お腹筋肉、地獄アマリリス

 今週もまた、五年二組に音楽の時間がやってきた。
 音楽の波動キミ子先生は、ピアノを囲んで丸く置かれた椅子に座ったぼくたちをなめ回すように見た。そして、持ったフルートを片方の手の平に軽く叩きつけて歩き回りながら、
「お前ら今週もノコノコと音楽室までやって来たな、おい」
 と言った。
「よろしくお願いします!」
 ぼくたちは大きな声で言った。
「ぴーちくぱーちくうるせえよ、とっととリコーダーを持て」
 ぼくたちは慌ててリコーダーを取り出した。そして、怒られないうちに両手で構えた。その時だった。
「や、山本君! まさか、リコーダーを……」
 湯沢の声が聞こえた。ぼくたちはいっせいに山本君の方を見た。山本君はもはや諦めたか、椅子からずり落ち気味のさっぱりした表情で、
「やっちゃったよ」
 と言った。そしてどんどんずり落ちていき、とうとう、首だけで椅子に座っている状態になった。
「山本君、諦めるのはまだ早いよ!」
「貸し出し、貸し出しがあるかもしれないわ!」
「その座り方すごいね!」
「なに座り?」
 でも、いくら励ましの声をかけても何も変わらなかった。山本君はもう既に覚悟しているのだ。
「へへ、みんなありがとう。でも、ぼくにはわかるんだ。もう全てが終わりだって。貸し出しなんかないよ。あいつは悪魔だ。転校してきて二週間、今まで、楽しかった。まさか、あいつと同じ四月からこの学校にやって来たぼくが最初にやられるとはね」
 その時、先生が山本君に目をつけた。持っていたフルートを山本君に向け、
「お前、笛を忘れたな!」
 と叫んだ時、
「うっ、っひゃああああっす!」
 山本君の体は誰も手を触れていないのに凄い勢いで飛ばされていき、ベートーベンの写真が飾ってあるとこに背中から叩きつけられた。そして、床に落ちた。ぼくは体がブルブル震えるのを感じた。それでも、山本君、ああ山本君、と山本君の思い出を頭に思い浮かべた。みんなも思い浮かべているらしかった。でも、データが少ないので、全員、山本君の自己紹介の時のことを思い浮かべるしかなかった。
『栃木から来ました、山本信之です。お父さんはサラリーマンです。この教室ちょっと暑くないですか?』
 そしてぼくは続けざまに、思い出したように、山本君叫び声情けなっ、と思った。みんなも、山本君叫び声情けなっ、と思っている顔をしていた。山本君は音楽室の隅にうつ伏せに倒れていたけど、ぼくたちはいつまでもそんなうつ伏せのクラスメイトにぼやぼやかまっていたら怒られるので、山本君には悪いけど、演奏するための教科書をそそくさと準備した。ぼくの反対側では、麻生君が万全の笛態勢を整えようと、シューシューと唾抜きをしていた。ぼくがまずいと思うと、すぐに、
「シューシューシューシュー、いつまでリコーダーに固執しているんだ!」
 と先生が叫びたて、フルートを思いっきり麻生君に向けて投げた。フルートは、麻生君の天然パーマにからみついて、麻生君もろともひゅんひゅん回転しながら、開いていた窓から外に飛び出していった。
「ぐあああどうして!」「ごめんなさい!」
 用務員さんらしき断末魔の声と麻生君の謝る声が外から聞こえてきたけど、ぼくたちは余りの恐怖に黙っているしかなかった。普段から臆病者のぼくは、ここだけの話、おしっこをちびる寸前だった。誰かが、いいよ、と優しく声をかけていたならちびっていただろう。
「シューシューシュー太郎がいなくなったところで、はい、合唱を始める。教科書の19ページ。いや、その前に発声練習をするぞ。せいぜいお前らの根性と存在価値を見せてみろ」
 ぼくたちは急いでリコーダーをしまった。先生はぼくたちを立たせると、ピアノの前に座った。
「いいこと考えた。お前ら、アマリリス歌え。ハッハッハッハ言って歌うやつあるだろ。スタッカートだ。それを歌え。腹筋を意識して歌うんだ」
 ぼくたちは腹筋に力を入れて、ピアノの音に合わせてアマリリスをハッハで歌い始めた。
「ハッハ、ハッハ、ハッハッハー」
「腹筋のことだけ考えろ!」
