ワインディング・ノート31(村上春樹/『驚きの皮膚』/cero)

とくに年若い時期には、一冊でも多くの本を手に取る必要があります。優れた小説も、それほど優れていない小説も、あるいはろくでもない小説だって(ぜんぜん)かまいません、とにかくどしどし片端から読んでいくこと。少しでも多くの物語に身体を通過させていくこと。たくさんの優れた文章に出会うこと。ときには優れていない文章に出会うこと。それがいちばん大事な作業になります。小説家にとっての、なくてはならない基礎体力になります。目が丈夫で、暇が有り余っているうちにそれをしっかりすませておく。

 
 『職業としての小説家』からの一節です。
 これを見ると、村上春樹も「若いうちに旅をしろ」派に名を連ねているようです。
 僕がこの記述をためらいなく「旅」と言ってしまうのは、村上春樹が若い頃の濫読を「多くの物語に身体を通過させていくこと」と表現するからです。
 わざわざ「(ぜんぜん)」と断って、それが皮肉でないことを示していますが、読むものは優れていないもの、つまりカスでも構わない。通過するものに対して身体に表れる何らかの反応、その蓄積。その数に頼んだ経験に比べれば「厳選された情報」などには全く用がない。「質より量」なのです。
 でも、せっかく本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たりしても、毒にも薬にもならなきゃ忘れてしまうんじゃ意味がないじゃないか、それなら強烈に良いものだけに触れた方が有益だ、と言う人もいるかも知れません。僕もそう考えていた時期がありました。
 昨日、『驚きの皮膚』という本を読んでおもしろかったのですが、この本は、人間の内部と外部、つまり身体と環境の境界となる皮膚が、身体自身から社会まで、人間にまつわる様々なシステムにどのような影響を及ぼしたかについての考察です。
 その一章「皮膚は『聴いている』」に、こんな研究が紹介されています。

 さまざまな大きさの銅鑼や鍵盤楽器を合奏するガムランというインドネシア民族音楽があります。大橋博士らは、バリ島のガムランの演奏時、演者がトランス(恍惚)状態になることに着目し、その原因として、耳には聞こえない音波の影響を発見しました。というのもライブ演奏ではトランス状態になっても、CD録音された演奏ではトランス状態にはならないのです。
  通常のCDでは音は周波数2万ヘルツまでしか録音されません。ところがガムランのライブ音源を解析すると実に10万ヘルツ以上の音まで含まれていたのです。そのライブ音源にさらされると、脳波や血中のホルモン量にも変化が認められる。
 さらに彼らは、被験者の首から下を音を通さない物質で覆い、再びガムランのライブ音の効果を調べました。すると驚くべき事に生理状態に及ぼす影響が消えてしまったのです。これらの結果から大橋博士らは、高周波数が耳ではなく、体表で受容されているという仮説を抱くに至りました。

 

これとは別に、皮膚が音を「聴いている」ことを示唆する研究が報告されています。
 この研究では、可聴領域の音が使われます。マイクに息があたるような「破裂音」paの音と、破裂音ではないbaの音です。実験では被験者にbaの音を聞かせると同時に、その首や手の皮膚に音が聞こえない程度の空気を吹き付けました。すると被験者はpaという音が聞こえた、と答えたというのです。だとすれば可聴領域の音を聞く場合にも、皮膚への音圧が関与している可能性があります。

