オサムさん高度3000メートル

 高度3000メートルに二台のヘリコプターが空中停止している。そして、その二つのヘリを一本の綱が結んでいる。それが現在、メインのテレビカメラに映し出されている映像である。ということは、テレビカメラの分、ヘリコプターは三台あるのではないか。その通り、三台だ。
 ロープがくっついたヘリコプターの一方には、オサムさんとマネージャーの磯貝が乗っていた。ヘリコプターの中は意外と静かである、というのが筆者のヘリに対するイメージだ。
「オサムさん、もう、いつでも行っていいみたいですよ」と磯貝が声をかけた。
 オサムさんは窓の外を見ていたが、磯貝の方に振り向いた。
「そんな簡単に言うなよ。怖すぎだろ。外見てるだけで怖すぎだろ」
 今回、オサムさんが挑戦するのは『高度3000メートル綱渡り〜ヘリ・オア・ヘル〜』である。オサムさんはもう一度、空中を渡っている綱を見つめた。
「ヘリ・オア・ヘルじゃねえよ。冗談言ってる場合じゃねえだろ。常識的に考えて」とオサムさんは呟いた。
「オサムさん、色んなことに挑戦して、やってのけてきたじゃないですか。いけますって」
「弁当食うの止めろよ」
 オサムさんが振り向いた時、磯貝は座席に座って弁当を食べていたのだった。あえて見ていない時に指摘するのは、オサムさん流の心遣いであり、マネージャーを指導する上でのポリシーである。
「そういうのされると、イヤな気持ちになるだろ」
「すいません」と磯貝は口に食べ物が詰まった声で言いながら、弁当にふたをしているらしく音をたてた。
 オサムさんはなおも綱を見ていた。綱はこうして見てみると細く、時々、ふとした揺れの影響で視界に捉えられなくなったりしながら、また視線の先に現れた。
「でもオサムさん、チンパンジーなんだからいけますって。大丈夫ですって」
 確かに、オサムさんはチンパンジーだった。
「チンパンジーの限界なんか超えてるだろ。俺みたいなチンパンジーがウホウホできる限界の、少なくとも2500メートル以上は上空なんだよ、ここはよ」
「普段どおりにやれば大丈夫じゃないですか。どうして、木の上で出来ることがヘリだと出来ないんですか」
「お前な」とオサムさんは言った。「ふざけんなよ」
「ふざけてませんよ」
「大体、なんていうか、チンパンジーをなめすぎだろ、人間全体がな。例えばな、おい、見ろよ。向こうのヘリ、見ろ。あそこによ、バナナがいっぱい積んであるんだよ。山盛りだよお前。後ろの座席、全部バナナじゃねえか。たどり着いてもどこに乗るんだよ。しかもあの、木になってるままの、半端じゃねえごっそり感のやつをそのまんま乗せてんだよ。こっから見えるんだよ。バカにしてんだろ。お前らは、俺をバカにしてる」
「考えすぎですってオサムさん。人間がやるとしたら、向こうにハンバーグとかいっぱい用意しますよ、普通に考えて。知りませんけど」
「絶対そんなことしねえよ。水とかあるぐらいだよ、カロリーメイトとかよ。そんぐらいだよ。あるとしてもな。大体、それなら俺もバナナよりハンバーグがいいよ。あんなにバナナいらねえだろ。常識的に考えて。たどり着いたチンパンジーがバナナにむしゃぶりつく映像が欲しいんだろ、わかるもん。お前らはそうなんだろ」
「被害妄想ですって。オサムさんのために用意してるんですから。ありがたくむしゃぶりつけばいいじゃないですか。ご好意なんですから。着いたら、ちゃんと、むしゃぶりついてくださいよ。そもそもオサムさん、バナナ嫌いじゃないくせに。ハンバーグよりバナナの方が好きじゃないですか」
 オサムさんは不機嫌になって答えず、向こうのヘリの中を見るのも止めた。窓のところに取り付けてあるパイプを手でつかみ、綱だけを見つめた。先に行くに連れて、その線はかすんでいった。反対側のヘリの足のところまでいくと、そこに結び付けられているはずの綱はまったく見えなかった。
「おい磯貝」とオサムさんがそのままの体勢で外を見ながら言った。
「なんですか」
「お前、弁当また開けてるだろ」
「開けてません」と磯貝は言った。
「嘘つけ。匂いでわかんだよ、完全に、あれ、なんかチクワの揚げたやつの匂いがしてんだよ。今、フワッときたんだよ。俺が振り返るまでに、弁当しまっておけよ。そうじゃないと、お前、何するかわかんねえぞ」
「弁当なんか開けてませんよ。でもね、オサムさん、お言葉ですけど、そんな人の弁当にウダウダこだわってる場合じゃないですよ、早くしないとダメですって。カメラ回ってるんですから」
「だから、精神集中のためにチクワの揚げたやつの匂いがしてると迷惑なんだろ」
「チクワの磯辺揚げって言うんですよ」
「うるせえよ、なんでもいいよ。匂いが迷惑なんだよ」
「だから弁当なんか食べてませんし、そんなのオサムさんの言い訳ですよ。チンパンジーって、くっさいドリアン持ってヒョイヒョイ木の上行ったりもするんでしょ。知りませんけど」
「お前、完全にバカにしてるよな」
「そんなことないですって」
「もういい。イライラする。喋るな黙ってろ」とオサムさんは手だけを後ろへ、磯貝を制するようにして突き出した。「弁当も関係ないからもういい、食うならそのまま食ってろ。もう勝手にしろ」
「だから食べてないって言ってるでしょ。つうかなんだ、やっぱ関係ないんじゃないですか」
 オサムさんは磯貝を無視した。
 そして、そんな些事を振り切って、コンセントレーションを高めていく。それまでは二本足で立ったまま外を見つめていたが、外の綱を見据えたまま両手をついた。腰を上げ、尻を突き出し、両手両足を使って綱をわたるイメージを浮かべる。
「オサムさん、弁当食ってるんで、こっちにケツ向けんの止めてもらっていいですか」
 サル系の動物タレントでは珍しく服を着ないオサムさんは、振り返って磯貝を見た。オサムさんは怒ってはいなかった。その代わり、とても悲しい表情をしていた。こんなに悲しげな顔は誰も見たことがなかった。