石坂浩二さんがくれたドラゴン

 ドラゴンはとてもかしこい生き物だ。
 夕暮れ時、カーテンを閉めるついでに窓を開けてみると、春の風はなおも冷たい。明日は雪が降るらしい。
 ドラゴンは、やはり大きな背中をこちらに向けているばかりだった。汚れた猫の額ほどのベランダで、エアコンの室外機とせせこましくスペースを分け合っている。うっすら土汚れがのった黒い鋼色は、部屋の明りを反射することなく吸いこんでしまうようだった。
 眉の下がった石坂浩二さんの顔が浮かんだ。
 石坂浩二さんは、言わずと知れた博学才穎の人である。絵も上手だし、女性にもおモテになる。面倒見の良い方でもあり、俺もずいぶん世話になった。
  懇意になった共演者に様々な贈り物をすることで知られている石坂さんだが、その石坂さんが、俺にはドラゴンをくださった。6頭所有しているうちの1頭で、 ブルガリアで生まれたのを6年前に譲り受けたという鋼色の美しいドラゴンだ。名前をブルという。人間で言えばまだ小学校の低学年で、鳴き声も高く子猫のよ うである。
 今田さんは、石坂さんから「ドラゴンに乗った今田耕司」という題の肖像画をプレゼントされたらしい。今田さんちの玄関にかけてある。 バカでかい。今田さんには「ドラゴンに乗った今田耕司」の肖像画で、俺にはドラゴン。なぜそんな貴重なものを私にくれる気になったのか、俺の何がそんなに 気に入られたのか、検討もつかないが、悪い気はしなかった。
 俺はもう一度、ドラゴンの背中を見つめた。いつも背中しか見ないせいで、一面が鱗に覆われた細長い、意味のないオブジェのように思える。しかし、それは少しく上下動して確かに生きている。煩わしさを持っている。
  初めはそのうち慣れるだろうと高をくくっていた。毎週、石坂さんから届くエサの烏骨鶏だけベランダに放り出して、芸人仲間と夜通し飲みに行ったりしていた のが良くなかったのか、一ヶ月経っても一向に心を開く様子がない。烏骨鶏はきちんといなくなるのに、ふっくらしていた横っ腹はどんどん痩せてきた。
  俺だって、夢を見なかったわけではない。その固い背にまたがり、晴天の空を飛翔し、フジテレビへ向かう夢である。頬をなめられ、大きな腹にくるまるように 横たわり、昼寝をしてラジオに遅刻する夢である。俺はその夢の中のドラゴンを好きだった。だから目の前の鱗の塊を嫌うことになった。
 俺はその姿を見たことはないが、俺の家に入り浸る後輩芸人によれば、ドラゴンは時折、手すりに手を掛け立ち上がり、決まって南西の方角に向けて遠くさびしげに鳴いているらしかった。その先には石坂さんの家がある。俺はその姿を思うたび、胸が痛むより先に腹が立った。
「返してあげた方がいいよ」
 いつか連れ込んだ女子大生は、ベランダをのぞきこみ、うろつく烏骨鶏をしばし見た後、そう言った。女は事が終わった後も下着姿で同じことを言い、帰り際にまた言うのだった。
「やっぱり、石坂さんに返したあげた方がいいよ」
 その慈しみをまじえた声に腹が立った。殺してやろうかと思った。
「うるせえ、この売女!」
 俺はついさっき裸の腰を打ち付けたばかりの尻を今度は蹴って追い出し、カギを閉めた。しばしの喧噪を覚悟したが、女はすぐに立ち去って行った。
 ドラゴンはとてもかしこい生き物だ。
  自分の置かれた立場をすっかり了解しているのか、外界に開け放されたベランダにほっぽっているのに逃げる素振りも見せない。そうしてくれたなら、どんなに いいかわからない。凝り固まった翼を動かし、全てを吹き飛ばすような風を起こし、石坂さんの家にでもどこでも帰ってしまえばいい。来た最初の日に、こんな 狭苦しいところはごめんだと、暴れ回って火を噴いてくれればよかった。
 1ヶ月も弱々しく丸めた背を見せたのだ、こいつも今さら帰りづらいにちがいない。なまじ知能が発達しているせいで、大いに苦しんでいる。まるで人間のようで、それがまた憎い。動物が人間を嫌うように嫌われたのではない。人間が人間を嫌うようにして好かれなかった。俺はドラゴンが憎い。
 夜更けに窓を少し開け、網戸越しに言った。
「今日、お前が苦しい眠りについたら、俺はお前を殺そうと思うよ」
 ドラゴンの呼吸が止まった。夜の風がひんやりと流れこんできた。
「俺も、今田さんみたいに絵がよかったよ」
 とてもかしこい生き物の背中はまた静かに動き出した。明日は雪が降るらしい。