権力

 僕は完全にいじめられっ子なので、体育館裏に来いと言われたらやっぱり行ってしまう。そこには、松っきゃんとマルクス君がニヤニヤしながら立っていた。遠くからでも、体操着に書かれた『伊―1469〜1527組 マキャヴェリ』と『独―1818〜1883組 カール・マルクス』の文字が良くわかる。
「よく来たな。俺が怖いから来たんだろ。俺の暴力が怖すぎるから」松っきゃんが言った。
「怖いよ。だから止してよお願い。ねえ、松っきゃん」
「マッキャンって言うな。おかしいだろ。いや、マッキャンはいいにしても、マが松になるのは絶対おかしいだろ。テレビっ子がなめやがって」
 マキャベリ君はひじを曲げた腕をぐるぐるまわして、余りにもいつパンチが来るかわからないというふうになったので、僕は縮こまってしまった。お、恐ろしや。
「ごめんよ、マキャベリ君。ごめんよ」
「わかったら、もうマッキャンって呼ぶんじゃねえぞ」
「うん、呼ばないよ。ごめんよ。だから殴るのはよして」
「うへへ」マキャベリ君は満足そうに笑って、腕の回転を止めた。「やっぱり、暴力の集中によって権力はもたらされるんだ」
「そりゃ違うよ」マルクス君が割って入った。「なあ、違うよな、ブタ野郎」
 ブタ野郎である自分としては、二人が何を言っているのか全然わからなかったけど、違うと言ったらマキャベリ君にぶん殴られるだろうし、違くないと言ったらマルクス君に頬っぺたをぶん捻られると思ったので、黙っていた。
「金のある奴が権力を手にするんだよ。権力を得た奴が暴力をするのは全然、別問題だ」
「なんだと!」と大きな声を出すマキャベリ君。
「なんだよ」
 僕はケンカを見るのはいやだけど、ぶん殴られたりするのはもっといやだから、なるべく生意気な感じにならないように、後ろを向いてしゃがみこんで頭を腕でおおって、その隙間から振り返るようにして、様子を見守ることにした。
「権力は暴力の集中なんだ!」とマキャベリ君。
「富の集中だ!」とマルクス君。
「暴力だ!」
「富と生産手段だ!」
 えっ、生産手段はさっき言ってなかった。と僕は思ったので、そしたら『それはさっき言っていなかったじゃないか』とそういう顔をしてしまった。そういうところが悪いからいじめられると思うのだけど、やっぱりマルクス君はそれを見ていた。
「生意気な顔!」
 マルクス君は自分の顔の前で何回か手を叩き、すると、学校の低学年の子供達が、両手をあげて駆けてきた。マルクス君は、自分の前を通過しようとするその子達に、手馴れたティッシュ配りのバイトのすばやさで『甘イカ太郎』を配った。子供達はこってりした駄菓子を受け取ると、そのまま両手を挙げて走ってきて、僕を取り囲み、袋にした。そんなに痛くなかったけど、泣きそうになった。
「とにかく、富と生産手段の集中によって、権力はもたらされるんだ。プロレスラーが総理大臣になれるのか!」
「なれる!」
 マキャベリ君は、見えない動きで輪ゴムを手か指に巻きつけると、スペシウム光線を撃つ時の手の組み合わせ方をした。そして、縦にした手の親指を人差し指から離すと、マッハ的な勢いで輪ゴムが飛んできて、僕の顔に命中した。
「なれねーよ! いつの時代の話してんだ!」
 そう言うと、マルクス君が指笛を吹いた。少しして、犬がものすごい勢いで駆け込んできた。そして、僕に飛び掛ってきて、死を覚悟した僕は目をつぶったけど、犬のガウガウ、バウバウ感を肌で感じてしばらくして目を開けると、犬がマルクス君にソーセージをもらっているのが見えて、事が終わっていたのを知った。生きた心地がしないで体を見ると、体操服をビリビリに破けただけだったので、ホッとした。
「知るか! んなことどーでもいいだろ!」
 マキャベリ君は叫びながら、パンツ一丁の僕に、アツアツの湯豆腐をおたまですくってぶつけてきた。僕の方を全然見ないでマルクス君と口論しているのに、湯豆腐は満遍なく、何かのエステのように満遍なく体全体にぶつかる。
「どーでもよくねーよ! 覚えにくいだろ!」
 マルクス君は給料を払って土木作業員の方々を呼んで穴を掘らせて、そこに僕を、ちょうど乳首が出る位置まで縦に埋めさせた。手も全部出ていて、僕はてっきり首まで埋められるものと思ったので、これはこれで落ち着かなかった。
「覚えにくいってなんだよ! 誰目線だよ!」
 マキャベリ君は、湯豆腐の残り汁と昆布を僕にかけて、僕の頭を使って土鍋を割った。たんこぶができた。
 パン、パン、パン。
 二人が言い争っている後ろで手拍子が聞こえた。
「二人とも、そこまで」
 その声は担任のダール先生だった。ロバート・A・ダール先生だ。
