鼻メガネ

 夜中にこっそり逃げ出したところをパジャマ姿で警察に囲まれたので、コウジはルパン三世みたいな気分になった。この場合、裸足で逃げ出すというのは褒め言葉になるとコウジは思っている。なぜなら、寝る時に靴下をはく奴は低血圧だから。
「手を上げろ!」数いる警官の中でも拡声器を所持している者が言った。
 あの男、こんなに沢山のポリスマンがいる中で拡声器を担当しているとは、どんな奴なんだ。思い出せ、小学校の防災訓練で拡声器を誰が持っていたか。教頭先生だ。ということはあいつ、部長クラス。相当の頑張り屋さん、仕事人間だな。コウジは枕を抱えたまま感心した。
 下っ端ポリスたちはコウジに向けて銃を構えている。撃鉄を起こす音が、三十人分聞こえた。この場合、ルパンならどうするか。関西弁で言うならば、どないするん、ルパンどないするん。コウジはルパン三世の映画もアニメもちゃんと見たことがなかったが、これまで通り、なんとなくのイメージで考えた。頭の中は、藤子ちゃんが裸で走っているエンディングが流れている。いっつもふざけているルパンは、こうした緊迫した場面、一体どうしていたか。
「どうした、手を上げろ!」
「まだふざけてる」そう言うとコウジは、胸ポケットから取り出した鼻メガネをかけた。「ギリギリまでふざけてる」
 警察官たちは、鼻メガネとはいえ何か仕掛けがあるに違いないと身構えた。しかし、何もないらしいことにすぐ気付いた。
「お前、さては!」と拡声器の男が言った。「ふざけてるな!」
 コウジはニヤリと笑った。そうさ、ふざけてるのさ。ルパンはギリまでふざけてた。お相撲さんだって、時間いっぱいまでは塩投げ放題だぜ。
「勝手に動くな! 手を上げろ!」
 コウジは制止の声が聞こえないという態度で、非常にでかいヘッドフォンを装着した。コウジの体には警察が用意したスポットライトが浴びせられていたが、おかげでシルエットがサザエさんみたいになった。シルエットがサザエさんというと、これは完全にふざけている。
 拡声器の男は、シルエットがサザエさんみたいになったことに気付いたが、わざわざ拡声器でそのことを言うのもどうかと思ったので、グッと我慢した。こういうことはよくあるが、この時、現場に居合わせたほとんどの警官がサザエさんに気付いていたので、黙っていたのは正解といえる。
「手を上げろ! 従わないと撃つぞ!」拡声器からは、思っていること(サザエさん)とは裏腹に真面目な台詞が響いた。
 密閉されたコウジの耳にも、その声は聞こえていた。しかし、今ではもうルパンでは飽き足らずにモンキーパンチのことさえ考え始めているコウジは屈さない。まだだ、まだふざけれる。ここでビビってシリアスになっているようじゃ、アニメ化は難しい。頑張れよ。アニメ化されるんだろ。負けるなよ。ふざけなよ。だいじょぶだよ。ふざけちゃいなよ。
 コウジは、ポケットからハイパーヨーヨーを取り出し、挑発するように、鼻メガネの鼻部分の横でカッコよく構えた。
「最後の忠告だ!」拡声器から差し迫った、一際大きな声が飛び出した。「手を上げろ!」
 それから、撃鉄を起こす音が五十人分聞こえた。コウジはヘッドフォン越しにはっきりと聞いた。実は、ヘッドフォンはどこにも接続されていなかった。逆光で見えないが、今、かなりの警官が自分に銃口を向けているに違いない。コウジは思わず枕をきつく抱きしめた。
 しかし、コウジはそれでも余裕の表情を見せつつ、ハイパーヨーヨーをしようと手を逆手に構えた。
ハイパーヨーヨーしたら、その瞬間に撃つ! 構え!」拡声器の男が片手を上げた。「本当だぞ!」
 撃鉄を起こす音が、三百人分聞こえた。
 拡声器を持った男は少し高い場所にいたが、四百人近い警官が銃を構えている壮観な眺めを見て、後ろの方意味ねえよ、と思いながらも力強くうなずいた。そして、コウジの方を振り返った。
 するといつの間にか、コウジはヘッドフォンを外して首にかけ、手を上げていた。足元に枕が落ちており、ハイパーヨーヨーが顔の前でブラブラ揺れていた。鼻メガネは、かけていること自体忘れていた。
「だって、死んじゃうだろ」コウジはルパンに向かって呟いた。