宗教となると長くなる休み時間

 三浦と渡辺のケンカだケンカだ。17にもなって、休み時間に口論だ。周りのみんなは、机三個分の遠巻きから見て見ぬふり、そこに現れたクラス委員長のメガネは薄作り。
「やめないか君達。ケンカなんかして」
 二人は委員長の方を見もしない。
「黙っておいてくれないか、クラス委員。三浦くん、このパリサイ人め。君は神を冒涜した」
「それはこっちの台詞だぜ渡辺ぇ!」
 学級委員長は、わかった、二人の言い分はわかった、というように両手を下に向けてうなずき、左手でメガネを外し、右手で目頭を押さえると、そのまま動かなくなった。


ヒソヒソ「クラス委員長、宗教がからんでいるとわかった途端にあの有様だ」「意外に学がないぜ」「該博な知識で、この場をいさめてくれると思ったのに、がっくしだわ」「白髪が多いし」


 委員長はぴくりとも動かない。だが、何か言った。今口動いた。
「え!?」と三浦が声をあげる。「何か言った!?」
「神様も、喜ばないと思うし」
 委員長の空疎な言葉に、クラス中が、モヤシが写真以上に山盛りになっているラーメンが出てきた時の顔で埋め尽くされた。
「それは違うぜクラス委員。これは聖戦だ。神はお許しくださる」
「それはこっちの台詞でもあるぜ渡辺! そういう場合もある!」
 委員長は二歩下がると、片足を伸ばして、重心を後ろに落とし、肘を手でおさえて唇をなめた。


ヒソヒソ「クラス委員長、しおしおのパーじゃないか。あんな奴だとは思わなかったぜ」「あのメガネは飾り物なのか」「あいつはただの、生きとし生けるメガネ置きなのか」「何が古田と同じメガネよ、あたし失望したわ。ちょっと好きだったのにさ」「白髪が多いし」「苦労してるんだね、というのも白々しいほど多いわ」「白髪だけに」


 その時、一人の女子生徒が音を立てて椅子から立ち上がった。眉をつり上げ、江角マキコの振りをしながら二人をにらみつける。
「もう我慢できないわ。あなたたち、ケンカなら外でやってくれる? 埃がたって服が汚れるじゃないの」
「あ、あれは、金持ちにあこがれている山森さんだ」
 山森さんは、軽蔑の流し目をキープしたまま、三浦と渡辺の前、そして下を向いたクラス委員長の前を通り過ぎ、つんけんしながら勢いよく窓を開けた。
「山森くん、君はどう思うんだ。話の内容は聞いていたんだろう」渡辺が背中に声をかける。
「私は、ミッション系の中学校を出ているわ」


ヒソヒソ「う、嘘よ。山森さんは四中だし、それに、ミッション系という言葉を山森さんが覚えたのは、昨日のマックでだもの。私が口にして、山森さんがえらい食いついてきたの。ユッコが証人よ」「うん、あたしも一緒に聞いてたわ。食いついてたわ。何も注文しなかったわ」「私のシェイクを半分ぐらい飲んだの」「山森さんの筆箱のチャックはバカになっている」


「聖(せい)四中に通っていたわ」
「とすると、山森くん、君は僕の味方というわけだな」
「それは違うわ。私は神の味方をしても、あなたに肩入れするつもりなんてさらさらないことよ。本当に野蛮な人たちね」


ヒソヒソ「山森さんは日曜日、コンビニの駄菓子コーナーでしゃがみこんでいた」「山森さんの消しゴムは裸だ」


「山森、おめーもつべこべ言ってんじゃねーよ! ホワイトタイガー教が一番最強なんだよ!」
 膝を折って完全に前かがみになった三浦が力いっぱい叫んだ。
「キリストなんか、ホワイトタイガー様にかかれば一発。一発で、宇宙の藻屑、だぜ!」
「三浦くん、キリストはホワイトタイガーをそもそも見たことがないのだよ」


 ヒソヒソ「三浦のやつ、何を高尚なことでケンカしていると思ったら、オリジナル宗教でキリスト教に勝負を挑んでいたのか」「いったいホワイトタイガー教とは、どんな宗教なんだ」


 声に反応してチラッとそっちを見た三浦は、背筋を伸ばすと、説明を始めた。
「珍しいんだ。珍しくてかっこいい。それがホワイトタイガー教の教えだ。一神教だ」


 ヒソヒソ「なんて雑な宗教なんだ」「一神教というキーワードだけじゃ、つらすぎるぜ。ホワイトタイガーもつらすぎるぜ」「宗教としての厚みは、まるでベニヤだ」「でも、一神教という言葉は知ってるんだな」


「一神教だ!」もう一度言う三浦。


 ヒソヒソ「しかし、三浦に聞こえたということは、今までの俺たちの会話はメインストリームのあいつらにも筒抜けだったということか」「そうらしいわね」「その証拠に見ろよ。山森さんの目を。血に飢えた虎のように極限まで縦長になった黒目が三浦を捕らえて離さねえ」「そうか、ここまでの聞こえてない振りを台無しにされたからね」