 
 こうなるとやはり、「音楽のルーツを辿ること」が、「身体を通過させていく」という(比喩的な意味でない)「旅」の様相を呈してきます。後ろの例が示すように媒体がCDだろうと身体は何かしらの反応しているのですから、良かろうが悪かろうがすぐ忘れようがクソみたいな音楽だと怒りに震えようが、その音が身体を通過したことは決して変えることのない事実です。
 それは意識されない「感覚」であり、意識された「知覚」ではないかもしれません(この定義も『驚きの皮膚』から借りています)。
 ただし、この「感覚」を受容しておく=磨くともなく磨くというのが、若い時代の「旅」の一つの意義なのだと僕は思います。それは、やがて来る意識される知覚を記憶にしようという時に、頼もしい受け皿のようなものになるはずです。
 意識されない感覚が磨かれるなんて眉唾ものにも思われますが、『驚きの皮膚』では、皮膚感覚が脳を創っていったという説が提唱されています。全身が粘膜状の皮膚であるタコは哺乳類並の脳を持っているなんて言われると、なるほど、人間は巷で言われているように大きな脳を持ったから冷やすために体毛を失ったわけではなく、体毛を失って皮膚感覚が増大したために大きな脳になるよう進化したんだと、筆者の仮説に首肯したくなります。その仮説はつまり「感覚を受容すれば受容するほど、記憶の受け皿は大きくなっていく」ということを示します。

今の私たちは、昔の人たちに比べて、膨大な情報を扱っているように思いがちです。しかし本当にそうでしょうか。むしろコンピューターやインターネットに依存しているため、自分が処理している情報は、少なくなっているのではないでしょうか。情報を集めることは大したことではありません。とくにインターネットで「検索」すれば、とりあえずの答えが見つかる現代では、情報収集に才能は必要ありません。大切なのは、集めた情報の中から必要なものを選択することであり、いわゆる「頭が良い」人、仕事ができる人は、「物知り」「検索の達人」よりも、むしろ情報選択の能力が高い人、一見、関係がないような離れた領域から、必要な情報を抽出し、新しい考え方を創生する人であるように思います。
(傳田光洋『驚きの皮膚』)

 

ジェームズ・ジョイスは「イマジネーションとは記憶のことだ」と実に簡潔に言い切っています。そしてそのとおりだろうと僕も思います。ジェームズ・ジョイスは実に正しい。イマジネーションというのはまさに、脈絡を欠いた断片的な記憶のコンビネーションのことなのです。あるいは語義的に矛盾した表現に聞こえるかもしれませんが、「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」は、それ自体の直観を持ち、予見性を持つようになります。そしてそれこそが正しい物語の動力になるべきものです。
村上春樹『職業としての小説家』)

 
 ここで、皮膚研究者とジェームズ・ジョイス村上春樹が全く同じことを言っていることが、僕にはとてもうれしい。ここで語られていることができる人は、きっと「感覚」を磨かれた人であるでしょうから。
 そしてまたうれしいことに、村上春樹の「有効に組み合わされた脈絡のない記憶」が「正しい物語の動力になるべきもの」だという断言は、この長ったらしい話の視線をふたたび夜空に向けるような気がするのです。

 そこには、こんな時代のせいで僕の住まいからはかなり見えにくくなっているのですが、いくつかの星が瞬いていて、知識の浅い僕にも覚えのあるいくつかの形を結んでいます。
 脈絡のない星々の組み合わせである星座。古代ギリシャ人たちがそれに神話を結びつけた約3000年前の営み。
 脈絡のない記憶は「星」のように、はるか昔のものからつい昨日のものまで、その遠近に関わらず、鮮やかにもおぼろげにもなりながら混在し、ある時は見えなくなり、ある時に姿を現します。
 そして人は、「終わりの来ない旅」の中で、その時その時に出ている「星」のような記憶を頼りに進むしかないのです。個人的な記憶から、人類の記憶と呼ぶしかないような作品、形にならない文化まで、それこそ星の数ほどある記憶によって人は生きている。

 そう考えるならば、ceroが砂漠に向かった意味が非常によくわかります。雲もなく清潔で静かな砂漠こそ、地球上で最もはっきり星空が見える場所なのです。
 残念ながら、僕には音楽のことが「ものを書くこと」ほどには良くわからないのですが、新しいアルバム『Obscure Ride』では、砂漠にたどり着いたceroが「星」を「記憶」を、より透明な目線で歌っています。かなりいいです。

 

 

 

職業としての小説家 (新潮文庫)

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驚きの皮膚

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Obscure Ride 【通常盤】

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  • アーティスト:cero
  • 発売日: 2015/05/27
  • メディア: CD