春秋戦国時代の中国思想

 公務員試験勉強中の俺は、何やら昔の中国っぽい小さな四角形の部屋に居た。がらんとして、真ん中に俺が立っているだけ。ではなぜ俺が昔の中国っぽいと思ったかというと、部屋の四隅にラーメン丼状のくぼみがあり、そこにラーメンが入って湯気が立ち上っていたからだ。床の平面より下に食べ物があるなんて、まともな状況じゃない。
 すると、真上の天井が丸く開いて、看板のようなものが落ちてきた。俺はそれを前に一回転して間一髪で避けた。片膝をついたかっこいい姿勢で振り返ると、その看板には、『時は春秋時代末期(紀元前500年頃)』と書いてある。
春秋時代だと!」
 俺は覚えるために叫んだ。すると、また看板が落ちてきた。ひっくり返ってしまったので、表にすると『春秋は(しゅんじゅう)』と書いてあった。俺はさっきシュンシュウと読んでいた。
「春秋(しゅんじゅう)時代だと!」もう一度叫んでさらに「文藝春秋と何か関係が!?」と言いかけたところで、天井が閉じられてしまった。
 また一人ぼっちになった俺は、さっき読み間違えたのと質問しかけて無視されてしまったのが恥ずかしく少し顔を赤らめていたが、急に気配がして振り向いた。一面の壁の中央に、いつの間にかバカでかいおじさんが立っていて、その壁の後ろに「儒家」と、かっこいい字体で書いてあった。
「おじさんは……NBAの人だね。中国の、身長をフルに使ってかっこ悪いダンクを発明した人でしょ」
 でかいおじさんは答えなかった。よく見ると、驚くほど精巧ではあるが、東京タワーにある蝋人形のようなものらしかった。目のところが安い。
 また看板が落ちてきた。
姚明ではない。孔子って聞いたことないか? <論語>とか、聞いたことないか?』
「ある」
 そして、俺が答えるごとに次々と落ちてくる看板。
『その身長の大きな人が孔子。大きいから、長人とも呼ばれた。孔子儒家の祖』
儒家ってなに」
『ジュケじゃなくてジュカ。儒学は、仁の完成と礼秩序の維持による理想の国家の形成を理想とする』
「わけわかんない」と顔を赤らめる俺。
『仁を持って対すれば、誰もが礼儀正しくしようと思うし、そうすれば国も安泰となるのは道理』
「うん、俺もそう思うな」
『それが儒学
「でも、仁って何」
『仁には色々な形がある。親孝行の<孝>も仁、忠義の<忠>も仁』
「なんだよ。もっとはっきりしてくんなきゃわかんないよ。儒学も大したことないなぁ」
 俺は孔子の人形を振り返って言った。
『悪口を言うな』
 最後の看板は、凄い勢いで、しかも角のところを一番下にして落ちてきた。そして、ぴしゃりと天井の穴が閉まった。俺は上の人を怒らせてしまって、また一人ぼっちになってしまった。孔子はぴくりとも動かなかった。近づくと、やはり目のところが安い。
 また誰かに見られているような気がして、振り向いた。すると、反対側の壁の前、なぜか真ん中から少しずれたところに、別のおじさんが座っていた。壁には『道家』と、木の枝を並べた文字で書いてあった。
 どうせ蝋人形だろうと思って近づくと、生きていた。
「おじさんは誰」
老子
「聞いたことあるよ。その『なんとか子』のシリーズ、俺聞いたことある」
「やったじゃん」
「おじさんは……」
 俺は壁を見上げた。
道家の人なんだね」
「ドウカって読むよ。君、さっき、カをケと読んで注意されていたのに」
「えへへ」
 俺は老子という人は優しそうなので、その人当たりに接すると、俺もなんだか心優しい人間になれるような気がした。顔も赤らめないですんだ。
「でも、それでいいんだよ。そうなんだから、しょうがない」
「あの、俺はもっと賢くならないと公務員試験に受からないんですけど」
「それはそれでやればいいけど、とにかく自然にというのを大事にね」
「自然大事に」