 山森さんはその声もまるっきり聞こえているので、徐々に徐々に普通の目つきに戻っていった。あんまり早いと、バレバレだからだ。
「何がホワイトタイガーよ、ばかばかしい。三浦くん、こんなに腹が立ったのは久しぶりだわ。でも、それもこれまで。一つ忠告しておくけど、これ以上私を怒らせないほうがいいわ」
「な、なんだとー。女に何ができんだよぉー」
「私は、空手初段、薙刀二段の腕前よ」


 ヒソヒソ「薙刀の方は嘘よ!」


「次に狙ってる習い事はテニス。次点に……ピヤノ」
「なんだとー、やんのかよー山森ぃ。ホワイトタイガー様のポリシーは、『女だからって容赦しない』だぜぇ」
 ボクサーのジェスチャーでずずいっと前に出る三浦。
「殴る気っ? 卑怯者!」


 ヒソヒソ「山森さん、自分から空手の話題を出したっていうのに」「見ろよ……山森さんの膝小僧。傷だらけだ」「山森さんはキズアワワを持ち歩いている」「山森さんは舗装されていない道路を走るときの方が速い」


「そもそも、いいのかしら。私に手を出しても。あなたのような平凡な一生徒、私がお父様にかけあったらどうなるかしらね」
 腕組みし、自信たっぷりの山森さんは、よほど自信があるのだろう。どんどん体が、話しかける相手に対して斜めになっていく。
「な、何ぃ」
「山森くん、君という人は……」
 こちらの二人は完全に山森さんに対して真正面に立ち、股も開いている。


ヒソヒソ「山森さんのお父さんはアル中よ」「ただ、それならそれでややこしいことになるぜ」「でも、お父さんは二週間にいっぺんぐらいしか帰ってこないらしいわ」「ややこしいな……」「二乗だわ」「それに、なんでも、叔母さんと暮らしているらしい」「ややこしいが別の計算と一緒に()で括られてるじゃないか」「さらに、金曜日だけ従妹が夕食を食べに来るんですって。その叔母さんの子供」「分母に分数がある時ぐらいややこしいじゃねーか」「ややこしい分の2、分の17があるじゃねーか」


 その時、おもむろに教室中央へ出てくる黒い影。返ってきたクラス委員長だ。
「君たち、もう気は済んだだろう。さあ、自分の席に戻るんだ。みんなも! そろそろ休み時間も終わる」


 ヒソヒソ「学級委員長!」「そういえば、いったい今までどこをほっつき歩いてたんだ」「俺は見てたぜ。あいつがいったん自分の席まで戻ってカロリーメイトを半袋食べるのを。この目でな」「どうりでフワッと、何か食ってる匂いがしたんだ」


「クラス委員、君はすっこんでいたまえ。宗教的知識の一つもないくせに」
「その通りよ。さがっていなさい」
「そうだそうだ」


ヒソヒソ「そうだそうだと言ったのは、ホワイトタイガー教の奴だよな」「んっ? その三浦が何か出すぞ」「出そうとしてモタモタしてる」「全然出ない、全然出ないぞ」「モタモタしてるわねぇ〜」「物が多いんだ」「何でもすぐポケットに入れるからだ」「あっ、出た」「違う、レシートよ」「ちょっと見た」「うわっ、逆のポケット入れた」「なんてだらしがないんだ」


 そしてようやく三浦が取り出したのは、一枚の藍色の布。クラス中に両手で広げて見せるようにすると、そこには、丸い太陽だか満月だかと、積み上げられたお団子と、ということはさっきのはお月様で、あとぼんやり虎の姿が描かれていた。輪郭の線が太い。
「これこそ、満月の夜、お団子を食べしためによみがえりし伝説のホワイトタイガー様の御姿を写しとりし掛け軸だ」


 ヒソヒソ「もうごちゃごちゃ言いたくねえけど、頭わりいなぁ」「ほんと」


「何かと思えば、掛け軸というよりタダの布じゃない」
「それはこの前、家庭科でやった藍染だろう。君はそのチンチクリンを崇拝しているのかい」
「なんだと!」
 渡辺の挑発にいきり立つ三浦。
「かっこいーじゃねーか! なあ委員長、かっけーよな。このホワイトタイガー様、かっけーよなぁ。しびれるよなぁ」
 委員長の前に布を広げる三浦。
「う…うぅ……」
「委員長?」
 委員長は苦しそうに顔をゆがめ、頭を抱えてしゃがみこんだ。
「……あったま…いってっ……」
「透明人間(香取真吾)?」


ヒソヒソ「生まれく叙情詩とは」「青き星の挿話」「夏の旋律とは」「愛の言霊」


「ウ…ウオオオオオォォォォ!!」
「どうしたんだ! クラス委員長の姿が!」「毛むくじゃらの姿に変わっていく!」「体も膨らんでいくぞ!」
「どうしたんだクラス委員、毛むくじゃらで、どうしたんだ」
「委員長、よしなさい。毛むくじゃらになってふざけるのはよしなさい」
「うわーー! 委員長が、毛むくじゃらで、うわーーーー!」
 毛がむくじゃるだけではない、口と鼻はとがり、牙が生え、耳もとんがってミッキーマウスの位置へと上り詰めていく。
「あれは……」
 ここは全員で叫びたい。みんなははやる気持ちを抑えて顔を見合わせた。


