カニクイエッセイストの担当

 僕は大物女性エッセイスト、コイントス薔薇原先生の自宅マンションを訪れ、総鏡張りのエレベーターで36階へと上がっていった。先生はエレガンスでアジエンスな生活をしておいでの34歳だ。
 ドアを開けると、先生は玄関でカニを召し上がっていた。金持ちの玄関には当然のようにソファーがあるが、そこでカニ様を召し上がっていたのだ。
「あらいらっしゃい。ホスホスホス。原稿は読んでくれて? ホスホス」
 このホスホスという音は、先生がカニの食べにくい部分を、専用のカニほじくり棒でほじくりなさり、ほじくった先からその口で吸い込みなさっている音だ。
「ええ、読ませていただきました」
 すると先生は、凄い記憶力で、その原稿の文章を暗唱しなさい始めた。
「おろしたての石鹸はむっちり硬いけれど、使われることで磨耗し、日ごと小さくなっていく。そして最後は、今にも折れそうな薄っぺらい体を横たえて、冷たく暗いお風呂場で疲れ切っている。暗い部屋の片隅で一人震えているあなたはそんな石鹸みたいなもの。世間の風に肩身を狭くして、それを悔やんで、新しい自分がやってくるのを待っている。でも、悔やむ必要なんてない。あなたのか細い心が折れそうなのは、あなたの豊かな心が、その身と引き換えに、誰かをキレイキレイにしたからなのよ」
 その時、部屋の奥から、先生のアシスタントが廊下の角から顔を出した。
「「キレイキレイにしたからなのよ」」
 二回言うところをハモると、アシスタントは引っ込んだ。
「あなたは薬用ミューズ石鹸。だから安じる必要はすこしも無い。あなたが心細くなった時、あなたの心に触れてきた誰かが、必ず新しいあなたを呼んでくれるわ。それは丁寧に紙に包まれた新しいあなた……」
 自分に厳しい先生は、エッセイストであるのにも関わらずアシスタントをお雇いになり、シャーペンの尻についた消しゴムをうっかり使おうとした時に注意させたりなさっている。
 まずい。先生のペースにケツまでのみ込まれているのを感じ、僕はオニ部長の猫ひろしにクリソツの顔を思い浮かべて気合を入れた。
「先生、まず、キレイキレイと薬用ミューズがかぶっています。でも、今回の訂正はそういう問題だけでもないんです」
「なんですって。私の原稿は総タイル張り、よく水をはじき、バスマジックリンの必要性はゼロのはずよ」
「先生の文章にミスはありません。ノーミスです。10点満点。しかし問題が一つ。この文章を載せますと、先生が体を洗うとき石鹸を使っていることが世間にバレてしまいます」
「何の問題もないわ」
「石鹸を使っているということは、ボディソープを使っていないということがバレるということです」
「あなた、いったい何が言いたいの! 暇つぶしなら帰ってちょうだい!」
「それは、体洗い用のタオルに、先生が裸になって石鹸をこすりつけているということがバレるということなのですよ!」
 僕が先生を力強くドーン!と指さした瞬間、
「ガラガラガラガラピシャーーーーン!」
 アシスタントがすぐそばのドアから顔を出し、大声で叫んだ。同時に先生は雷に打たれなさるアクションで、体を一本の棒に見立て小さく飛び上がりなされる。御カニ(おおんカニ)がこぼれおちる。
「もっと言えば、しっかり泡立てたはずのタオルがお肌を全然すべらないのは、泡が消え失せて摩擦係数が跳ね上がるのは、先生の体がその日めっちゃ汚いということなのですよ!」
「ガラガラガラピシャーーン!」
 アシスタントの声に合わせて飛び上がりなさる先生。
「先生は汚れエッセイストだ!!」
「ガラガラピシャーン!」
 なさる先生。
 しかしさすが先生だ。僕の口撃にもだんだん慣れてきた様子で、どんどん、打たれる雷のボルトが弱くなっていく。アシスタントのさじ加減のような気もするが、とにかくカニに手が伸びている。僕は作戦変更して、目を潤ませた。目薬は、とろみがあるほど効くと思っている。
「我々編集部が先生をそうまでして守ろうとするのは、先生の本の売り上げが天井知らずだからという理由だけではありません。我々が心配しているのは、そんな重版の女豹、ベストセラーの工場長である先生が、物書きとして、類まれなるビッグ・スターであることです。ありすぎると言ってもいいでしょう。布袋に殴られていないにも関わらず、先生の面の割れ方は町田康の20倍と言われています。街を歩けば声をかけられ、連日のようにカニが届く。このマンションの前にクール宅急便が止まっていない日はありません。駐禁の毎日です。そんな出版界の生けるダイアナ妃である先生を気遣って、先生のヒューマン・ネイチャーな部分を守ろうと鉄壁ガードしていこうと考えているんです。あなたを第二のダイアナにしたくないんですよ!」
「た、担当の……」
 初めて、いつも冷静な先生の生身の感動が僕に伝わってきた。クール宅急便を使うのはこのマンションで先生だけではないが、うまく騙すことができた。金持ちはクール便をよく利用するイメージがある。もう一押しすれば、ムチ、アメときてもう一発ムチを入れることができれば、先生は人情・義侠心を感じ、「わしは古いタイプの人間や」と言いながらうちの出版社の専属カニクイエッセイストとなるはずだ。僕は社運を握りしめ、未知の領域へ、一か八か踏み出した。
「しかしね、先生。逆に考えれば、先生は、布袋に殴られず損なのです。布袋とモメることなく、ここまでの知名度を得てしまった。人生の布袋に殴られるチャンスを、先生はみすみす逃してきたのです! 先生には、才能が無い!!」
「ベビベビベイビベイビベイビベイビベイベー!」
 アシスタントが玄関の電気のスイッチをオン/オフ高速で切り替えながら歌い終わるまで、先生は後ろに反りかえりながらエレキギターを弾くマネをしておられた。うん、これは失敗だった。