秘密基地と読書感想文

 一度だけ河田くんの家に遊びに行った時、本がたくさんあって、表彰状がたくさんかざってあって、お母さんはいなかった。
 そんなことを思い出しながら、8月31日、夏休み最後の日、ぼくは河田くんの耳の凹凸を見つめていた。河川敷の木と草にまぎれてこっそり建てたぼくたちの秘密基地も、見慣れないお客に対していつもよりセミの声をよく通すようだ。表紙がエロいのでついつい拾ってしまうビジネス・ジャンプも心なしかきれいに整理せいとんされていた。
「河田くんちのイヌ、元気?」
「ネルソンのこと?」
「う、うん」
「死んだよ」
「ごめんね、河田くん」
「いや、いいよ」
「ところで、河田くんって作文がうまいよね」
「河田くんの夏休み恒例・読書感想文は、1年〜5年まで、5年連続で総理大臣をうならせて、賞をもらっているよね」
「うん、だからぼくは、総理大臣のすぐ変わってしまう日本社会を、君たちよりもずっと肌で感じているんだ」
「へぇー。それにしても、どうすればあんなにうまく作文できるの?」
 河田くんはしばらく黙って退屈そうに体育座りを揺らしていたが、そっとつぶやいた。
「訓練だよ」
 ぼくたちは、なんとも言えない気分で黙り込んだ。ぼくたちだって、賞がとれるなら賞がとりたい。だからといって、訓練もしたくないのだ。
 重苦しい時間が長くなり、ビジネス・ジャンプをチラチラ見ている河田くんの気配を察して、みんな焦りだしたのがわかった。ぼくをジロジロにらみつける須郷くんの顔といったら、地獄の番人はきっとこんな顔で、きっとこんなに太ってはいないだろうというほどだ。
 だから、ぼくは河田くんに見えないようにてのひらをそっと広げ、そこにメモってある油性の文章を確認した。そして、それを心の中で繰り返し読んだ。うまく言えるだろうか。
 河田くんは、ビジネスジャンプのか細い背表紙をじっと見ている。
 ぼくはもう一度、手のひらを読んだ。それを言うだけなのに、こんなことが、ぼくにはすごくドキドキするのだ。
 河田くんがビジネスジャンプから視線を逸らし、いくぶんホッとした次の瞬間、河田くんはビジネスジャンプを二度見した。やばい!
「河田くん、今年のは、もうやったの?」
 ぼくは、てのひらに書いた文章をそのまま読んだ。
「何が? 読書感想文?」 
「うん。明日提出で、過ぎたら小林先生は受け取ってくれないんだよ」
「まだだよ。ぼくはいつも最後の日にやるんだって、言っていなかったっけ? 締め切りギリギリになって、おしりを叩かれないと動き出せない人間なんだ、ぼくは」
「そうなんだ。それで、あんなにすごい作文になるなんて、すごいや」
「帰ったら早速書かないと、さすがに間に合わないな。今年は、重松清でいこうと思ってる」
「ふうん、重松」
「重松ねぇ」
「河田くん、今日、河田くんち行っていい?」
 急に、0点以外取ったことがない佐藤が、手のひらを目の前にかかげながら言った。ぼくたちは、佐藤このバカ、と憎々しく思いながら、注意できないもどかしさに震え始めた。
「え、ダメだよ」
 幸い、河田くんは、今では、身振り手振り、体全体を使ってビジネスジャンプを二度見、三度見し、ぼくたちに何かを伝えようとしているのに夢中で、佐藤に気づかない。
「え〜っと、いいえの場合は……えっ、河田くん、どうして。今日はお父さんがいるの?」
「いないからダメなんだよ。ぼくだけの時は、人を入れちゃいけないんだ」
 ぼくたちは、ゆるんだ顔を順番に見合わせた。作戦決行が決まったのだ。
 しかし、油断したぼくたちが目を離している隙に、河田くんは急転直下のいぶかしげな表情で佐藤を見ていた。佐藤は、まだ手のひらを出して、いったい何がしたいのか、それを今度はブツブツ黙読していた。
「佐藤くん、君、それ――」
 その瞬間、ビジネスジャンプが激しく回転しながら床をすべってきて、河田くんの前を通過した。反射的に動き出した河田くんは、そのままビジネスジャンプを追いかけて、頭から壁に激突し、そのまま気を失った。
 秘密基地はしんと静まりかえった。
 どうしてビジネスジャンプが勝手に。人が目の前で倒れているのに慣れてきたぼくが不思議に思って振り返ると、須郷くんが、送球後のサード長嶋みたいな手をかためたまま、肩で大きく息をしていた。その目は、大きく見開かれ、血走っていた。須郷くんはぼくたちの視線に気づくと、頬を震わせたまま、無理にニヤリと笑ってみせた。
 ぼくたちは外に出て、隠してあった材木と日曜大工の道具で、秘密基地をドアをふさぎ、さらに壁を厚く打ち付け、出られないようにした。そして最後に、小さく空いた隙間から、パンと水とお菓子、原稿用紙と筆記用具、それから小梅太夫のネタ本を放り込んだ。


 3ヶ月後、ぼくたちは、6年連続の総理大臣賞は逃したけど見事に『小梅太夫のネタ本を読んで』で入選した河田くんが体育館の壇上で表彰されるのを見上げることになった。その二日後、須郷くんは自殺した。須郷くんがあのあと慌てて図書館で借りて書いた重松清の読書感想文は、文章になっていないと先生から書き直しを命じられ、「重松清を倍にしたような顔しやがって」とみんなの前で捨て台詞まで吐かれた。
「佐藤、お前、なんでちゃんと作戦通りにやらないんだよ。お前のせいでバレるところだっただろ。バカでも最低限のことはやれよ」
 あの日の帰り道、須郷くんはいつものように佐藤を怒った。その時、ヘリコプターが大きな音をたてながら頭上を飛んだのだった。佐藤は怒られているのも忘れて、間抜けに口を開いた顔を輝かせてヘリを見上げた。そして、そのままおしっこをもらした。ぼくは、おしっこの染みがあらがいようのない悪夢のように広がり、やがて滴るその様を、よく覚えている。
 秋も深まった頃、河田くんを解放して以来、久しぶりに秘密基地を訪ねると、ボロボロに崩れた木材やダンボールが積み重なっていた。ぼくたちは、河田くんより何ができるでもないし、佐藤ほどバカでもない。だから、秘密基地を秘密にする以外に自分を守る方法を何も知らない。