「君はこの自然の中にいるよね。君が自然だとすれば、誰もが自然だよね。いい奴もいやな奴も自然だよね。君がいい奴でも、いやな奴でも、自然だね。それを尊く思えば、思うことが出来れば、君は無為に、自然のままに作為なく、あるがままに生きていられるよね」
「なんだ、エレピー、エレピーのことだね」
「なに」
「<let it be>だね」
「いや、そもそもね。そのletって動詞は基本的に他動詞だよね。あるがままにさせておくってことになるよね。それだと、作為の意味になりかねないんじゃないかな。そう思うことすら、外物を侵すことになりかねないというね。その域を超えてこそ、道は開けるよね。そうなれば、天下は自ら治まるんじゃないかな」
「わかんないです。礼儀正しくしろってことですか」
「それはむしろ違うよね。礼儀も人為的だからね」
「そっか」
 俺はさっそくさっき得た儒家の知識を使って間違ったのでしょんぼりしてしまった。そんな俺を老子はぼんやり見ていた。
 しばらくして、また看板が落ちる音が背後で聞こえた。老子に見られているのはたまらなかったので、看板に近寄ると、こう書いてあった。
『そんなことより、やっぱ愛だよ!』
 すると、またいつの間にか、儒家道家に挟まれた一方の壁に、新しく『墨』と書かれており、そこに別のおじさんが立っていた。いや、これは人形だ。なぜかジャージを着ていた。
 すると、また看板が落ちてきた。
儒家のいう仁は、ちょっと限定的すぎるよ。お前らの教えを受けた野球部が、監督とOB会にだけペコペコして、不祥事を起こすんだ。愛するなら、丸ごと愛さなきゃ。仲良くなくても愛さなきゃ。兼愛、博愛の精神だよ。そして興利、ものを節約して、天下国家を豊かにしようじゃないの。戦争なんて浪費の最たるもんでしょ。もってのほかだよ』
「愛ってなんですか」
『愛は愛だよ。とにかく、差別なく相互扶助してこって言ってんの! それがそのおじさんの、墨子の意見』
「どうして墨子はジャージを着ているの」
『ジャージは愛だよ。いつ何時でも、ジャージを着ていれば人の役に立てるじゃん。そういう心意気を表しているってわけ』
「いいですね」
『だよね』
 そして、それっきり、看板が落ちてこなくなった。話が弾んでいたのに、どうしてだろうと思っていたら、また落ちてきた。『戦国時代』と書いてあった。
 その看板を見ているうちに、あいていた一面の壁に、また新たに人形が一体現れていた。何も着せていない男のマネキンだったが、耳無し芳一のように、体中に文字がびっしり書きこんである。後ろの壁には、法家と書かれている。
 そして看板が落ちてきた。
『彼の名は商鞅です。彼はこう考えました。権力を君主に集中し、法による統治をするのが賢明。以上』
 そのまま終わりそうな雰囲気だったので、俺は慌てて言った。
「待って! なんて読むの!」
『ショウオウ。そのあとに、韓非というのが出てきますが、カンピと読みます。彼をもって法家思想は完成しました。以上』
 法家の壁の前に人形が一体増えたが、隣のやつと全然変わらなかった。
 孔子儒家)の方で気配がしたので見ると、いつの間にか倒れて横になって煙を出している孔子の人形の左右に、二人立っていた。俺はもう慣れてきて、あんまり驚かなかった。近づくと、これも人形だった。上半身が裸で、胸から腹にかけて、それぞれ『性善説』『性悪説』と書いてある。『性善説』の方の人形は、天使を模しているらしく、羽と輪っかがついている。『性悪説』の方は、悪魔みたいな格好で、矢印のしっぽにフォークみたいなものを持っていた。でも、二人とも顔がアジア人でおじさんだった。
 そして看板が落ちてきた。
『天使が孟子。悪魔が荀子
孟子と……タケノコ?」
『ジュンシだ馬鹿』
荀子
 その時、悪魔の格好をした荀子の人形が博物館の動きでフォークみたいなものを突き出す動作を繰り返した。そして、大きい看板が凄いスピードで落下してきて、床に突き刺さった。
