不倫

 二月某日、飯田ケンイチの妻エミコは「私、不倫をしているの」と打ち明けた。不倫相手と三人で話し合うべく、ケンイチはエミコとともに待ち合わせの喫茶店へと向かった。そこには茶色と黒の、毛の硬い中型の雑種犬が待っていた。


「これは御主人、ようこそいらっしゃいました。えー、このたびはこんなややこしいことになりまして、御主人の気持ちを慮りますと、私としても申し訳ない気持ちが無いと言えば嘘になる次第でございます。エミコさんもこちらへ……とりあえず、ご主人の隣へお座りください」
「それで、どうしろと言うんだ」
「ええ、遠回りをしてもしょうがないと申しますか、世間では急がば回れなどと言われるそうでございますけれども、私はここで単刀直入、私の思いの丈、要求を御主人にぶつけ、我々にまつわる問題の解決を図りたいというようなことを考えておりまして、さもありなんとご理解していただければと存じます」
「わかった」
「ありがとうございます。では、いや、飲み物は何を召し上がりますか」
「そんなことはどうでもいい」
「いえ御主人、言ったそばからいきなりの脱線と思われるかも知れませんが、我々がこうした喫茶店で話をする以上は注文をしないことにはこの場も提供していただけないのでございます。ですから、私もこうして飲みもしないコーヒーを誂えている次第でございまして。何も私、コーヒー代の400円が惜しいとは申しませんが、手付かずのコーヒーを考えると、申し訳ないなと考えるのでございます」
「なら飲めるものを頼んだらいい」
「しかし御主人、考えてもみてください。これからする話は十中八九、深刻なものにならざるを得ないという性格であることは子供にもわかるというものでございます。そのテーブルにオレンジジュースや牛乳が置いてあるというのは、それだけで何やら居心地の悪いものがあります。それを更に、私が一心不乱にピチャピチャとなめる、それは犬ですからしょうがないのでございますが、そういうことになりますと、私としても誠に遺憾、恥を忍ぶような気持ちでございまして。それなら我慢をすればいい話ではございますが、飲み物を飲みたくなる気持ちに嘘はつけないのでございます。ましてや我々みたいな犬というものは、いつ食えるやわからぬと遺伝子の方に植えつけられてございますから、目の前にあるものはとりあえず腹が膨れるまでいただこうとするものでして、生来我慢強い方である私でも、気が散って話が上の空となる可能性も捨て切れません。そうなれば、何よりこれが一番の問題ですが、御主人の機嫌も損ねかねないと思われますし、まともな話はできません。それは御主人、いかがなものかと私は考えるのでございます」
「わかった。なら私もコーヒーをもらおう。お前はどうする」
「私も……コーヒーをいただきます……」
「すいません、注文よろしいですか。……コーヒーを二つ、こちら、お二人へ。ええ、お願いします」
「じゃあ、早速本題に入ってもらおうか」
「ええ、承知しましてございます。ではお話しさせていただきます。これは私、いや我々が頭寄せ合って考えた、我々からの結論であり、そしてエミコさんの意見でございます。単刀直入に申し上げると、えー、離婚していただきたいのです」
「そんなこと、はいそうですか、と言えるものか」
「それはそうでございます。しかし、これはエミコさんの願いであり、そういう意味では私には関係の無いことです」
「そんなはずあるか。お前らが不倫しているんだろう!」
「御主人、声を荒げるのは止めましょう。そのために、ここで話をしているんですから。私とエミコさんが不倫しているというのは胸を張れるものではありません、それはもちろんそうでございます。しかし、私がご主人と離婚するわけではありません、離婚するのはお二人でございます。エミコさんの心が御主人から離れているのでは、もはや結婚生活を送るのは難しいのではないですか。そういう意味で、私という存在ばかりに留意しながら、離婚なんかできないと首を横に振るのは、お門違いといった面も無きにしもあらずといったところで」
「そんなはずあるか。お前がいるからこんなことになっているんだ」
「エミコさんは、御主人といることに喜びをもはや見出せないのでございます。申し上げにくいことですが、もちろん我々もそうした行為をしているわけでして。濁してもしょうがありませんから、はっきり言えば肉体関係があるのであり、そうですね……セックスをしているのでございます」
