泳ぎ続けろ、いい加減にしろ

「ヤマト君!」ヤマトの彼女の木塚さんが、俺の隣で叫んだ。
 その日のヤマトの泳ぎは、明らかにいつものヤマトではなかった。なんとか決勝へ進んだものの、まず、いつものスイスイ感はゼロ。決勝でも、輝きは戻っていなかった。ヤマト、お前の平泳ぎはもっとカエルみたいだったはずだろ、一体どうしたんだ。やはり、足のケガが深刻なのか。
 ヤマトは最後の夏を目前にして、二段ベッドから落下して足を捻挫した。「弟に上を譲っておけばこんなことにはならなかったんだ」とヤマトは言い、更にこう続けた。「でも、そしたら弟が落下していただろう。だから、これでよかったんだ」別にそういうことにはならないだろう、と俺は思ったが、ヤマトの年の離れた弟への思いの深さを前にして、黙るしかなかった。決して言い訳はしないヤマト。それでこそ俺のライバルだ。
「兄ちゃん、頑張れ!」小学三年生のヤマトの弟が手作りの旗を振った。そこにはポケモンが描かれており、あんまりヤマトと関係なかった。
 しかし、そんな応援もむなしく、ヤマトはもう絶体絶命のピンチだった。100m平泳ぎなのに、トップと30m近く離されている。最下位だ。ヤマトの平泳ぎは、まるで流れるプールを逆に泳いで結局流されているかのようにトロかった。ふざけているようにも見えた。その時、俺は自然と立ち上がっていた。
「ヤマト、最後なのに、それで終わっちまうのかよ!」
 ごめん正直に言うと、俺はその時まで、ヤマトざまあみろという気持ちがどこかにあった。ライバルに対して、恥かけ、嫌われて別れろ、ウンコもらせ、と思っているようなところがあった。でも、その時、俺は腹の底から、名前のわからない内蔵の底の底から、ヤマトを応援する気持ちになっていた。心の底からウンコをもらせと思っていた俺が、心の底からフレーフレーという気持ちになっていたのだ。
 しかし、それでもヤマトのペースはてんで上がらなかった。他の泳者がゴールしても、ヤマトはようやく折り返したところだった。それでもヤマトは諦めていないらしく、ぷかぷかした動きで少しずつ進んでいた。
「ヤマト君、急いで! 急がないと、水が!」木塚さんが泣き叫ぶような声をあげた。
 確かに、もうプールの水が半分ほど無くなっていた。俺とヤマトも所属する「水をどんどん抜かれようと水泳部」の競技会では、スタートした瞬間、全ての排水溝を使って水を抜き始めるのだ。泳者は、水が無くなる前に泳ぎきらなければならない。
「ヤマト、急げ!」俺も精一杯声を出した。「水がなくなってきてる!」
「兄ちゃん! 水がやばいよ。水やばいんだって!」
「ヤマト君、プールがかなり浅いわ! 気をつけて!」
「兄ちゃんホントやばいんだよ。だから水やばいんだって!」
「ヤマト、急げ! もう、うちの風呂の水位ぐらいしかないぞ!」
「大事に、大事に!」
 しかし、外から俺たちがどれだけ繰り返しワイワイ言おうと、それを誰よりもわかっていたのは、水の減りや水位を肌で感じていたのは、ヤマト自身だっただろう。ヤマト、それが、それがうちの風呂の水位だ。俺は心の中でそう問いかけながら、もうかなり下にいるヤマトを見下ろしていた。
 一分後、会場にいる誰もが、水が無くなったプールの底でビチャビチャ平泳ぎの動きを続けているヤマトを目撃していた。ヤマトは必死で空気を蹴り、かいていた。その決して諦めない気色悪い姿を見て、俺は自然と声をかけていた。
「そうだヤマト、諦めるな! 泳ぎ続けろ!」
 俺の声が聞こえているのかヤマトは動き続けていたが、もう1ミリぐらいしか水が無くなった時、「いい加減にしろ」という意味のブザーが鳴り響いた。ヤマトは、係員によってブラシで片付けられた。突かれて飛ばされてお腹でクルクルまわりながら、ヤマトはそれでもまだ平泳ぎの動きを止めなかった。ヤマトの最後の夏が終わった。
 その日途中で帰った木塚さんはすぐにヤマトと別れ、俺が交際を申し込んだが、普通に断られた。