バスケがしたいです

 ダムダムとバスケットボールがコートのあちこちで弾みかける音の良さに惹かれて、私はバスケットボール部に入ることにしました。
 入って1ヶ月間はボールを持たせてもらえないランニングやフットワークばかりの練習でした。私と同じ1年生のみんなは、こんなにマジだと思わなかったと文句を言いながら、それでも私よりずっと余裕があるようでした。私は必死でみんなについていきました。コートの外を走っていると、いつも先輩たちの手を離れたボールが弾みたてる音が聞こえていました。
 確かに私は体力もないし運動神経も良くありませんけれど、足を引っ張ったつもりはありません。私のせいでみんな余分にコートを周回するハメになったとか、そんなことはなかったのです。でも、だんだん風当たりが強くなってきました。私が声を出した時は誰も応じてもらえないのです。話しかけても答えてもらえないことが増えました。一人ぼっちの帰り道に寄ったペットショップ、リスザルが私のイヤホンコ-ドのYの叉に手を差し入れて、力任せに一気に下に引き下ろしました。耳からはぎ取られるようにイヤホンが落ちて、不潔な床からすぐに拾ってみたものの、なんとなく聞こえが悪くなったような気がします。みんなが私をきらっていたのです。
「ねえ、曽野さん。やる気あんの?」
「え?」
 練習中、ノリちゃんが言うので、私はびっくり声を上げてしまいました。その時、私は本当に倒れる寸前までがんばって、吐きそうなほどがんばって、声もいつもより出して、生理2日目の雌鈍痛を吹き飛ばそうと覚悟のニタポン(タンポン2本)、がむしゃらにがんばっていました。
「え? じゃなくて」
 ノリちゃんは苦しそうに膝へ手を突き、顎から汗をぽたぽた垂らして口と眉間をつぐんで、大きく鼻で息を吸い上げながら、うらめしそうに私を見上げています。
 私は思わず自分の汗を確認しました。むしろ出すぎて、ちょっと棒状になっているぐらいでした。サ―――という少し高い音がどこからか水道の蛇口みたいに響いているぐらいでした。こんなに汗をかくのとがんばるのはちがうのでしょうか。
「やめなよ、ノリ」
 中条さんが言いました。
「イヤだね。私、もう我慢の限界。ねえ、ずっと迷惑なんだよ、あんた。ほんとに、最初からず――っと。いるだけで」
 私は何も言うことができず、体中の熱い体温が顔に集まってくるのを感じていました。最初っていつからだろう。生まれた時まで思い出そうとしていた私に、ノリちゃんが恐ろしいこと言いました。
「帰れば?」
 ノリちゃん、なんで……? と言おうとして声が出ないのです。
「帰れー!」
 伊藤さんでした。すぐそこにいた伊藤さんでしたが、ずいぶん遠くに見えました。
「ハハハハハ!」
 ふざけているかも知れませんが、その破顔一笑といった様子が私には何よりとてもつらかったのです。
「ね、伊藤さん、お願い。そんな、そういう時の勝俣みたいにするのやめてほしいの」
 私は背の高く端正な顔立ちをした伊藤さんが好きだったもので、冗談が好きな伊藤さんで、それも伊藤さんの大きな魅力ではあるけれど、そういう時の勝俣はやめてくれろと涙をこらえてお願いしました。
「うるせえよ!」
 でも、相変らず歯を見せて、勝俣をやめてはくれません。冗談であって欲しいと願いました。が、周りのみんなを見ると誰も笑っていませんでした。
 みんなの方が、伊藤さんのことをよくご存知です。だから、私が間違っていました。これは決して冗談でも勝俣でもないのです。今となっては、勝俣であって欲しかったとさえ思うほどです。私は何にも知らないのです。
 その後の練習の間ずっと、針のむしろを私は走っていました。やっと終えて帰ると、リスザルがケガして片腕になった、片端のサルなど売れやしない、犯人は良心のもと早急に名乗り出て全額弁償すべしと、ペットショップの外に貼り紙がしてありました。

