーガーの声と、兄ちゃんの息づかいと、ベッドがきしむ音を聞く。
「電気消すよ」
「ああ」
 電気を消すのは、上の段にいる僕の役目だ。三回、立て続けに急いで引く。真っ暗になる。
「明日、楽しみだな」
「うん。ぼく、本当に楽しみだ。兄ちゃん、おやすみ」
「今日の月見たか?」
「え?」
「すごい満月だよ」
「ほんと?」
 僕が体を起こしかけると、兄ちゃんが変に落ち着いた声で言った。
「明日の早朝でもまだ見れるよ。寝た方がいい」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
 ぼくは手をのばせば届くところにあるうすぼけた天井をじっと見ながら、今日だけはVリーガーに来ないでほしいと考えた。目がなれる前にいつの間にかねむってしまって、目覚まし時計に起こされたいと考えた。
 だって、1ヶ月前から計画していたんだ。兄ちゃんのリトルリーグの試合がない明日、やっと行けることになったんだ。すごく楽しみにしていたんだ。
 やっぱりぼくはねむれなかった。何分か経った。
 と、少しだけ開けていたドアがさらに開いて、薄い光の幅が広くなった。天井がさっと本来の色をとりもどして、僕は息を止めた。心臓がドキドキ鳴った。
 いっしゅん光がさえぎられて、誰か入って来る。そして、部屋の真ん中まで来たらしい。服のすれる音。しゃがみこんだんだ。一瞬、青い光が天井にすっとさして、かすかにタバコのにおいがした。
 父さんだ。僕は身をかたくしたままほっとしていた。お父さんが、目覚まし時計がちゃんとセットしてあるかって確認しに来たんだ。お風呂の前に一服して、明日のことが心配になって見に来たんだ。
 目覚ましは大丈夫みたいだ。明日はきっとうまくいく。また光がさえぎられて父さんが出て行く。そして、さらに大きくドアが開いて、太くなった影が天井に浮かび上がった。
 まるで父さんとすれちがうようにして誰かが入ってきた。
 上の段に寝ていても、枠の上に見えるつやつやした髪の毛。もちろん母さんじゃない。かがんで見えなくなるのと同時に、甘い香りが流れ込んできた。父さんのタバコの煙はどこかにいってしまった。
「オッス」
 兄ちゃんが言った。慣れと余裕とええかっこしいで気が大きくなっていて、声をひそめようともしない。
 ベッドが大きく揺れてきしみ、Vリーガーが寝床に入ったことがわかる。と同時にピチ、ピチュという、死にかけの魚が動いているような水気のまじった音と、時々もれる鼻息が部屋に充満する。
 僕の金玉が重くなり始める。
 いつもなら少しずつ重くなるのに、今日は、毎秒1キロ2キロと増していくようだ。あっという間に、パジャマの生地が押さえつけられて動かなくなった。そこにいて、聞いていろと言わんばかりに、ぼくはここに釘付けにされる。
 下が激しくなってきて、ベッドが揺れる。水気のまじった音は、水の入った長靴で歩く音に変わり、ついに丸めた水浸しのシーツを乱暴に殴りつけているみたいな音になった。Tシャツを引きちぎるような音のあと、水道を一瞬全開にした時の音や、カレーをかき込んで、メロンソーダをすすりきる時の音がした。それから、思いきり傘を開く時の音、黒板消しクリーナーの音、歯医者でほっぺたの内側の肉を吸い付けられた音、でんじろうが不思議な液体の上を走る音などが休みなく重なり合って鳴り響いた。
 不規則なベッドの揺れはどんどん強くなる。一瞬、脚の一本が宙に浮くぐらい揺れている。ぼくの金玉も今までにないぐらいに重い。満月だからだろうか。二階の板が少しだけしなっているのがわかった。
「すご…」
 兄ちゃんの声。何がすごいんだろう。海よりすごいのかな。そう考えたら、金玉がどっと重くなった。天井がぐっと遠くなる。