「交尾だろう、あんたは犬なんだから」
「しかし、エミコさんは人間でありますし、そうでなくとも、見ていただければ理解していただけると思いますが、あの情熱的な交わりを交尾などという無味乾燥動物的な言葉で一括りにしてしまうのはあまりにも味気ないのではないかと考えるのでございます。それはセックスと言ってしまっても同じですが、私としては、ある神聖な、生命の根源的行動と位置づけているのでございます。そうでなければあんなにも燃える説明がつかないのではと考える次第で」
「そんな話が何の関係があるんだ」
「関係はありましてでございます。便宜上、セックスと申しますけれども、御主人とのセックスでは、エミコさんは絶頂に達したことがないということを伝え聞いております。私と交わることで、初めてエクスタシーというものを知った、人生観が変わるような快楽を得たと聞いております。あ、きましたね」
「コーヒーになります」
「こちらへ」
「どうも」
「……」
「……」
「……」
「私と交わることで、エミコさんにとっては未知のものであった本当の快楽を得たというわけです」
「犬が何を言うんだ」
「確かに私は犬でございます。しかし、何事にもテクニックを重んじるこんな私でして、セックスも然り、相手方を喜ばせることでピロートークも弾むというものでございます。手前みそではございますが、そこいらの犬猫と一緒にされては困りますし、セックスの妙というものは生きとし生けるものに共通のものという持論もあるゆえ、このテクニックが人間相手に通じないということも無いと考えるわけでございます。これまでお天道様の下で積んできました経験がそれを裏打ちしております」
「……」
「私のセックス、交尾とおっしゃるならそれでかまいませんけども、私の交尾と御主人のセックス、これを比較してみますと、そのセックスで生じる音、セックスサウンドとでも申しますか、これは同じボリュ−ムではとても聞けるものではないのではないかと思うことでして」
「どういうことだそれは」
「ええつまり、御主人がなさるところのまぐわいが発する音、喘ぎ声や肉のぶつかり合う音、液体を吸い上げる音、空気を吹き込まれ震える音、ベッドのきしむ音、ミネラルウォーターを飲む音、様々あるというのは存じ上げておられると思います。セックスは格闘技だという至言もございましてですが、こうした御主人のセックスの音声を心地よく聞ける音量にステレオのツマミを合わせるとします。ひるがえって今度は同じステレオ、同じ音量で私の方のセックスを聞くとします。そうしますと、私の方はどうしても音割れしてしまうのではないかと思う次第で。もちろんそれ一辺倒でない、山あり谷ありのセックスを鋭意している所存はございますけれども、少なくとも御主人のは、これはもう……子供の遊びであると」
「なんだと」
「これを申し上げるのは私としても心苦しいものがあるのですが、何より私と御主人と相対したというか組したエミコさんがそうおっしゃっている次第でございますから、事実としてお伝えしたいと思っております。これは僭越ながら申し上げますと、我々の愛の営みですが、近所から苦情が来たことも一度や二度ではないのでございます。行為の最中は心ここにあらずといった面持ちではございますけれども、雀百まで踊り忘れずと申しますか、体に染み付いたテクニックは忘我のうちにも自然と出てしまうものでございまして、犬が何を言うかと考えられるかも知れませんが、エミコさんの淫水の噴き上げも甚だしくございまして、事の終わりの我がびしょ濡れの体と、この鼻や陰部の淫水やけをもって強いセックスアピールを自認してございます」
「もう止めろ!」
「しかしご主人、こうしたことを素通りして本当に問題の解決に至ることが可能なのかと私は思うのでございます。無論、御夫人のこのような淫靡淫猥な艶姿を聞かされて黙っていられるならばそれは余りにも愛が無いのではないのかということですから、御主人のその憤りは私としても、共感とまではいきませんが、少なくとも痛く理解できるといった感情でございます。それでこそエミコさんを射止めた人だと、私としても、これはおかしなことかも知れませんが、鼻が高い、そんな印象さえ持っているのでございます。だからこそ、この場を設けまして、正々堂々話し合おうと思ったのでございます。その際、これはまったく最も重要な問題でして、御主人、御主人」
「なんだ」
「御主人のセックスは淡白であると、これだけは私、何度でも申し上げておきます」