卒論完成直前、グレる

 よりにもよって卒論完成直前、船山タケシはグレた。
「タケシくーん、降りて来いよー!」同じゼミの男が言った。
「卒論を完成させるのよ、タケシくん!」女も高い声を出す。
 タケシは、普段立ち入り禁止になっている大学の学部棟の屋上までバイクを持ち出して、センタースタンドを出したまま、淵のギリギリのところでバイクにまたがっていた。みんなが、少し離れてそれを取り巻いている。
「うるせえ、もうウンザリなんだよ! パラリラパラリラ!」
 タケシは右手でバイクをブンブンさせた。しかし、免許も原付までだし、バイクについての知識はバイクに興味のある中学生にも負ける程度なのでエンジンをかけることすら出来ておらず、手首をブンブンさせるフルスロットルの様子だけがむなしく見えた。
「タケシくん、止めるんだ! 浅い知識でグレるのはよせ!」
「人のバイクだろそれ!」
「それに、パラリラってあれは人が言ってるんじゃないのよ!」
「そんなに動くと、まっさかさまに転落するぞ!」
 みんなは、降りて来い、来いというジェスチャーをしながら、タケシに声をかけた。
「うるせえ、俺はバイクに青春を賭けるんだ! 卒論なんてウンザリだ! シンナー持ってこい!」
「そんなこと言うなよ、君の卒論は中間発表でもなかなかのものだったじゃないか」
「なかなかだと!」
 タケシはみんなの方を向いて叫んだ。真っ黒いグラサンにリーゼントというタケシだが、グラサンはダイソーだし、リーゼントはもう既にオールバックの様相を呈していた。グラサンはレンズの部分がちょっと大きすぎた。ダイソーのグラサンコーナーでは試しがけもオーケーで小さな鏡も設置されていたが、引っ込み思案でシャイなタケシはグラサンのかけ外しをすることが出来なかったのだ。その上、グラサンだけ買うのは恥ずかしいので、カモフラージュするためにいらないものもずいぶん買った。カチューシャとか、プラスチックの小箱とか、ドアストッパーとか、洗濯機に入れるゴムの球みたいな奴とか。それを一緒に入れて洗濯すると、汚れが落ちやすいという触れ込みだ。
「俺のがなかなかって、お前らの卒論なんて、全部クソじゃねえか! 頑張っていたのは俺だけだ! お前らはいつもそうだ、去年もそう。バイトに精を出して、すぐ飲み会して、抜け目無く就職活動して、隙を見たらすぐスキーに行きやがって!」
 タケシはまた進行しないバイクの進行方向を向いて、前かがみになった。
「大学生ってそういうものだろ!」
「そうやって楽しまないと、楽しめるのは今だけなんだよ!」
「それに、最近はスキーじゃなくて、ボードに行くって言うのよ!」
「そのグラサン、かっこ悪いぞ! かっこ悪いタイプのグラサンだぞ!」
 みんなは、今ではポケットに手を突っ込んだまま、タケシに声をかけていた。そろそろ三月になると言ってもこの寒さだ。
「すぐにノートの貸し借りコピーをしやがって! ちゃんと勉強しろよ! 大体、お前らの名前もうろ覚えなんだよ、こっちは! くん付けで呼びやがって! ポリ公め!」
 名前を覚えてもらっていない側としては答えにくいことをタケシが言った時、みんなは少し黙った。別にタケシに名前を覚えてもらっていないからなんだということもないが、そんなこと言われるとどういうわけか、覚えてるこっちが負けたような気がするのだ。
「ブンブンブンブン、ブーンウーン!」
 沈黙してしまうと、タケシのバイク音声がはっきりと聞こえた。
 その時、屋上のドアが開かれた。その音にみんなが振り返ると、そこにはゼミの担当教授がいた。
オオサンショウウオ教授!」
 みんなが助けを求めるように名を言った。
「みんな、おはよう。船山がグレたらしいじゃないか。話は聞いたよ。事務の人から聞いたよ。ここは先生にまかせなさい。先生だって、伊達に両生類じゃない」
 オオサンショウウオ教授はみんなのところまで近づいてきた。オオサンショウウオ教授が通ったあとは濡れてヌメっていた。みんな教授のもとに駆け寄った。
「タケシくんの奴、あんな慣れないことしてグレてるんです。人のバイクなんです」
「卒論がウンザリだとか、バイクに賭けた青春とか言ってるんです」
