丹野埜枝の爪

 コンビニで水とスマートフォンの充電器を買って、狭い路地の方へ入り、店舗を舐めるように少し行った所で突然、後ろから羽交い締めにされた。
 服同士が擦れ合って歯ぎしりのような音を立てる。相手は自分よりも筋肉質だということが同時に包まれた肩と腋の感覚でわかり、瞬時に観念した。身体を預ける。恐怖はあるが、そうしてみると妙なことに安心感さえ出てくるものだ。人と触れ合うということを、こんなふうに密着するということを、これほど自分が、それを求めることすら忘れるほどに離れていたとは。
 相手は二人組だった。やいとでも言うように一人が自分の目の前に出てきて分かったことには、学ラン姿の、おそらく中学生である。足下を見ると、後ろの一人も学ランのズボンをはいている。美術の授業で何かこぼしたのか、はっきりした白い染みがいくつか付着している。
 前にいるのは嘘みたいに小柄だった。制服の丈が大きく余って手は見えないが、裾はやたら大きな赤いスニーカーを履いているおかげで足首のところで蛇腹に折り重なって地面につかずに助かっていた。いったいこの少年は小人症だろうか。しかし、成長を見越して大きめの制服を買うということは、正常な中学生という可能性もある。小人症の子どもに大きめの制服を買ってやる親がどこにいる。それとも、そう信じたいだけか。
「お前は、俺たちのことを、知らないよ」
 知るはずがない、と答えようとしたところで後ろからきつく腕を絞め上げられた。「おい、ちゃんと立て!」
 気づけば、ぬくもりに安心して自分で立つことを忘れて、目線が小さい中学生と同じ位置まで下がっていた。
「すみません」
 慌てて体を起こすと、締め付ける力が少し弱まった。どうやら信頼してくれているようだ。熊やライオン、そういうものに襲われるよりずっとましだ。ヒトには慈悲がある。許されているこの間に、スマホの充電をしたいと思った。
「丹野埜枝」
 小人の中学生が言い放った名前に、一瞬にして正気に戻った。
「お前の女の名前だ」
 その女は恋人ではなかったが、常々、恋人にしたいと思っている同じ会社の女だった。名前は知らなかったが、丹野という名字はこの3年間、頭の中をつかず離れず回っており、小人の言うことがうれしかった。否定をしなかった。
「彼女が一体どうしたんだ。どうしてその名前を知っている」
「お前は、知らないことばかりだよ」
「その通りだ。きっとそうだ。君たちだってそう。そして、君たちにも、親がいるのでは……?」
 自分でもなぜそんなことを言うかわからなかったが、どこかおかしい響きがあったらしく、彼らも笑った。大きな中学生の喉から漏れた空気が首筋にかかり、しゃくり上げるような震動が背中に伝わる。小人は体を折って笑ったので、この世のものとは思えないほど小さくなってしまった。ちょうど横にある電柱に犬がくれた小便の染みついた薄い陰りぐらいの大きさに。
「お前、おもしろいな。噂通りだぞ」
「噂? 誰の?」
「言ったろう。お前の知らないことばかりだって」
「僕が噂になっているのか?」
 小人は何にも答えなかった。唖のように黙ってしまった。唖のように黙ってしまったというのは、彼に対して用いるにはあんまり気の毒に思えた……。彼がいくら理不尽な態度になったところで、彼が雑踏を歩くふとした瞬間、八頭身のマネキンの飾られたショーウインドーにうっすらと映った自分の姿を目に入れた際の気持ちを考えることはとても不可能だ。少しは彼に優しくすべきではないか?
