多々木先生

 津本先輩は「お前ら絶対殴られるよ」と言った。だから僕たちは絶対に殴られると覚悟していたのに、多々木先生は穏やかな顔を見せて僕たちを自分の車に乗せた。
 多々木先生は僕たちをラーメン屋まで連れて行った。僕たちは車内では何か喋れる雰囲気でないと思っていたのに、R-1ぐらんぷりの話で盛り上がった。みんなでああだこうだ喋ったあと僕が「世界のナベアツが一番おもしろかったと思う」と言ったら、多々木先生が真っ直ぐ前を向いたまま、「先生もそう思う。あの中なら、ネタの発想と、『三越の三階』、『知らん』と『もう知らん』、だけであげていい。なだぎ武のネタはあるあるネタが発想の基盤であり、それを披露するためのネタでしかない。そのためにそれ以上のものにはなり得ない。動きが加わろうともそれは一緒だ。ネタの中でネタをすることでしかない。あの高校生は、ちゃんとしたネタをするおもしろい高校生であり、それを超越した存在ではないんだ。ほとんどのネタが、そういうネタでしかない。そこには新しいと言うより、世界が無い。ネタの中という共通の世界観でネタをやっているだけだ。それでいいならそれでいいのかも知れないが……先生はそうは思わない。ピン芸人というより、ほとんどの芸人のネタがそうだから、それらはほとんどが消費するものでしかない」と難しいことを言った。「鳥居みゆきはわかりやすい狂気でしかないのが、先生には気になる。つまり、あれは概念としての狂気の発現だ。つまり、狂った殺人犯を演じる俳優が首を傾けて目を剥く種類のものでしかない。ネタは理性的だが、狂気という態度の上で披露されるために、ほとんどの一般人には全てが狂気に見える、そういうイメージを与えられる。理性的なものであるショートコントの中身だけでもそれほど質が低いものではないから、狂気が無くともある程度は認められていただろうが、わかりやすく言えば、鳥居みゆきは、ネタを狂気的振る舞いで演じる、というネタなんだ。それは狂気そのものではない。あれが演技なのは誰にだってわかっているという意味ではなく、厳密な意味で狂気ではないということだ。それは狂気のイメージでしかないからこそ、全ての受け手に狂気だと伝わるんだ。今までは、そんな次元だとしても、それをキャラクターとして選択する芸人がいなかった。狂気的なものを創出したかも知れないと言えるのは、芸人では松本人志だけだろう。一般の視点から考えれば、キャシー塚本は鳥居みゆきよりも『狂気らしく』は見えないだろう。それはあれが、鳥居みゆきが演じる狂気よりも、実際の狂気に近いものだからだ。見る側としては、そういうものを見たいとは思わないか。それが、本当におもしろいということじゃないか。笑えるを超えて、おもしろいものなんじゃないか。それを突き詰めて欲しいとは、お前たち、思わないか。世間の奴らは見る目がないからそんなこと考える由もなく満足しているんだ。そのために、笑いを批評しようと思っても、番組の雰囲気がどうの、大会の体制がどうの、出来レースだなんだと本質でない外部状況について糞の役にも立たないことをああだこうだ言って、満足していることにしかならないんだ。それが笑いについて考えていると言えるか? そういうふうに先生は思うんだ。ネタの可能性を広げることを新しいとか言っているうちは、何も始まらないんだよ」それまでは盛り上がっていたけど、それからは僕たちの誰も発言することができなかった。にぎやかなラジオMCの声だけが響いていた。多々木先生の言っていることは、僕たちには何一つわからなかった。長々とよくわからないことを喋る先生が怖かった。僕たちは同じR-1ぐらんぷりについて話していたはずなのに。
 ラーメン屋に入ると、多々木先生が「なんでも好きなものを食べろ」と言った。僕たちは、そうは言ってもあんまり高いものを頼むと悪いと思ったのに、田辺の奴はネギチャーシューにギョウザを頼んで、後からさらにギョウザ一皿追加した。多々木先生はただ、「田辺はギョウザが好きか」とだけ言った。田辺は「うん」と返事をした。そろそろ店を出るかという時に、多々木先生はもう一度「田辺はギョウザが好きか」と言った。田辺は同じことを聞かれて迷ったのか、返事をしなかった。多々木先生も気にしていない様子で、店のテレビを見上げていた。
 僕たちが店を出た時、多々木先生は「お前ら一列に並べ」と言った。やっぱり先輩の言ったとおり殴られるんだ、と僕たちは思った。頬をぶたれると覚悟したのに、多々木先生は口に指をあてて、「今日のことは内緒だぞ」と言った。「生徒におごったとかバレると、人気取りとかうるさいこと言う人もいるんだ」「わかりました、先生」と僕たちは言った。僕たちと先生は友達なんだと思った。
 それから七年後、卒業してからは五年後になるけれど、僕たちは同窓会に行った。広い座敷で、とても盛り上がった。多々木先生は一時間ほどしてから到着した。僕たちは再会を楽しみにしていたのに、多々木先生は座敷に現れるなり、僕たちを殴った。それから先生は、田辺をもう一発殴り、「ギョウザまで頼んで、図々しいんだよ」と言った。さらに、「なんで無視したんだよ。なんで無視すんだよ」と続けて田辺の肩を殴った。僕たちはそれぞれ殴られた場所を押さえながら、先生を黙って見つめていた。「だから言っただろ」いつの間にかそこにいた津本先輩が、座敷の敷居に立って襖に肘をつき、ニヤニヤ笑ってこっちを見ていた。