「あと、俺たちの大学生活がたるんでるとか、卒論もクソだとか」
「自分の卒論が凄いとか暗に言ってるんです」
「そのくせ、俺たちがボードに行くのをひがんじゃって、みっともない」
「しかも、未だにスキーとか言ってるんですよ」
「ボードやったことないですよ、あの言い方は」
「バイトするなとか勉強しろとか、親のスネかじってるくせに偉そうに言ってきて」
「しかもグラサンがかっこ悪いんですよ」
「なにしろでかいんです、レンズがでかいんです」
「絶対安いやつですよ。もとからちょっとくもってるような、百円ショップのやつです」
「就職活動もしないで、院に行くとかも決めてないで、あんなことばっかりしてるんです」
「人の悪口まで言って」
「あれは現実逃避以外の何物でもないですよ」
「ああいう奴がニートになるんだ」
「私たちの名前も覚えていないって言うし、三年間同じゼミでそれは人としてどうなのかなって思います」
 オオサンショウウオ教授は、うんうんと頷いて聞いていた。
「お前ら、ここぞとばかりかよ!」
 タケシが叫んだ。みんなが驚いて振り向くと、タケシはもうグラサンをかけていなかった。気にしたのだ。
「船山、自分以外はみんなバカの時代か。『他人を見下す若者たち』か」
 オオサンショウウオ教授は読んだことのない新書の題名から話を始めた。
「井の中の蛙大海を知らず。そういう諺があるな」
「俺はカエルじゃない!」
「先生は言いたいのはそういうことじゃない。先生は、井、だけで井戸と読ませるのはどうなんだろうなってことを言いたいんだ。そのやり方だと、井戸端会議は井端会議になるが、それじゃあまるで、中日の井端について話し合う会議みたいじゃないか」
「ふざけないでくれ! もう何も俺に言わないでくれ! パラリラパラリラ!」
「船山」
「パラリラパラリラ!」
「落ち着くんだ船山。それに、それは本来、口で言うもんじゃない」
 タケシはパラリラを止めた。最初に指摘された時から、気にしていたのだ。それでも都合が悪くなるとパラリラパラリラしてしまう弱さ。タケシの弱さ。
「先生は、ふざけてなんかいないぞ。お前は、自分の感覚だけで生きているんだ。井だけで井戸だと思わせて、わからない奴のことは知ったことじゃない、それが当たり前だと思ってるんだ。そういう傲慢な考えで生きてるんだ。お前の世界には、自分ひとりしかいない。そういう意味と、井の中の蛙大海を知らずというもともとの意味、二重の意味で、ダブルミーニングで、お前は井の中の蛙。言わば、井戸の中の井の中の蛙なんだ」
「……」
「そして、お前が『井の中の蛙』なら、先生はさしずめ『清流のせせらぎのオオサンショウウオ』だ」
「……」
「どうだ。『井の中の蛙』と『清流のせせらぎのオオサンショウウオ』、どっちが凄いんだ。どっちがより優雅な、スペシャルな存在なんだ。珍しいんだ」
「……」
「先生は、特別天然記念物だぞ。国の」
「……」
「ウィキペディアにも載ってるぞ」
「……」
「写真つきだよ」
「……」
「正直、カエルなんか食べちゃうよ。主に、食べちゃうよ」
「……」
 圧倒的だ、とみんなは思った。ここまで完膚なきまでにやられたら、カエル風情では、ケロリンの音も出ないだろう。
「言うんだ。カエルとオオサンショウウオ、どっちが偉いんだ。どっちが凄いんだ」
「……確かに俺はカエルで、先生はオオサンショウウオだ。でも、オオサンショウウオはパッと見、オタマジャクシに似てる! オタマジャクシはカエルの子供だ!」
 周りで見ていたみんなはタケシの屁理屈に笑いそうになったが、オオサンショウウオ教授はぴたりと動きを止めた。それから一言も喋らなかった。変に思ったゼミ生が駆け寄ると、オオサンショウウオなのでよくわからないが、心ここにあらずという感じにも見えた。このままでは乾いてしまう。触るのがいやなので網を持ってきてすくおうとしたが、上手くすくえなかったので、壁のところまで網で押して行き、壁と挟みこむようにして網にねじこみ、ニ、三回ゆすぶっておさめた。教授は研究室の水槽に運ばれたが、終日ぐったりしていた。気にしていたのだ。