 次の日、それでも私は部活が好きでした。ボールの弾む音や、覚えて自然に出るようになったかけ声が、流れる汗が好きでした。みんなのことだってまだ好きでした。だから部活に行くのです。
 掃除当番があったので遅れて部室に行くと誰もいません。
 そこで私は、冗談ではないのですが、なぜか部室の真ん中に置かれた自分のバッシュに、ゴキブリが徐々に近づいていく場面に出くわしました。はっと声が出そうになりながらも、私のせいで空気の流れが変わってか息を潜めるように動きを止めたゴキブリのその姿に、私の目は釘付けになりました。もともと虫は平気な方です。
 がんばれがんばれ、となぜか応援していました。慎重に慎重に。ゴキブリは安全を確認しながら、小刻みに、2センチあるいは4センチ、トンツートンツーとモールス信号のように進んでいきます。
 そしてついに私のバッシュまでたどり着いた時、別のゴキブリが1匹、私のバッシュからひょっこり顔を出しました。
 そして、お互いに気づいたように体を傾け、2匹のその触角が触れ合ったか触れ合わないかの時でした。
 凛と張りきった触覚に走った微弱な電気を合図にしたかのように、私のバッシュの中から、まっ黒い塊が、こみ上げるようにあふれ出したのです。
 今しがた私のバッシュにたどりついたゴキブリは、私が息をのむ間もないほどすぐに汚水のような黒い塊にのみ込まれました。それは幾重にも光りながら、間もなくバッシュを覆い尽くし、その一部が床に落ちると、そこからあっという間に、黒い小判様のゴキブリが、ぞぞぞと長い音を立てて、油が水に弾かれるように四方の壁まで散っていきました。一瞬、床全体が水玉模様になったほどです。
 バッシュは何事もなかったかのように見慣れた色で部室の中央に置かれました。
 おそるおそる近づいて中を見るとカラフルな小袋がありました。私はよく見たことがあります。ゴキブリの誘因剤です。しばらくどうしていいかわからず、覗きこんでいましたが、そんなことをしている場合はありません。しゃがみこんで誘因剤をつまみ出すと、マーブルチョコのようにカラフルで、傾けると、袋の中でサラサラ動いていきました。なんだか窮屈でみじめな気持ちです。
 でも、どうして部活に行かないわけにいくでしょう。肉々しい薫りのするバッシュの紐を結んで、私は体育館に向かいました。

 緑色のネットでバドミントン部との間しきりがされた体育館では、1年生がみんなビブスを身につけて、監督の話を聞いていました。
 誰も何も指示してはくれないどころか、誰も私を見ていません。私もそこに入りました。
「すみません、先生。遅れました」
 私が何か言うと先生はいつも全くじろりと言った眼光を向けるので、いつも背筋が寒くなります。
「どうして遅れたの。それと、監督と呼びなさいと何度言ったらわかるのかしら」
「すみません、監督」
「……で、なに?」
「あ、遅れました。すみません」
「だから、なんで?」
「掃除当番で……」
「あっそう。今日は練習試合をするから」
「え?」
「え? じゃないの。確かにあなた達はボール練習もまだしてないけど、…横山さん、聞いてるの?」
「あ、はいっ」
「誰に喋っていようと、私の顔から目をそらすなって、そんな簡単なこともできないの? 何回言わせる気?」
 横山さんが怒られているその隙を利用して、みんなが私のバッシュに視線を落とす様子が、目端にこびりつくみたいです。私も先生の顔から目をそらしませんでしたが、どうしても気になります。
 それから先生がおっしゃったことには、1年生と、3年生を中心とするレギュラーチームの試合だということでした。とても無理です。私たちはろくにドリブルもパスもできません。だから勝つ必要も可能性もなく、走り回ってせいぜい頑張るように言われました。三ヶ月も、走ってばかりいたのですから、その成果を見せなければならないのです。
 渡されたビブスは0番がプリントされていて、私はひどく嬉しくなりました。いつも先輩方が身につけて紅白戦をしていた憧れのビブス。たくさんの小さな穴があいて、ザラザラとした手触り。袖を通すと、洗濯の時に目の前にかざしてみるのとはわけがちがって、誇らしい気分です。
