募金VS野口

 忘れた頃に毎年やって来る募金の季節、前日に「明日は募金です」というお知らせが入っている。みんな、その日の朝は、お母さんから貰った小銭をランドセルに入れて意気揚々登校してくる。
 今年の四月に転校してきたばかりの四年生、ケイコも、お母さんに貰った百円と自分の引き出しに散らばっていた小銭を少々持ってきた。小学生にとって、百円は小銭では無い。
「ケイコちゃん、何円入れる?」教室に着くなり、一番の仲良しになったミクが肩を寄せてきた。
「162円。ミクちゃんは?」
「6円」
 ケイコはほとんど反射的に、少ねえ、と男の子言葉で思ったが「へぇ」と言うだけにとどめた。
「でも、なんといってもケイコちゃん、この日の注目は誰がいくら持ってきたとか、そういうのじゃないのよ」
「どういうこと」
「今日ばかりは、奴の話題一色になるのよ」
「奴?」
 その時、児童会長の六年生、茂木が募金箱を抱えて教室に入ってきた。わっとみんなが殺到する。みんな、各々、お金をポケットの中で握り締めている。
 ケイコも立ち上がろうとしたが、ミクが制した。
「ケイコちゃん、募金は後よ」とミクは今までケイコに見せたことの無い顔を見せた。いや違う、この厳しい目は確かに見たことがある。そうケイコは思った。ミクちゃん、掃除の時のチリトリを決めるジャンケンで負け続けて最後の二人になった時、こんな目を私に向けていた。「ゆっくり見物といきましょ」
「ビニール袋に入れてきてる奴は袋から出せよ!」と茂木の声が響いた。「なんで金をビニール袋に入れて来るんだよ」
 何人かがビニール袋をポケットの中でばれないように外そうとごそごそやる中、大きな声が上がった。
「千円だ! 千円持ってきやがった! みんな、平川が千円持ってきたぞ!」
 平川は右手を高々とあげており、その天辺には、千円札のあの緑っぽい色がひらめいていた。
「すげえ!」
 平川はみんなが静まるのを待ってから言った。「逆に持ってきやすかった」
 ケイコは遠巻きに眺めながら、自分の小銭が持ってきにくかったことを思った。封筒に小銭を入れてきた自分を恥ずかしかった。千円札こそ、封筒に入れられて学校に持ってこられるべきだったのだ。
「ミクちゃん、これのことね。平川君、すごいね」
 ミクは真っ直ぐ前を向き、憮然とした表情をしていた。
「何を言ってるのよ」ミクは言った。「これからよ」そして、二人は教室後方の席に座っていたのだが、ミクは後ろのドアの方を振り返った。「来たわ」
 ケイコもそちらを見ると、血色の悪い男子が、教室の後ろのドアのガラス窓のところから顔を出していた。あれは、野口君だわ。
 しばらくして、教卓の横でわいわい騒いでいた集団の中から一人、また一人と、野口の存在に気付くものが現れ、すぐに教室は野口一色になった。
「野口が来たぞ!」
 野口はゆっくりとドアを開けた。
「真打登場よ」とミクが呟いた。「野口は、私達と見ている世界が違う」
 野口はゆっくりと自分の席まで行き、ランドセルを置いた。明らかに、教室の空気が変わっていた。
 そこは六年生、茂木が一歩前に出て口を開いた。「野口君、今日は募金の日なんだけど」
「茂木さんも、一歩も引いてねえ……」と誰かが呟いた。
「どうしたの、ミクちゃん。野口君がなんだって言うの」ケイコはミクの袖を引いた。
「ケイコちゃん、あなたは今年転入してきたばかりだから、知らないでしょうね。彼の異名を」ミクはそこから、教室中に聞こえるよう声を張り上げた。「彼こそ、おそらくこの世でただ一人、年一の募金に全財産を投入する男よ」
「全財産を!」ケイコは驚きのあまり叫んだ。
 それを合図にしたように、野口はランドセルの、こまごました物を入れるところから裸の札を何枚か取り出した。
「今年もだ! 今年も野口は全財産を投入する気だ!」
「今年はいくらなんだ!」
「一万円札が、ひい、ふう、みい、よお……馬鹿な!」
