レッスン1は「死ねボケナス」(細部リメイク)

 太ったメガネのおばさんが教室に入ってきて、ホワイトボードの前に立った。
「いいの、あんた達、今日もレッスン始めるわよ。生粋の根暗なんでしょ。人前で喋れるようになりたいんでしょ。そのために金払ってるんだろ? じゃあ精一杯やれよ。ぶちぶち文句言ってないで、やれよ。口を動かしていきなさいよ。じゃあいつものように、発声練習。『死ねボケナス』からね」
「あ、あの……」おずおずと手を上げたのは、今日からこの教室に入った喉元さんだった。「私……初めて…なんですけど……」
「だから?」太ったおばさんのメガネは赤い三角形のメガネだったが、それを外して目頭を押さえた。
「説明を……」
「じゃあ最初から、私初めてなんですけど説明を、って言えばいいじゃないの。何で区切るのよ。ベしゃりをリボ払いにしてどうすんの。何考えてんの。一人でエレベーターに乗ってる時とか何考えてんの。なんでちょっと上を見んの。あの、階数の、あれを見てんの?」
 喉元さんはおばさんが矢継ぎ早にツバを飛ばして喋る迫力と一人でエレベーターに乗ってる時に何を考えているか、そしてどうしてちょっと上を見るのか思い出そうとして、黙り込んでしまった。
「説明はするわよ。しろって言われたら、こっちはする。しろって言われなかったら、しないわよ。でも、するなって言われたら、それはしちゃうわよ。天邪鬼だから。だから、なんでも言ってみないと始まらないの。言えばいいでしょ。言えよ。そしたらなんか起こるわよ。説明して欲しいって思ってるだけじゃ落第よ。説明しろ説明しろって、念じてもダメ。念じてどうすんの。念じるな念じるな。言えよ。何のためのお口なんだ」
「説明を…お願いします」喉元さんは少し声を張って言ったが、それでもひどく小さな声だった。
「いいよ、説明してやるよ。これはわかってると思うけど、この塾では、根暗で人前で喋れないお前ら、社会ウジウジ不適合者どものために、喋り方を教えてるのよ。それはもう独自なやり方でやってるのよ。そうじゃなきゃお前らみたいな、性根がマイナス思考の糞にまみれた陰気なグズは更生しないから。お前ら絶対、ご飯まずそうに食べるもんな。もそもそ食べるんだろ どうせ。そんなお前らに、普通に喋り方教えたって無駄よ。だから、ここでは悪口を教えてんの。わかるでしょ。悪口をレッスンすれば、人前で挨拶ぐらいできるようになるだろってこと、な? そういう考え。十教えたら、ゴミ虫でも一は出来るだろってことよ。わかった?」
「あ……わかりました」と喉元さんはうなずいた。「すいません…」
「なんで謝んだよ ボケナスが。じゃあ、発声練習いくよ、はい。……死ねボケナスッ!」
「あの……死ねボケナス」生徒達が全員小声で繰り返した。喉元さんは、最初のボケナスは発声練習でなく自分に言われたただの悪口だったことにショックを隠せず、何も言うことができなかった。
「小せえ小せえ。声が小さいのよ。お前らビックリマーク使ったことないだろ、マジで。絶対、未熟児だっただろ。あと、なんで全員、揃いも揃って最初に『あの……』ってつけんの。相談してんの? お前らは束になってもフンコロガシより使えない。あと新入り、やる気無いなら家帰って持ってるCDあいうえお順に並べてたら? はい次、合う服ねえなら痩せろ肉団子!」
「合う服が無いなら…痩せろ、あの……お肉…お団子……」喉元さんも、コウモリがなんとか聞き取れるほどの声を出した。
 おばさんは殺したそうな生徒達をにらみつけたが、続けた。生徒達は全員下を向いた。
「ツーペアではしゃぐな!」
「ツーペアではしゃぐな……」
「カップルでイヤホン分け合ってEXILE聞いてどうすんだバカ!」
「カップルでイヤホンを……分けて…聞いて……EXILE聞いて…どう…………バカ」そんなにも長い台詞は、生徒達の誰しも未だかつて喋ったことがなかったので、覚えられなかった。
 おばさんは床に粘りけのあるつばを吐いてホワイトボードの方を向くと、蓋の取れていた黒いマジックを手に取り、もう出ないそれを、ホワイトボードに書き殴るようにして無茶苦茶に押し付けた。よく見ると、「殺」というふうに何度も動かしていた。そして、腕を凄い速さ振り乱したまま、
「全員死ねっ!」と叫んだ。そして急に動きを止めて、振り返った。不気味なほど穏やかな顔をしていた。「お前達はなんなの? 便所コオロギが巨大化した存在なのか? もういいから次のレッスンに行くよ。おい、そこの坊主頭、田中、今日はお前やってみな」