「ごめん。それで、君たちは何がしたいんだい。こんな風に、その、乱暴をして」
「乱暴なんかしてないじゃないか」
 小人はムッとして見上げた。でも、羽交い締めにするのは乱暴ではないのだろうか。確かに世の中には後ろから問答無用に刺し殺してしまうとか、凄く遠くから凄く強い爆弾を打ち込んだり、もっと凄い乱暴があるにはあるが、それにしても。しかしこの小人、歯がちょっと出て、なかなか愛嬌のある顔をしている。
「していないね。乱暴なんかしていない。言い過ぎたんだ。僕はどうも、喋るとなると、上手く言葉が出ない……謝ろう」
「丹野埜枝は監禁されている」
「そう……」
「それを救い出すのが、お前の役目だとしたら……?」
「がんばらなくちゃ……」
 僕は言った。すると、小人は呆れた顔を浮かべた。身長に対して顔が占める比率が大きいから、浮かべた表情や仕草の全てがコミカルに見えて、痛く気に入ってしまいそうだ。
 続けて小人はポケットから何か取り出した。親指と人差し指につままれて、非常に小さく、ほとんど半分隠れてしまったそれは、薄い何かの欠片のように見えた。
 小人は近寄ってきて、背伸びなんかして、鼻先にそれを突きつけた。
「丹野埜枝の左足の薬指の爪だ」
 それは、落ち着いた光沢のあるピンク色のペディキュアで塗られていた。弓なりに反って裏側がのぞく。彩られた表側のようにはいかずとも、生皮がところどころ浮き上がって毛羽だったように見える以外は、表の色調を透かした、なめらかに落ち着いた薄桃色だ。乙女が海辺で探す桜貝のように思えてならない。
 僕は丹野埜枝の足の爪を見たことがなかった。それでも、その爪が丹野埜枝のものであることを確信した。
「なんと、これは今からお前のものだ」
 小人の短いかわいいハムスターのような手指が、口に近づいてくる。唇に温かくも冷たくもないものが触れた。無意識に、ゆっくりと口が開く。動物にエサを与えるように、自然に、とてもスムーズに丹野埜枝の爪が押しこまれる。それを舌で迎え入れた。なんだかすみません。少し小人の指をなめたか、一瞬、淡い塩辛さが口中に現れた。
 僕はそれを舌の中央まで持ってくると、ゆっくり転がした。半回転した爪が、歯に当たってかちりと微かな音を立てる。舌で調べると、目に捉えた印象よりもずいぶん強い弧を描いているように感じた。そして、曲線があつらえたように舌の粘膜に収まることに快感を覚えた。
「なんだか……すみません」
「もう一度言うぞ。それはもうお前のものだ。でも、口から出してはいけない。もしも出したら、丹野埜枝に何が起こるか保証できない」
「レ、レイプ」
「しないしない」
「ちがうか」
「レイプしてほしいのか?」
「いや……」
 僕は爪をまた舌の上でもて遊んだ。ふと心配になった。
「あの、これはもしもなんですけど……」
「なんだよ」
「もしも僕が、爪を全部、舐めきってしまったら?」
 二人は笑った。空気が震えるほど高らかな笑いを響かせた。そして、その名残の最中、突然として僕を解放し、僕に聞こえない声でお互い話しながらどこへと行ってしまった。
 二人がいなくなると、町並みの音や色が戻ってきた。すぐそこの国道から車の過ぎる音がやまない。長く続く石垣の上には、大胆に枝を切られた柿の木の葉が見える。しかし、口の中には丹野埜枝の爪があった。
 今後、何をすればいいかもわからないが、道をそのまま行くことにした。こんな時こそ落ち着いて、なるべく普段通りに過ごすことにしよう。それで何もなければ、無料で好きな女の足の爪がもらえた、かなりお得な、良い日と言っていいのではないか。丹野さんの名前を知れたことも嬉しいし、新たな関係が生まれたので今後会社で話しかけられそうな気もするし、それに、レイプをされないことは保証されている。この退屈な人生にも、きちんと何かが起こりうるのだと信じられたのも大きい。
 その日は何事もなく過ぎた。拍子抜けしたが、穏やかな生活がびくともしないことに安堵も覚えて、よく眠った。
 翌日、会社に行くと、丹野埜枝はいつもとなんら変わりなく仕事をこなしていた。あの細い靴におさまったうちの一本、薬指の爪がなく、それが自分の口の中に入っているとは、どうしたことだろう。あまりに普段通りの仕草を見せられて話しかけることもないが、彼女の生活の安全を保証しているのは、紛れもなく僕のこの口の中にある爪なのだ。レイプOKでもいけたと考えながら、男性社員に任される案件とはとても思えない、些末な事務仕事を片付け続けた。