耳鼻科(糞)

 二日前から、マリの耳は奥の方で重く脈打って痛んだ。ネットで調べた限り会社の近くには耳鼻科が無かったが、朝、電車の中から「糞山耳鼻科(糞)」と書かれた小さな看板を見つけたので、マリは昼休みにその若干薄汚れたビルの階段を上っていった。糞というのは気になったが、そういう名字であるならば、文句を言うほうが失礼というものだとマリは考えた。待合室は外観と比べてキレイで、患者も三人ほどいた。
「鼻津マリさん、中へどうぞ」しばらくして、マリは呼ばれた。
 薄暗い診察室に入ると、医者が回転する椅子を足を離して二回転してからこっちを向いた。キイキイと高い音が鳴った。
「鼻津マリさん。鼻づまりね」
「いえ、耳が……耳が痛いんです」
 シャー! 診察室の医者の背後のカーテンが一気に引かれて、目を見開いた年配の看護師が現れ、マリを見つめた。
「先生、後藤さん、今日はお薬だけだそうです」看護師はマリを見たまま喋り始めた。
「後藤……じゃあ、カプセルに…ズボンのポッケのホコリ詰めて出しとけ」医者はマリの方を向いたまま言った。
「わかりました。先生ので?」
「あのぉ……」医者は持っていたボールペンを看護師の方に向けて、空気を引っかくように動かした。「黒いの、今日着てきたやつ。あれの右の後ろ凄いから。財布入れてるからかな、あそこだけ異常に溜まる。あれ出しとけ」
「わかりました」
 シャー! 凄い勢いでカーテンが閉じられた。
「で、鼻津マリさん、鼻づまりね?」
「……いえ、耳です」
「鼻は?」
「大丈夫です」
「耳津さん?」
「鼻津です」
「鼻津マリさんだよね」
「ええ、でも、耳が痛くて今日は来ました」
「何度も何度も言うな!」医者はかぶっていた帽子のようなものを掴むと、隅に置いてあった人体模型に叩きつけた。そして、マリの方を向いた。「お前……鼻津マリしつこっ」
 マリは黙った。
「俺は医者だぞ」
「すいません。でも、ちゃんとお薬は出していただけるんですよね。さっき、あの……ズボンのポッケのホコリとか……」
「俺は医者だぞ。後藤のことはお前と関係無いだろ。後藤の友達?」
「いえ。でも……」
「おーい、エアガン」
 シャー! カーテンが開くと、さっきと同じ看護師がエアガンを持って立っていた。医者は看護師の方を見ないで、後ろに手を伸ばしてエアガンを受け取った。
「こいつを、詰まってるあなたの鼻の中に撃ち込むからね」
「私は耳が痛いんです」
「じゃあ耳に撃ち込むからね。おい!」
 シャー! シャーー! カーテンが一度閉まり、また一気に開くと、そこには四人の、全て年配の看護師が並んでいた。
「押さえつけろ、こいつ、こいつっ!」医者はマリを指差した。
 看護師が早歩きでやって来て、椅子を立とうとするマリを押さえつけた。
「止めろよ!」マリは叫んで暴れたが、年配の看護師の力は凄まじかった。
 それでも暴れるマリに対して、壁に寄せてあった万力のような器具が持ち出された。マリの頭はそこへ、縦にして突っ込まれた。二人がマリの頭をその中で押さえつけ、一人の看護師が器具の横についた締め付けの取っ手をキリキリと巻くと、マリの頭は、木の板によって、額と後頭部を徐々に圧迫された。
「止めろって言ってんだろ! おい、ババア!」マリは我を忘れて叫んだ。「いてぇな!」
 看護師はそれでも取っ手を回し続け、マリは、自分の頭がミシミシと音を立てるのを痛みとともに感じた。
「おい! 止めろよ! 止めろ!」マリは椅子に座ったまま、自由な足を動かし、看護師をしきりに蹴ろうとした。
 タン! タン! ストッキングをはいているだけのマリの足首に、医者がエアガンを二発撃ち込んだ。
「ギャーー!」マリは頭を挟まれ、腕や背中を押さえられたまま、痛みに耐え切れず叫んだ。
「診察室では静かに!」医者が子供を叱るような声で言った。
「先生、準備できました」看護師の一人が言った。
「じゃあ、撃ち込みますからね。いよいよだね」
「止めろよ! おい、ふざけんなよ!」マリはこれ以上ない大声で叫んだ。
「右耳からいく?」
 エアガンが右耳にあてられると、マリは、その銃口を、弾と自分の耳をさえぎるものが何も無いことをはっきりと感じた。頭が強く締め付けられているのも、改めてわかった。もう叫ぶ余裕も無く、こうなったからには全て耐え切ろうとするように目を閉じ、顔全体に力をこめた。
 そのまま、何秒か過ぎた。
「ほんとに撃たれちゃうと思った?」医者が言った。「お薬出しときますからね」
 頭を締め付けていた万力の取っ手を看護師が逆回転にまわし、マリの頭は取り外された。すぐさま、マリの額を看護師の一人がアルコールをつけたガーゼで乱暴に拭いた。狙いを定めずに力をこめるので、マリはまぶた越しに眼球を強く押し込まれ、体を引いたが、なおも押してくるので、椅子から転げ落ちた。
「お大事にね」看護師が口々に言った。
「次の方どうぞー」マリが立ち上がろうとする時、医者が外に向かって声をかけた。
 シャー! 看護師たちは四人くっつくようにして慌てて戻っていき、カーテンを閉めた。
 マリはやせ細った老人とすれ違うようにして、診察室を出た。
 マリが会社へ戻って処方された薬のカプセルを開けてみると、小さな紙が丸めて入っていた。開いてみると「疑ってんじゃねーよバカ」と書いてあった。