俺は二兎を追う奴を見ていたい

 人生にはいけいけゴーゴーな時もあるけれど、湯をたたえたカップヌードルを運ぶ時のような慎重さが求められる場面がやってくる。
 透明な筒の中でワニと一対一になっている時に元カレから電話がかかってきたらどうしよう、が今回のケースである。ケース1である。


 ワニとミチコをへだてていた板が、今どうやったの? という一瞬の荒技で取り払われた。おどろいた北国の子供達が、テレビの前で「あっ」と声を出し、指をさす。
 いよいよ、CCDキャメラを頭にくくりつけられている水着姿のミチコが、動物としてパンピーである中型ナイルワニと対面した。しかし、CCDキャメラには、ワニのしっぽが映し出されていた。
「この女、もってねえな」
 ベテランDの舌打ちが、応募者全員サービスでみんなの耳に飛び込んでくる。
 ミチコは箱入り娘だ。実力社会の酸味に舌がピリピリする。ここでは、誰もが視聴率とヒルズ族への憧れで動きまわっているのだ。六本木の高層マンションの2階に住めば俺もヒルズ族だと思うことで、傍若無人にロケ弁を食べるテレビマンたち。
「ワニも頑張れよもっと!」
 ベテランDが声を張り上げ、ADが筒の上にあいた穴からタコ糸でしばられたチャーシューを投入し、バウンドさせる。調理しきったブタの匂いにワニが気付いた。ヨーヨーマスターのようにチャーシューを操るADは大卒。そしてワニが前を向いた。食いつく寸前、チャーシューが空へ飛んでいった。
 ワニはくじけず、ミチコをチャーシューに見立てることで、野生の勘にダイヤモンドシャープナーをあてた。俺は東京でも自分の本能に従うだけさ。
 ミチコは、正面からのワニの見た目と迫力にあやうくオカマみたいな声を出しそうになりながら、ぐっとこらえて水なし一錠、ワニを見据えた。言うならば、ヌードルに湯が投入されたのだ。
「いいよいいよいいよいいよ!」
 などとDの声が聞こえる。その時、ミチコのポケットが震えた。携帯電話。取り出してチラ見すると、消せなかったあの名前、あの番号。
「ゴウイチロウ……」
 ミチコは息をのみ、緊張した面持ちで電話を耳にあてた。
「もしもし……?」
「もしもし、オレだけど。ゴウイチロウだけど」
「……池袋の喫茶店…以来だね」
「え?」
「あの喫茶店、あれ以来だね」
「わかんないけど、そんときオレ風邪ひいてなかった?」
「本番中だぞ!」
 丸めた台本を振り上げてDが怒鳴る。
「あれもしかして、今忙しい?」
 確かに、ミチコのヌードルには普通より湯が張っていた。正直ふたがしめられないほど張っている。いつものミチコなら、多少みじめな気持ちになろうと、このままキッチンで立ち食いしただろう。しかし、ミチコは首を振った。
「ううん。マンガ読んでた」
「なに?」
「あたしんち」
 ミチコは普段よりさらにリラックスした状態であることを伝えようと嘘をついた。その一方で、携帯電話を耳にあてたまま、逆の手をキングコブラの形で動かし、ワニを牽制した。言わば、湯でひたひたのヌードルをテーブルまで運ぼうとしているのだ。
「ちょっとお前に、聞きたいことあるんだけどさぁ」
 ドキッと顔を赤らめた拍子に、ミチコの手はワニにガブリといかれていた。キングコブラのところが、ガブリといかれていた。
「な、なに……?」
 ミチコは顔を多少ゆがめたが、シャイなプリマドンナの声で言った。
 俺は一つだけ忘れていた。湯を張ったヌードルを持ち運んでいる時、そして湯が容器からこぼれ出た時、100℃くらいあるはずなのに俺達は割と耐える。へっぴり腰になりながらも、ミチコは着実に前へ、ゴールへ、テーブルへと進んでいるのだ。
「このグラビアアイドル、すごく男らしいや!」
 そう叫んだのは、カップヌードルを食べたことのない北国の子供達だった。