「ほんとにね、怠けているのよ、この子は」
「怠けている? そんなことはない。怠けているのはこの子ではない」
「怠けているのは誰だというのよ」
「だ、だれだか知らん。そ、それはだ、だれだか知らんさ」
 僕は怒りで身体がふるえてきて物がいえなかった。
 僕は息子を庭へ連れ出した。
「ボールを受けるのだぞ。なるべく右手を使う。よ、ようしゃしないからな」
 僕は息子が嬉々としてボールを持って庭へとんできたのを見ると、自分が何をしでかすか分っていた。僕はそういう時に、自分がこの息子の父ではなく、隣家のおじさんであって、崖の上からでも眺めていて、美しい情景を見て、涙を流す立場にあったらどんなにいいだろうと思った。

――小島信夫「微笑」『アメリカン・スクール』新潮文庫 P218
※息子は小児麻痺です。



 僕の息子が、いたわられ抱きかかえられるようにして水の中に入れられるのだ、産湯を使わせるようにして。息子の係りの補導員(それは学生だった)が息子より先に水の中に入らなかったというので、
「だめじゃないか」
 とA氏から叱られた。そばにいた僕は思わず何か弁護したくなったが、A氏の背中が僕を無視するようにさえぎってしまった。
 僕は何も云わなくてよかったと思ったが、息子が水の中で甦ったようにうきうきし、笑いながらぴょんぴょんとびあがり、みにくいあどけない顔を見せているのを見ると、
(いい気になるでない。お前は病気なんだぞ)
 と声をかけたくなる。僕はこれ以上見ている自分の心の処置に困るので、目をつぶってじっとしているが、それでも歓声は聞えてくる。耳をおさえるわけにも行かず、頭をスタンドの下に垂れてじっとしていると、
「お父さん、お父さん。この人のお父さん」
 僕はA氏によばれて、あたふたとタオルを持って水際まで走って行った。
「お父さん、大事にしてくれるよ」
「アルバイトなんだ」
「アルバイトって何?」
 僕は息子にそうきかれて、自分の言葉にびっくりしてしまった。

――小島信夫「微笑」『アメリカン・スクール』新潮文庫 P221



僕は勝海舟という人が、わりあい好きなんです。福沢が『痩せ我慢の説』を書いたとき、勝は「毀誉は他人の主張、行蔵は我に存す」というようなことを言った。自分のやったことはやったことで、それに対する評判は人の主張だという。したがって、「我にあずからず、我に関せずと在候」と言っている。知ったことではないというのでしょう。これは明快なことだと思う。保守とか進歩とかは他人の主張であって、私にはどうでもいいことのような気がする。そういうことは分類にすぎないのですから、それにとらわれるのは実にバカバカしいことでね。
私はね、人間の好みがあるとすれば、その人がどれくらい柔らかい心を持っているかということ。たとえば吉本さんは、非常にこわい論争家ということになっている。世間で僕も論争家のはしくれのように考えているらしい。しかし僕は自分を論争家だと思ったこともないし、あなたを論争家だという理由で尊敬したこともない。あなたのお書きになったものには、しばしば共感するけれども、それはつまり、いがを一つむくとクrがあって、クリをもう一つむいてみると、ホクホクした実がある。そういう柔らかさがあなたの核心にあることを感じるからです。そういうものがほの見えるから信頼できる。

――江藤淳「文学と思想」『吉本隆明対談選』講談社文芸文庫 P34



 僕は時代と個人とのあいだは、直線的な糸でつながっていないような気がするのです。時代と個人とのあいだの糸のつながり方というのは大変屈折したものだと思う。みんなはつながっていると思いたいのでしょう。が、それはみながそれぐらい孤独だからというにすぎない。みんなさみしいような気持があるものだから、自分はつながっているとか、つながらなければならないとか思って、そこに糸が一本はってあると錯覚しているだけです。実は時代と個人との関係は、そんな単純なものではないでしょう。
 つまり、これは非常に個人的な体験になってしまうけれども、僕はちょっとした外科手術を受けて都心の病院で寝ていたのですが、術後ウツラウツラしていた。そうすると国会議事堂が近いので、外を日韓反対とか言って通って行くのです。こっちは意識が減弱しているせいか知らないけれども、それが自動車の排気ガスの音のようなものにきこえた。時代と個人の関係はそういうものであり得るわけですね。個人と時代とのあいだには、いろいろなクッションがある。個人は、そういうふうにしか存在できないのだということを、人々がもうすこし肝に銘じたら、かえって時代とのかかわり方は深くなると思う。僕は個人と時代が直結していなければならないという要請が、現に直結しているという錯覚を生んでいるような気がする。

――江藤淳「文学と思想」『吉本隆明対談選』講談社文芸文庫 P39



文学作品は、どうせ個々の作家が書くのですが、ある個人の作家がいい作品を書くには、少なくともその時代に対して、風俗の表面でないところで、どっか通わせるっていいますか、本質的に関わっています。この関わり方が、より本質的であるほど、それはいい関わり方であるし、またいい作品はいい作品だ、文学は永遠普遍にいいものはいいんだっていうものと、一番よく一致するのではないでしょうか。一番よく一致した作品は、必ずその作者が、自分の時代とは、風俗的な意味でなくても、本質的な意味で一番よく関わっている。
 だからいいものはいい、そういう本質的な歴史の中にちゃんと入って行くということなんじゃないでしょうか。

――吉本隆明「素人の時代」『吉本隆明対談選』講談社文芸文庫 P290



二人で家に来て食事をしていった夜、ハンフリーはほとんど喋らなかった。ハンフリーは私の向かい側の黄色いアームチェアにすわった。ハンフリーは確か黄色いアームチェアのような家具が好きだって言ってた。ハンフリーはどんなつもりでああ言ったんだろう? なんで私はハンフリーに黄色いアームチェアが好きな理由を話させなかったんだろう? なんで話したかもしれないことを、話させないまま帰してしまったんだろう? ハンフリーはなぜあんなに長いあいだ何にも言わないですわってたんだろう? なぜ、私たちから離れて、ホールで乗合バスのことを喋ってたんだろう?

――ヴァージニア・ウルフ「同情」『ヴァージニア・ウルフ短篇集』西崎憲訳 ちくま文庫 P36