ベルリンの壁が崩壊したとき、ぼくたちはテレビの映像にくぎづけになった。そのときは、テレビのあの平面的で、表面的な画像が、まったく時代にふさわしいものに見えたものだ。いままでごまかしたり、隠したりされてきた、多くの情報が公開されるようになった。あのとき世界は、深さのないテレビ映像とともに、すこしだけ「客観」にむかって、前進したように思えたのである。
不思議なことに、ぼくはあのとき以来、あんなに好きだった映画にたいする興味を、急遽に失った。幻想に幻想を重ね、夢に夢を重ね、意味に意味の厚みをふやしていくようにつくられている、すべての表現に、げっそりしはじめたのだ。

――(中沢新一「リアルであること」『リアルであること』幻冬舎文庫 P10)

篠山紀信がインドに行ったとき、シャイババに間違えられて、空港で礼拝されたそうです。
――(中沢新一中沢新一の聖画十講」『リアルであること』 P62)

彼女はなかに花の入ったクリスタルガラスを私のほうにそっと差し出した――「それをポケットにお入れなさい。ずっと持っていて、それを見ては、永遠や完璧さをのぞんだり、大人になることをのぞむのは、結局は、オブジェか祭壇かステンドグラスの窓のなかの聖人になることでしかないということを思い出しなさい。どれもみんな大事にされるのかもしれないけど、そんなものになるより、くしゃみをしたり人間らしさを感じたりするほうがずっといいのよ」
――(トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』新潮文庫 P71)

ケニーは過度に興奮する子供で、何を読んでも自分に関わる意味を読み取ってしまう。そして、文学を成り立たせているほかのすべてのことを無視してしまう。
――(フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』 P75)

特に欲求を感じていなければ、ひとりで暮らすことには強烈な喜びがあり得る。
――(フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』 P106)

人間の生命には価値は無いかもしれない。僕らは常に、何か人間の生命以上に価値のあるものが存在するかのように行為しているが、しからばそれはなんであろうか?
――(サン=テグジュペリ「夜間飛行」 『夜間飛行』新潮文庫 P88)

   ツールーズ――アリカンテ。飛行時間、五時間十五分
 彼は筆をとどめて疲労と夢想に身を委ねる。様々な物音が入り混じって聞こえて来る。どこやらでおしゃべりな女がわめいている。フォードの運転手がドアをあけて、失礼といいながらにっこりする。ベルニスは真面目くさって、手近の壁や、ドアや、等身大のこの運転手を見守る。十時間ほど、彼は自分には、意味のわからない口論につり込まれる。何度も始まり何度も終わる身振りにつり込まれる。こうした地上のことがらが、彼には、かえって非現実的な幻影だとしか思われない。ところが戸口の前に立っている樹木は三十年も前からそこにあるのだ。そして三十年も前からここに眺めの焦点をなしているのだ。

――(サン=テグジュペリ「南方郵便機」 『夜間飛行』新潮文庫 P88)