『レスラー』

レスラー スペシャル・エディション [DVD]

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ネタバレあり!


 一生これをやり続けるんだな、というものが僕にはありますが、一生これをやり続けた時の気分がどんなものだかは想像もつきません。
 さて、御存じの方も多いでしょうが、ハンナ・アーレントによる人間活動の三分類に「レイバー/ワーク/アクション」があります。
 レイバーは労働、ワークは制作・仕事、アクションは活動。
 ぼくたちは生きていく上でしてることはだいたいこの三つに分けられる。そして、レイバーからアクションになるにつれて人間的な行いになるのだとアーレントは言います。
 ここで大事なのはアクションで、アーレントの場合は言語的コミュニケーションを指すので注意してください。つまり、言語的コミュニケーションが一番人間的な活動なんだということです。
 『レスラー』は一言でいえば、一言で言う必要があるならですが、人間的な活動=アクションに見放された人間がよりよく生きるということはどういうことか、という映画です。
 同じ問題は、主役を演じるミッキー・ロークにも印象的に関わってくることですが、ここではそのことはあまり言いません。


 主人公は、ランディ・ロビンソンという中年プロレスラー。
 レスラーとしては有名だがとっくに峠を過ぎ、離婚し、金もなく、友人もおらず、好意を持ったストリッパーとは上手くいかない。そんなある日、心臓発作でバイパス手術を受けてドクターストップがかかり、一番大事なプロレス=ワークを失う。以後、ワークする時の名前「ザ・ラム」を捨て、「ロビン」としてスーパーの惣菜コーナーでの労働=レイバーが始まる……。ワークを失えば、アクションにすがるしかない。だからランディはより真剣にストリッパーにせまるし、娘との関係を修復しようとする。ところが、ストリッパーの助けを借りてこぎつけた娘との和解の糸口も、ゆきずりの女と遊んで約束をすっぽかすことで台無しに。
 一方で、ストリッパーも同じ問題を抱えています。彼女はシングルマザーで、レイバーとワークの判別がつかないような仕事に従事しながら、もう結構な年なので客はつかない。そんな彼女は当然、アクションに惹かれます。ただ、仕事柄、彼女はレイバー/ワークとアクションを厳密に分けてきました。彼女においても、「キャシディー」と「パム」という名前の二重性がレイバーとアクションの分断を如実に表しています。彼女はランディのアプローチにいまひとつ思い切って踏み出せない。ましてや自分はシングル・マザーで、相手は金のないプロレスができないプロレスラーなのです。なんて最悪なんだ。
 その一線を越えて、彼女は勇気を持って踏み出します。レイバーを途中で放棄して、レイバーを全うさせるために「パム」と本名で呼びとめる支配人を無視して、無理をおして試合に出るというランディのもとへ駆けつけるのです。
 ランディは、入場を目前にして、「生きるか死ぬか」「ワークかアクションか」様々な二者択一を迫られます。

R(ランディ)
「俺にとって痛いのは外の現実の方だ」


P(パム)
「……」



「もう誰もいない」



「いるわ」



「……」



「私がいる。それでも?」


(入場アナウンスが聞こえてくる)



「ほら、あそこが俺の居場所だ。行くよ」



「やめて、ランディ。 …ランディ!」

 そしてランディは、「ザ・ラム」として、大歓声のなか入場します。とっても象徴的な場面で、鳥肌が立ちます。


 世の中、そんなに器用な人だけではないし、愚直に一つのことに邁進してきて、とある理由で一息つかされた時、失っているものが多いことに気付きます。気付きますって僕はそんな年でもないかもしれませんが、色々なものを見聞きし学び、『レスラー』なんか観るうちに、そういうことがあるということを知っています。知った上でやるかやらないか自分で決めなくちゃいけない。ちなみにこれが「再帰性」という概念です。
 アーレントの三分類があろうと、三分類どおりに生きられない人がいます。孤独に死んでいった芸術家や文学者たちもそうでしょうし、引きこもりだってそうでしょうし、悩める主婦だってそうでしょう。みんな似たような問題、三分類のバランスに苦慮しながら、個別のケースを悩んでいます。アクションを求めるも得られず、さらに求めきれない時、ワークやレイバーを全うできることが良いことなのか愚かなことなのか、強さなのか弱さなのかはわかりませんし、それは自分でさえも判断できないことです。ましてや個人に向けて「人間的になりたきゃアクションをしろ、せめてワークしろ。最低限レイバーはしろ」とは口が裂けても言えません。義務とかなんだとかは置いといて。
 『レスラー』は一つのケースです。
 この映画の救いは、どうしようもなかったけど、最後まで全うすることで幸福に見えたし実際幸福だったろうということだと僕は思います。終わりよければ全てよしではありませんが、幸せだと思っている時は過去の不幸も現在の幸せの一端を担うするということがあります。その意味で、最後のあの瞬間、抱え込んだ全ての素晴らしき悩ましき人生に、必殺技「ラム・ジャム」が炸裂するのです。ランディ”ザ・ラム”ロビンソンが命を賭して飛んだ瞬間、それは、プロレスが人生に勝利した瞬間です。
 ちょうどこの映画が日本で公開された頃、三沢光晴がリングの上で亡くなっています。