「は、はい……」中学生で学ランを着ている坊主の田中は、泣きそうな顔でひどくゆっくりと立ち上がった。
「イルカをぼろくそに言ってみな」
 これは、先ほどの、十教えればクズにも一は出来るだろう、という方針のもとに考え出されたレッスンである。動物として隙がないイルカに悪口を言えれば、人間のデブやハゲやワキガをぼろくそに言うことなど朝飯前、とそういうことなのだ。
 坊主の田中は口ごもり、どんどん顔色が悪くなっていった。
「早くイルカをこきおろすんだよ!」
 坊主の田中の体は、前後左右に小さくふらつきだした。
「イルカを糞味噌にしろよ! 完膚なきまでに!」
 坊主の田中は朦朧とした顔でさらに大きくふらつき、そして、いきなりかがみこむと、机の上にあった自分の筆箱の中にゲロを吐き、口から糸を引きながら慌てた様子でポケットの中の小銭を机にばらまき、指をさしながらいくらあるか大急ぎで数え、それが終わると走り出し、一目散に背中をかきむしりながら、もう一方の手で窓を開けて、「328円!」と叫びながら飛び降りた。ラーメンも食べれやしねえ。
 この教室は二階にあるので、喉元さんはとても心配した。でも、イルカの悪口を言え、なんて無理難題を言われたら、自分だってきっとああなってしまうだろうと考えた。生徒達は、手を膝に置き、男の人はその手をグーにして、下を向いて震えていた。
「正解は、イルカに対する悪口の一つの正解は、『高樹沙耶と仲いいんだって?』だよ。イルカそのものに弱点がない場合、友人関係から突破口を見いだすんだ。これでイルカは寝られない、今日夜寝られないよ。わかったかい。よーく覚えておくんだ」
 おばさんはそう言うと出て行った。そして、すぐに坊主の田中の襟をつかみ、引きずりながら帰ってきた。坊主の田中はそのまま乱暴に教室の隅に転がされた。意識はあるようだが、口はゲロまみれ、半笑いでこっちを向いて、涙を流していた。
 おばさんは生徒達を見回した。生徒達は伏目がちに、肩をすくめて見返した。
「お前らは本当に、本当にダメだね……でも、あたしもそうだった」
 おばさんは突然、神妙な顔で話し始めた。
「何を隠そう、あたしも、ここの卒業生なのさ。十年前の私は、引っ込み思案でシャイで、人に悪口を言うどころか、喋りかけてくる人間がとにかく怖くて、ローソンで箸をつけるかどうか聞かれただけで慌てふためいてハンカチを自分の口に詰め込んで卒倒していたもんだよ。でも、自分を変えたかった。だからここに通い始めたんだよ。みんなと同じようにね。最初は辛かった。地獄だった」
 伏し目がちだった教室中の顔が、だんだんと上がっていった。坊主の田中も、いつの間にか体を半分起こして熱心に話を聞いていた。
「一人立たされてペンギンの悪口を言えと言われた時は、ちぢこまって顔面蒼白になって自分のカバン目掛けてゲロを吐いて、口から糸を引きながら大急ぎで財布の中のポイントカードを机の上に広げてたまり具合を確認した挙句の果てに走り出して、一目散に背中をかきむしりながら『ほとんど期限切れ!』と叫んで窓を突き破って飛び降りたもんだよ」
「だいたい俺と一緒だ!」坊主の田中は顔をキラキラ輝かせて言った。
「そうさ。あんたのせいで思い出しちまったんだよ。あたしは、今はこんなに悪口が言えるようになった。だからみんな、絶対にあきらめちゃいけないよ。変わるんだ。誰だって、努力すればきっと、口の悪い人間になれるさ。大丈夫。その時を信じて、今はただ何も考えず、悪口を言うんだよ。一日中、どんな悪口を言ってやろうかと頭をめぐらすのさ。そして、誰かが目の前に立ったら、向こうが何か言う前に、思いついた全ての悪口を浴びせて先手を取るんだ。気持ちいいよ」
 生徒達は今、初めてはっきりと顔を上げていた。わずかに、背負いこんできたものの重さが消えていく心地よさを感じていた。自分たちを追い立てる声は、自分たちを呼ぶ声でもあったのだと、初めて気づいた。そんな声が存在するのだということも、初めて知った。
「じゃあいくよ、ボケナスども」
 喉元さんは、まだ初日だけれど、この教室に入って本当に良かったと思った。きっとこんな私も、頑張れば、気兼ねなく人に、イルカにペンギンにハムスターに、おじいさんおばあさんに、「死ねボケナス」と言えるようになるのね。今はその気持ちが全然わからないけど、もしそうなれたら、先生のようになれたら、どんなにすがすがしいんだろう。私はずっとそんな人間になりたかった。