「ダール先生! 助けにきてくれたんですか!」
 ダール先生は僕の声を無視して、というかちょっと黙っててという手の動きをして、胸元からおもむろに名刺を出した。
「こういうもんだ」
 僕にもそれは渡された。『アメリカの政治学者 ロバート・アラン・ダール 1915〜』と書いてあった。
マキャベリマルクス。お前達が言ってることは、何らかの社会的資源・価値の所有によって権力がもたらされる、そういうことだな。その点では一致しているな。権力というのが、暴力や富という実体に裏付けられるっていうんだな。権力は『実体概念』だと、そう考えるんだな」
 二人はそう言われて少しの間見つめあったが、ふんっという感じで目を逸らすと、それでも渋々うなずいた。
「でも、それは違う。だって、それだと、『権力』そのものは何なのか、わからないじゃないか。権力はどこにあるんだ。暴力をするから、プロレスラーだから、金持ちだから、権力者なのか。違うだろう。そもそもプロレスラーは暴力をふるっているのか」
「じゃあ、プロレスラーは一体どうすればいいんですか」とマキャベリ君。
「プロレスラーは関係ない。忘れろ。権力を、観察可能にしなくちゃいけないだろ。科学的に観察可能に。つまり、権力を経験的事象として捉えるんだよ」
「でもどうやって」とマキャベリ君。
「だって、ラスウェル先生も、多元的価値の付与と剥奪が権力を生むって言ってましたよ」マルクス君も納得していない様子だ。
「ラスウェル先生も、権力を実体と捉えているんだ。でもな、例えば、こいつに無茶な要求をする」
 ダール先生は、僕のことを全然見ないで僕を指さした。
「おいブタ野郎、乳首が取れるまで、自分の乳首を指でつまんでコリコリし続けろ」
「えっ」
「さっさとやれ」
「は、はい」
 僕は右手で右乳首をコリコリする。
「両手でやれっ」
 僕は左の方もコリコリやる。
「腕を交差させてやれ」
 僕は右手で左の乳首を、左手で右の乳首をコリコリする。
「あんまおもしろくなかった。戻せ」
 僕は言われたとおりにする。
「取れるまでコリコリさせるんだぞ」
「は、はい」
 ダール先生は僕に触れていないのに、そばの蛇口で手を洗った。そして、二人の方に振り向いた。僕は乳首をコリコリしていた。
「と、このようにした時に、権力は行動に現れるわけだ。支配者と被支配者の影響力関係に着目する。被支配者がそのような権力関係を認めるところに、権力は成立する。そうでない限り、外から見ている限りは、『あれはふざけ合って遊んでいるだけだと思っていました』と言ったところでしょうがない状態なんだ」
「それじゃ、それじゃあ、いじめられっ子が先生に言う勇気がなければ、どうしようもないじゃないですか」
「それは一応違う。いじめがあれば既に、いじめられっ子がズボンを脱がされたまま授業を受けたりしてそれを苦痛に思っているなら、それはいじめだ。つまり、『AがBに普通ならBがやらないことをやらせた場合、AはBに対して権力を持つ』ということだ。いやだなあでもやらなくちゃ、の時に権力なんだ」
「なるほど。命令に服従する場合にのみ権力があるとするんですね。じゃあ、普通ならこいつは取れるまで乳首をコリコリはしないわけだけど、先生はこいつに取れるまで乳首をコリコリさせ続けているので、今、先生はこいつに対して権力を持つわけですね」マルクス君が興奮気味に言った。
「そういうことだ。それが、権力を『関係概念』で考えるということだ。無理やりコリコリさせられる奴と無理やりコリコリさせる奴がいて、その関係性において、初めて権力が生まれるんだ」
「無理やりコリコリか! そりゃいいや!」マキャベリ君は手を叩いて、さも愉快そうに笑った。
 マルクス君もダール先生も続けて笑って、三人はしばらく笑い声を響かせていた。僕はその横で、自分も笑った方がいいのか決めかねて薄笑いを浮かべながら乳首をコリコリしていたが、そろそろ本当に乳首がヒリヒリしてきたので、乳首から手を離した。
 その瞬間、三人が笑うのを止めてギロリと僕の乳首の方をにらんだので、僕は泣きながらまたコリコリした。
「それから」とダール先生は指を一本出して語り始めた。「こいつがコリコリするのが気持ちよくなってきた場合、そしてそれを隠して、私が指示するのをむしろ喜んで、まんまとコリコリした場合、どうなるか考えてごらん」
「それだと、権力がどこにも現れないじゃないですか」
「そうだ。権力とは固定的なものではなく、流動的で、様々な要素がからみあい、多元的なものなんだ。それじゃ、権力について、よくわかったね」
「はーい」
 二人は元気よく答えた。僕はその横で地中に埋まって乳首をコリコリしていた。