 ケイコの隣で、ミクはいつの間にか立ち上がっていた。「そうよ、小学生のお年玉は、毎年毎年増えていくのが通例。彼の家とて例外ではないわ。しかも彼はそれを一切使わない、頑なに使わない。ゲームも、小学生が手に入れがちなデジタルウォッチも、駄菓子も彼は手に入れない。彼はこの日のために、親や祖父母、親族からもらった金を貯蓄する。そして、それをあの箱に入れてしまう。こんなこと、彼以外に誰に出来るって言うの。おそらくは教育の一環として行なわれるこんなイベントに、見返り無しに全財産をつぎ込むなんて」
 野口は札を持ち、ポケットを探りながら、茂木の前に立った。そして、左手に札、右手にポケットから出した小銭を持ち、それをすっかり広げて見せた。
「五万三千八百六十六円です」と野口は言った。
 教室が揺れた。とうとう五万の大台に達した野口の一年間の経済活動に対して、惜しみない拍手が贈られた。
「で、それをどうするのかな」その賞賛の時間をたっぷり認めてから、茂木は言った。「君が入れないと、募金成立にならないんだけど」
「毎度のことながら、児童会長というのは役人根性がおありだわ」とミクが言った。ミクが机についた手は、隣のケイコの机をも震えさせていた。「そうよ、それがこの勝負の難しいところ……。確かに、ここまでは誰にだって、やろうと思えばできる。貯めたお金を、気をつけて持ってくればいい。でも、本当の、真に彼を悩ませる問題はここからなのよ。あのお金を、あの箱の中に、自らの手で、自由意志で入れることができるのか。野口は、一年生時の二千八十七円に始まり、一昨年に一万二千六百四十円、去年に三万千六円を入れてきた、号泣しながらでも、次の日から何日か休むことになってでも、とにかく入れてきた実績がある。でも、そんなことがなんになるっていうの。今、五万三千八百六十六円をその箱に入れるということは、見ず知らずの奴のために使われることの意味もはっきり実感できない私達の世代にとって、実際はただ貯金を全部ごっそりいかれるということだけが厳然たる事実。こんなことは、経験でどうこうできるほど軽いもんじゃない。いや、普通なら、去年や一昨年あれだけ体を張ったのだから、今年はもういいんじゃないか、て言うか他の奴がやれよ、と思うのが普通。でも、彼は違う。だからこそ、この荒行を続けてこれたんだわ。もはや、これは、彼と募金制度、いや、彼と募金そのものが繰り広げるデスマッチ、いやさ、もはやこんなことはただの、理由無き切腹なのよ。だって、彼がこんなことをやるメリットはまったく一つも無いんだもの。世の母親にとっては、ただ募金することと、五万三千八百六十六円を募金することは全く違うものだから、彼は毎年怒られているに違いないし、私達も、そんな彼のことを実際はちょっと気持悪いと思っているんだから」
 ケイコは、え!? と思ったが、野口から目を離すことが出来なかった。
 野口は既に泣いていた。号泣していた。しかし、既に小銭を持った右手は募金箱の口に入っていた。そして、ジャラジャラと音が響いた。八百六十六円が誰のものでもないものになった。
「ご協力ありがとうございまーす!」と茂木が声をあげた。
 その声が、野口の涙を更に溢れさせた。野口が広げた小銭を離した右手の掌には、ギザギザの痕や、平等院鳳凰堂がくっきりと写っていた。それを見て、みんなは野口を思いとどまらせようと決めた。
「野口、もう十分だ!」
「お前はすげえよ、頑張ったよ!」
「札の方は、自分のためにゲームでも買えよ!」
「茂木さん、あんたは鬼だ!」
 何人かが、茂木に詰め寄った。
「募金は強制じゃ無いよ。野口君が入れたいと思ったなら入れればいいし、そうじゃないならゲームを買えばいい」茂木は選挙のときのスピーチと同じ声色を使った。「もう四年生なんだし、自分の判断で生きていかなきゃ」
 ケイコはその声と、野口の嗚咽を聞き、突然気分が悪くなった。五万円。隣では、ミクが過呼吸になって六円の入ったビニール袋を口に当ててその中で忙しく呼吸をしている。五万円。いったい、どうして野口君はこんなことをしているのだろう。視界がせばまってくる。
 お札が両側から飛び出している野口の左手が、ゆっくりと募金箱に伸びていったところでケイコは気を失った。白い闇に吸い込まれてゆく中で最後に見たのは、キテレツ大百科の最後でコロスケが丸い円に顔だけ出しているような形でこちらを見つめている、ゆがんだ福沢諭吉の顔だった。