「狼だ!」


 狼の姿へと毛むくじゃらになりつつ全身の筋肉が膨れ上がったクラス委員長だったが、着ている学ランを買うときにお母さんが大きめのサイズを買ったために、服は破れなかった。学ランをタイトに着こなしながら顔だけ狼という立派な姿は、どこか鉄拳のキャラクターを思い出させる。
「クラス委員長は……」「狼男だったのか!」
 クラス委員の狼男はゆらりと立ち上がり、クラスメイトを見回した。
「そう、僕の正体は狼男。こんな夜は血が騒ぐんだ」
「夜じゃねえけど」「でもそうか、あそこに描かれた月が……」
「こんなホワイトタイガーの輝く夜にはな」
 せーの。
「そっちかよ!」
 二回目なので、クラスのコンビネーションは滑らかになり、今なら文化祭の準備でケンカしないような気がしていた。
「僕のことは、シルバーウルフ、もしくは日本語で銀狼と呼んでくれ」


ヒソヒソ「あいつ、狼になったのをいいことに、白髪を銀髪にすり替えやがった」「全体的には黒いのに、なんてあつかましいの」


「みんな、急にヒソヒソするのはやめてくれ」
 狼男は筋肉モリモリで襟元がきつそうだ。シャツの第二ボタンを開けて問いかける。みんな黙った。
「べ、別にだから何だって言うのよ」
「そうだ。狼男だろうと関係ない。ポッと出てきて何様のつもりだ。僕は三浦を許したわけじゃないぞ」
「なら、ジャンケンで勝負だ!!」と狼男。「それで大人しくしてもらおう!」
「なっ」
「ジャーン、ケーン!」
 教室が静寂に包まれ、反射的に全員の手が動いた。
「ポン!」


ヒソヒソ「ま、負けた……」「俺も……」「私もよ……」「僕もだ……」


「う、嘘でしょ……」
「馬鹿な……」
 山森さんも渡辺も、みなと同じパーを出したまま呆然とする。
 その時、教室の隅で声がした。
「狼男の作戦勝ちだな」
「お、お前は」「クラス一の秀才……」「西陣IQ200!」


西陣IQ200の話
「クラス委員長君は、混乱に乗じて、ジャンケンポンにより一発で勝利を手に入れた。どんな方法であれ、一発で全員との勝負を決めてしまえば、それを覆すことはできない。なぜなら覆そうとしたら、負けてるのにカッコ悪いからだ。そして、その手段にジャンケンポンを使ったのは偶然じゃない。綿密なシミュレーションがあってのことだ。まず、ジャンケンと言われたら反射的にポンしてしまう人間の条件反射を利用することができ、さらに負けた時のカッコ悪さも申し分ない。ジャンケンでぐちゃぐちゃ言えば、いやおうなしに器の小さい奴と思われてしまう。そしてこれが一番重要なことだが、クラス委員長君には勝算があったんだ。三人だけでなく、この教室にいる全員に、ジャンケンポンでなら勝てるという自信が。僕たちは、ジャーン、ケーンと言われたあの瞬間、無意識にせよ、こう考えたに違いない。狼にはパーとグーしか出せないのではないか。しかも、クラスメイトが狼になった直後、判断力はすでに鈍っている。僕たちは、どうジャンケンしようとグッパージャスになってしまう狼のことを頭に思い描き、少なくともパーを出せば負けは無いと思った。人間が思考停止するのは、自らの思考によって、論理的な勝利を確信した瞬間だ。これを慢心という。幾千の大人物が、そのために英雄になり損ない、結局生活に困ってきた。慢心というのはそれぐらい恐ろしいんだ。その証拠に、見たまえ。この偏差値が高校レベルを遥かに超えた僕でさえ……」
「パ、パーを出している……」「嘘だろ……」「でも、なぜ狼男がチョキを出せたんだ」


「さすが西陣IQ200君、お見事だよ」
 狼は、そこだけ完全に人間の肌色をした手を見せるために、袖をまくった。チョキがさらに丸見えとなり、毛穴まで見えた。
「このとおり、僕はチョキを出すことを可能にするため、ホワイトタイガーをあまり見ないようにすることで中途半端に変身し――」
「ちょい待ち」
「ん?」
 声をかけたのは、三浦だった。
「なんだい? ……あ、ああっ、ああっ、そんな馬鹿な!」
「狼が、ホワイトタイガーに勝とうなんて、ジャンケンだろうと百年早かったようだぜ」
 三浦の手元に輝くグーが、狼男に突きつけられた。
「ば、馬鹿な。何の特も無いグーを〜!」
 狼男がまっすぐ背中から倒れた瞬間、チャイムが鳴った。英語の久喜野は来るのが遅いのでまだ三分ほど時間はあるが、これ以上どうなるというのだろう。それまで見物していた野球部は一斉に早弁を始めた。