 でも下ではそんなこと関係ない。でんじろうがその場でもも上げをして、そのペースがどんどん上がってくる。ヂャッヂャッヂャッヂャッヂャッヂャその時、急に動いたVリーガーの長い足が枠に当たって大きな音がした。でんじろうの足が止まり、ぼくの金玉が重くなるために小さく震えているのがわかる。沈んでいく。
 と思いきや、でんじろうの方は、また沼から足を抜き取るような音を立てて、また走り始めた。ヂャッヂャッヂャッヂャッヂャッヂャ。Vリーガーが大きな声で叫んで、ぼくは耳をふさいだ。人差し指を痛いほどおしこんで、動かない金玉を中心に丸くなる。
 それでも、何かささやき合う声がかすかに聞こえる。ぼくは知っている。この段階で兄ちゃんは一番よくしゃべるし、Vリーガーはスポーツ選手の本領を発揮し始める。ベッドが揺れる。もう、四つの脚が全部浮いている瞬間もある。
 ぎりぎりと歯を食いしばって目を強く強くとじる。このままぼくは金玉にくっついてしまえ。胸の奥が気持ちが悪い。ぼくの体は、外と中からすごい力で押しはさまれて、その力のぜんぶがどろどろの濁流になって金玉に流れ込んでくる。
 金玉からごぼごぼと音がしたのに驚いて、ぼくは指を耳からぬいて、金玉にふれた。同時に、狩りをするメスライオンたちの叫び声と、機械があんこをかき回す音と、疲れ知らずの正拳突きの音が、耳に飛び込んできた。やがて三つが高まって混ざり合い、完全に工事現場の音になった。
 金玉といえば、もちのようにやわらかくマグマのように熱い皮の中に、かちこちの鉄球のようなものがあり、それが熱さの源になっているようだ。
「…ていい……?」
 工事現場でかすかに聞こえた声。それが合図だ。クライマックスの合図だ。
「…て……!」
 荒い息のすき間でVリーガーが答える。
 工事の音が一瞬やみ、慌ただしく机の上を整理するような音が聞こえる。そのたびぼくはどんどん沈んでいく。ぼくは本当は鼻もつまみたい。だって、あまりにくさいから。
 今何時だろう。明日、起きられるかな。
 ふいに涙がこぼれて、頬を伝って落ちていった。
 その涙を落っことした衝撃みたいにして、工事が再開して、ベッドがまた大きく揺れ始めた。跳びあがるようにして天井に激突し、枕が飛んでいった。
 Vリーガーがうっとりした息がやけに響いて、ぼくは思わず金玉をかぶった。金玉をかぶるのは初めてだった。無限にのびる熱々の薄皮をつかんで、広げて、頭からかぶって、体全体をおおう。ゴムの膜を張ったような熱い鉄球が頬にぴったりくっつく。パジャマや服が一瞬で灰になるのを感じながら、ぼくはくるみこまれた。
 外では工事現場の音がかすかに聞こえる。全員がよってたかってアスファルトを打ちつける機械を使っているせいで、ベッドは崩壊寸前だ。
 二人ともの声が、今やぼくのすぐ真下から聞こえていた。そのぐらい重くなったぼくは、敷き板ごと下に垂れ下がっていた。
 明日は海に行くんだ。海まで行くには、朝早く起きて、すごくがんばって自転車をこがなくてはいけない。それなのに。
 大きな振動によって、金玉の皮につつまれたぼくの身は少しずつ、丸さを整えていった。きれいな球体に近づくとともに、ますます重くなっていった。ぼくはもう、自分の力では身動きができなくなり、揺れと音が止むのを待つばかりにだった。
 気が付くと、ぼくは落下し始めていた。ボウリングの球ぐらいの大きさになって、とめどない落下を始めていた。
 もう、明日、海には行けないんだ。
 そう考えてすぐ、ベッドの二階の板をつらぬき、二人のことも貫いたのだとわかった。工事現場を突っ切った音がしたからだ。上の方で音がやんだ気がしたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。全部をつらぬいて、ぼくは地球の底まで落ちて行って、海から一番遠い場所で止まった。そして、ずっとそこにいることにした。