『そうだよ。人間なんてな、しょせんクソ野郎なんだ。だから、孔子先生の教えで、礼をたたきこんでやらねえとわからねえ。自分ばっかりなんだよ、お前らは。だからケツバットで性根を叩き直してやらないといけねえんだよ。ビシビシいくぞ、クソどもが。クソのクソのそのまたクソが。そんなクソどもをまとめるには、武力を使ってでも、覇道政治を貫くしかない』
 俺は怖いので、基本黙っていることにした。心なしか落ちてくる看板の速度も速く、先がとがっていた。
『そんなことないよ。人間はみんないいもんだよ。いいもんに生まれてきたんだよ』
 丸みを帯びた角のない看板が落ちてきて、なんなら少しぼい~んという感じでバウンドしたので、俺はホッとした。孟子の人形の羽がたどたどしい機械の動きでパタパタし始めた。
ぼい~ん『だから、道徳と仁に基づいて国を治めれば、きっと人はついてくるよ、大丈夫だよ』
ドーン!『クソはクソの我利我利亡者だからついてこない』
ぼい~ん『そんなことないもん。孔子せんせの教えを話せばわかるはずだよ。赤ん坊が苦しんでいたらみんなとっさに助けようと思うでしょう。そういう心をみんな持っているはずだよ』
ドーン!『人間は私利私欲のために赤ん坊を助けるんだ。いい人に思われて得をするために助けるんだ』
 すると、天井の上が騒がしくなった。口論と、ドシンドシンと物音がする。
 そして突然、丸い穴が開き、昔の中国っぽいおじさんが放り出された。そのおじさんは沢山の看板の上に背中から落ちて動けなくなった。よく見ると、頬も腫れて、上で一発誰かに殴られたらしい。
 すると、そのおじさんの腹の上に、もう一人おじさんが穴から飛び降りてきた。俺はそれが荀子だとすぐにわかった。そして、下で叫び声を上げたのは孟子だ。荀子孟子の髪の毛を引っ張って看板の山から下りると、部屋の隅のラーメンに孟子の顔を突っ込んだ。断末魔の叫び声を上げて、孟子は気を失った。
「そこの愚民、お前もラーメンマンになりたいか?」
 ラーメンマンってそういうことじゃないと思います、と言いかけたが黙っていた。俺は少し賢くなったのかも知れなかった。
「なりたいかって訊いてるんだ」
 ゆっくり首を振った。その動きで、道家の壁の前に老子がいなくなっていて、別の人物がいることに気づいた。その人は、今こんな大騒ぎになっているのに、目を閉じて、マンガ喫茶の個室にいるのかと思われるほどリラックスしていた。飲み物2種類持って来たてみたいな、何も心配いらない顔をしていた。
「万物はみな等しく同じで、個々の現象は大局から見れば差別なし。その理に立つことができれば、自己自身の判断に惑わされずに生きることができるでしょう」
 その人がつぶやくと、荀子がにらみつけた。
「うすのろ荘子は黙ってろ!!」
 その声が猛烈に大きかったので、俺は狭い部屋の中を走り出していた。なぜか荀子が追いかけてきて、部屋をぐるぐる回って、荘子が全然助けてくれないのを感じながら、なんとか逃れようと、いちかばちか、一番薄そうだった法家の壁のところに思い切りぶつかった。
 すると、ズボッと向こう側に突き抜けて、いきなり目の前が真っ暗になって、同時に誰かに受け止められた。
 見上げると、周りは真っ暗なのに、その人の顔だけ輝いていた。きっと、凄くいいものを食っているに違いない。立派なヒゲを生やし、頭の上に帽子をかぶり、その上に、ジャラジャラのついた下敷きを乗せている。その人が喋り始めた。
「今のうざい考えの応酬が、春秋戦国時代の『諸子百家』と呼ばれる。他にも大勢の小者がいて、あんな無駄なことを言い合って競い合っていた。うざすぎる。ほんとうは法家だけあればいいんだ。というわけで、いよいよ次が、七つの国が争っていた戦国時代を見事統一した秦の時代、俺の時代だ」
「あなたは」
 その人は言った。
「秦の始皇帝とは俺様のこと」
「聞いたことある」
「そうだろう。屁のつっぱりは不必要だ」
 言ってる意味はわからないが、とにかく凄い自信だと俺は思った。まちがってたらすみません。