 先生はポジション以外は何の指示もくれず、すぐに試合が始まりました。私はガードになりました。なんのことだかわかりませんが、黙っていました。
 ジャンプボールのあと、すぐでした。
 三村先輩が弾いて、藤堂先輩と伊藤さんが競って、こぼれたボールが私のところに来たのです。つぶつぶした感触が両手に確かにあるのです。
 私は、先輩達が波が引くように自陣へ帰って行くのを感じたあと、おおげさにきょろきょろしてしまいましたけど、そうやってフリーなのを確認して、いざ、一歩足を踏み出すと同時に、ボールを床に押して、ドリブルしました。
 ボールが弾んで、ピスと音がして、手のひらに返ってきました。
 おかしく思って、そのあと、何度かつきましたが、何度ついても、スポイトから空気の抜けるようなピスピスという音がするばかりでした。
 血の気が引いて、たまらぬ吐き気がしてきます。頭ではダムダムという音を準備しているというのに、どうしてこんな間抜けな音しか出ないのでしょう。
 両手でボールを持って呆然と立ち尽くしてしまった私は、藤堂先輩にあっさりボールを取られました。みすみす渡してしまったように見えたと思います。その途端に、ダムとボールが急に生気を得て弾む音と、コートの周りから笑い声が起こりました。
 先輩はあっと言う間にボールをゴールまで運んで、レイアップシュートを決めました。ボールがリングをくぐる瞬間、コート上にいたみんなの肩からふくらはぎから力が抜けて、コート全体に、ほんのひと時、微妙な倦怠と安息が広がるのを、何もする気が起こらない私は、もう、コートの上で横になって見ていました。
 みんなが私の周りに集まってきましたが、音はもう、自分の息遣いしか聞こえませんでした。私しかいない暗がりの真ん中で、見下げる視線にさらされて、実際こうして下から見てみると、私はこんな時じゃなくても、いつもその視線の先にいたのだということがよく分かりました。そしてやっとその理由もわかりました。
 私の荒れた呼気や吸気が、ちんたらという音を立てているのです。
 ちんたら、ちんたら。
 みんな、私に関わった人はこの音を聞かされていたのでした。ノリちゃんも怒るはずです。ノリちゃんだけじゃありません。みんなみんな怒るはずです。どんなにがんばっても、がんばっても、がんばっているようには見られないのだから、不治の病のようなもの。私が不幸せになるのは、やっぱりとうの昔から、くたびれた腑抜けの産声を漠然と上げた頃から決まっていたのだと思います。
 みんなの足首の林の奥に、部室にいたゴキブリが群がって見えました。バッシュの薫りが恋しくて出てきたのでしょうか。それともなにか、気の毒に思って来てくれたのでしょうか。私はどうもあの仲間のような気がします。
 はたと、死ぬ時はこんな感じかもしれないと思いました。自分のこの世の渡り方を自分で思い知りながら、みんなが自分をどう思っていたのか思い知りながら、こんな風に、息の根が何回かに分けて、こそげ取られるようなのかもしれませんよ。
 だったら、つらく生きた人は、つらく死ぬと思います。幸せに生きた人は、幸せに死ぬと思います。強いまばたきで涙を絞りだそうとしても、やはり出ません。いや、出ました。おろしたしょうがのようなものが目尻の端からひねり出されて、ぷつりと切れて転がり出るのです。いつもこんな風なのです。どうしてもみんなと同じにできないのです。
 顔の上を転がり落ちてコートに落ちたその黄色い一塊にゴキブリが飛びつくと、人は嬌声まじりの悲鳴を上げて飛びのきました。私はその慌てふためく姿を見て、恐ろしいことに、ざまあみろと、それだけ一つ思ったのです。ほかには何にも思いません。あ。湿りきった股ぐらの方にも何匹か目ざといゴキブリがいるようで、私はなんだか気持ちがよくなってきました。