マサルのドタドタする朝
「かっこよし!」
姿見に映った自分に人差し指を向けて、マサルは下の階にいるお母さんの補聴器が、朝だ朝だと動き出す程度の声で叫ぶ。そろそろ行くよ、という合図だ。
もう思い残すことはない。わずかに空いた壁にはっつけられたマリリン・モンローのポスターに親指を立て、ハリウッドの雰囲気を十分にひきつけてからマツァルは部屋を出た。すると廊下も心無しか、黒澤明のこだわりが見られる気がした。
「いや…黒澤明はハリウッドじゃ……」
マサルはインテリぶってブツブツ呟きながら階段を降りる。パジャマ姿のお母さんが出てきている。
「マツァル! 急がないと遅れるよ!」
いつも変な呼び方をして…そんなことは言われなくてもわかっている。今日も一人で起きられたマサルは、オレはできる男だよという顔で、わざわざ立ち止まってポケットを一つずつ確認、朝起きられた感じを見せびらかしにかかる。午前6時なのに、牛乳屋さん並に目が冴えている。
財布よし 携帯よし 定期入れよし……はたと、マサルの動きが手をズボンポッケ(右)で止まった。ちょっと顔がおかしい。
「マツァル! また何か忘れたね!?」
「忘れ物ってわけじゃねーんだけど」
マサルはいつもの台詞をまたお母さんに提出してスタンプをもらうと、ノーステップで階段を振り返る。スタンプが5個たまると、『あんたはいっつもそうじゃないか!』と大きな声を出される手はずになっている。
「別に忘れ物ってわけじゃねーんだけど」
そしてドタドタ ドタンバタンと手を突きながら、階段を駆け上がり始めるマサル。
「ドタドタのぼらない!」
ドタドタ ドタ! 構わず手も使って駆け上がる。もしも今これといった衣服を着ていなかったらかなり肛門の穴がマル見えになっている、そういう上り方だ。ケツまくって逃げていくニホンザルにさぞやクリソツなことだろう。
「ハンカチ ハンカチ」
言いながら部屋に入り、驚いた。
ランジェリー姿の女が一人、窓から差し込む朝の薄い光に包まれながら、マサルの小学校時分からの学習机をいじくっていた。パープルランジェリー。パープルランジェリー。
「だ……」とマサル。ずばり 誰!? と言いたいのだろう。
「これ電気どこ?」女は机の電気のスイッチを探る前かがみの姿勢で言う。
突き出されたお尻にも不思議とエロい気持ちはないが、マサルはびっくりしてNow Loading状態。声は出ないわ屁は出るわ、なんだか気の毒なことになってしまった。
「これ電気どこ?」
「え? え?」
そこで女は思い出したように、怪訝な顔で振り返った。
「つうか今 屁こかなかった?」
マサルの顔が赤くなった。こんな時でなくても赤くなる顔は悩みの種なのだ。またしてもニホンザルにクリソツになってしまうのだ。
返事をしないマサルに良い印象を抱いていないらしい女は、体を起こして、そういう顔で寄ってくる。寄せて上げて寄ってくる。ちなみに全然マリリン・モンローではない。
僕は人に良い印象を与えるのがひどく苦手なのだ。マサルが思ったその時だった。
「マツァルーー! 今あんた
あんた 屁ぇこいたでしょーー!!」
階下から鬼のような怒声が響き渡ってきた。空気が震え、マサルの呼吸が止まる。
ドタ ドタドタドタドタドタ ドタ!!
「コラーーーー!!」
やばい。
今日おやつ抜き間違いなしのマツァルに残されたのは、そう思うだけのわずかな時間だった。