たかの2巻とのりしろの本
けっこう前に、たかの2巻が出た。
たかの2巻が出るなんて、とはもうさすがに思わないのは、たかの1巻が出た時に予想ができていたからで、順調な連載のペースに応じて出るべくして出たのだった。
何らかの創作物を見て、上手い絵だとか巧みな見せ方だとかごちゃごちゃ言いたかったような時期も確かにあったけれど、最近では、結局、ある人間が何を見てどう考えいかに伝えようとしてきたかという生き方そのものが放つ、これまで一度も切れたことだけはないギリギリの電球あたたかな煌めきの前に立たされると、どんな白々とした明るさも「うるせーバカ」ぐらいにしか思えない気もする。
かと言って、そういう興味深い人がマンガを描いたりするとは限らないのが世の中のむずかしいところだ。でも、たかさんはたかさんの傍から見たらたいへんな人生を生きて見て考えながら、『ドラゴンボール』を読んでマンガ描いて、たかたけしというマンガ家になって、連載もったマンガ家だから2巻を出したというわけなのだった。
いるいないに関わらず、人の生き方に母なるものが関わらないはずはないけれど、先日、たかさんのお母さんが亡くなられた。その辺りの顛末は本人のブログ「今夜は金玉について語ろうか」で読むことができて、語ろうかじゃないよとずっと思うが、その記事だけでも一人の人間が何を見てどう考えていかに伝えようとしているかということがよくわかるから、それ以上、自分が何を書くでもない。ないけれど、「マンガ家になったことを伝えられて、あと棺に2巻も入れられてよかったですね」と思ったし、たかさんにもそんな風に言った。「それは思いますね」と返ってきて、父親が野村克也みたいに弱りそうだから話し相手になっているという報告を受けた。すごい精度で自分をカツノリになぞらえるんだなと思ったが言わず、半年ぶりのやりとりが終わった。
だから、『契れないひと』の1巻と2巻はたかさんのお母さんと一緒に焼かれたわけだ。本というのは違うけれど同じ変なもんだから、自分の本棚にささっているのを見ると、これが徳島の火葬場で焼けたんだと思わないでもない。それで、水辺で気をつけしたたかと若かりしお母さんとか、引きこもりのお兄さんの部屋に続く階段とか、寝たきりになった後のお母さんの真上からとか、骨組みだけ残して燃えた車とか、こっちが見たいと言ったわけでもないのに見てきた写真が、代々木のデニーズの薄暗い照明と一緒にずいぶん思い浮かぶのは、作品にとっていいことか悪いことかわからないが、それらは明らかにたかさんが自分よりもっと生々しく目にし、きっと何事かもっと真剣に考えてきたものやことなのだった。一つや二つ欠けたところで『契れないひと』は別に描けたかもしれないそれらが、作品を見るこちらの目に煌めきを映しているのはどうも間違いがなくって、こういう関係ってどういう関係かわからないが、こういう関係でよかったと思ったりする。
自分のこのブログの本も夏に出るけれど、たかさんの方でも少しはそんな感じで思うかも知れない。いやな言い方だが、こうして何冊か本が出るくらいに「成功」してうれしいと思うのは、たかさんと自分を一緒に思い浮かべた時だけだ。
他にお世話になった人のことは跋文で書いたから、ここでは、たかの2巻にかこつけたこのぐらいにしておきたい。最後これは二十歳くらいまでの青いのりしろのためだけに言いますが、7月刊行の『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』をよろしくお願い致します。