 少し経つと、先生は、
「そのまま歌い続けろ!」
 と言いながら、ピアノを弾くのを止めて立ち上がり、ぼくたちの方にやって来た。そして、順番に、ぼくたちのお腹を触っていった。腹筋チェックだ。ぼくたちは、できる限り腹筋に力をこめた。ぼくも、先生が目の前に来た時、かつてない恐怖に胸の鼓動が16ビートを刻む中、秘められし腹筋のカチカチ力を解放した。先生はぼくの腹筋を一突きして通り過ぎていった。
 先生が全員の腹筋を触り終えた頃、歌もちょうど終わった。先生は、ピアノに肘をついた姿勢で、喋り始めた。
「なっちゃいない。お前らは全然なっちゃいない。もっとボディービルを見ろ。ただ、ただ! 二つ、いい腹筋もあった」
 先生が褒めるのはとても珍しいことなので、みんな、ホッとしたような表情を見せた。
「今から、その腹筋を殴る」
 ぼくたちは予期しない言葉に、身をこわばらせた。
「田中と富士野」
 驚いたことに、ぼくと、ぼくが思いを寄せる田中さんが呼ばれた。
「田中と富士野! 壇上に上がれ」
 ぼくと田中さんは慌てて立ち上がって、前に出て行き、並んで立った。
「いいかお前ら。いい腹筋は、先生がフルパワーで何度も何度も殴っても平気なんだ。いくら殴っても立ち上がってくる腹筋こそ、歌える腹筋だ。今からそれを証明してやる」
 先生は、みんなの方を向いて説明していた。ぼくと田中さんは、その後姿を見ていた。
「富士野くん」
 田中さんが、小さな声でぼくに言った。その声が可愛らしくて弱々しくて、それでいてセクシーで、ぼくはドキドキした。横目で見ると、田中さんの横顔は、つやつやの髪の毛が耳にかけられて首筋に落ちて、色の白い頬と、なんとなく鋭い感じの顎まで続くラインが印象的で、それでいてまたもセクシーだった。
「私、腹筋を殴られるの、怖い」
「ぼくが、ぼくが守ってあげるよ」
「富士野くん……」
「こんなことが許されるはずないよ。た、田中さんは……ぼくが守ってあげる。ぼくが、先生にビシッと言ってやるよ」
「ありがとう。実は私、三年生の時から、富士野くんのことが――」
「いいか! この、カスタネットを握りこんだ拳で思いきり殴っても、いい腹筋ならなんてことないんだ。ちょっと屁が出るぐらいだ。やってみせるから、色々なところをかっぽじってよく見て感じろ、いいな!」
「はい!」
 先生の声が途中で割り込んで、さらにこっちに近づいてきたので、ぼくは肝心なその先の言葉を聞けなかった。富士野くんのことが、富士野くんのことが……。頭でぐるぐる考えているうちに、先生はぼくの目の前までやって来た。そして、左手でぼくの右肩をつかんだ。ぼくの中に、恐怖が予定より早めに帰ってきた。くそう、怖い、くそう、みんな、無責任に元気のいい返事をしやがって。
 ぼくは、チラリと田中さんの方を見た。田中さんはおびえたように涙ぐんで、またも出ましたセクシーな瞳でぼくを見ていた。本日三度目のセクシーに、ぼくの心の中のなんと呼んでいいのかわからないが多分チンチンとつながっている部分から不思議な勇気が出て、ぼくは先生の方を振り返ることができた。鬼のような顔だった。言うんだ、今、言うんだ。
「先生!」
 ぼくは、震える、でも力強い声で叫んだ。
「うるせえ、口ごたえすると死ぬぞ! 殺すぞ!」
 先生は、歯をむいて目を血走らせ、すでに二億人殺している顔をしていた。ぼくの体は敵の要塞が爆発する一分前のようにガタガタ震えだし、涙があふれた。ここだけの話、二秒間ちびった。ぎりぎりだ。
「出席番号順だと、ぼくが……後です」
 気付くと、ぼくの口から、蚊のなくようなそんな台詞がすすり出ていた。先生は、ぼくの肩から手を離した。
「まずは女からだ!」
 先生はみんなの方を振り返り、拳を振り上げてアピールした。ぼくは、田中さんの方を見ることが出来なかった。本当に情けない。ぼくは本当に情けない奴だ。すいません。ぼくはじっと前を向いていた。みんな、ぼくのことを微妙な顔つきで見ていた。いつの間にかこっちを向いて倒れていた山本君だけが、ぼくに優しく微笑みかけていた。