ワインディング・ノート25(『IMONを創る』・いがらしみきお・カント)

 それでは、ソフトの問題はどうなのか。
 かつて人間には"我々は何者なのか"というソフト上の問題があった。ゆえに、そこここで若者やオジサンが、"人生とは"とか"生きることとは"とか、"愛とは"についてコジツケた理屈を言っていたものである。
  今はどうなのか。そこここの若者とオジサンはどうしているのか。そこここの若者とオジサンは"人間関係"について語っているのではないか。みなさんだってご自分でそう思うでしょ? "今、自分にとって一番大きい問題は人間関係だ"って。オカネがないことですか? それはハードの問題なんです。オカネはハー ドなんです。だからハードでしか解決はつかない。そういうハードの問題を抜きにした場合はどんな問題が残りますか?
 ね? "人間関係"でしょ?
 え? 恋愛問題?
 それはね、恋愛というものが"人間関係"の極北なんです。その極北のドンヅマリにあるのが家族ってもんなんです。
 かつて"おつきあい"だったものが、今では"人間関係"と呼ばれる。それは単に言葉を変えただけではなく、まったく異なったものに変質したのではないか。
 我々は"人間関係"をまるでシゴトのように対処しはじめているはずである。ただ、この"シゴト"には給料が出ない。いきおい、我々のこのシゴトはネガティブなものになる。
 しかし、給料の代わりに"快感"をもたらすことはできるのではないか。マンガ家にとって、たとえ売れなくとも、その作品がいくばくかの快感をもたらしてくれるように。
  IMONは"人間関係"を作品という見地から捉えたい。
 確かに、今現在、我々のタッチしている人間関係は駄作ばかりであるかもしれない。
 それは我々にはまだ技術がないからでもあるだろう。
  たとえば"リアルタイム"、"マルチタスク"、"(笑)"という技術が。この3つの技術があれば、作品としての、傑作である人間関係が創れるかどうかはワタシにもわからない。今はまだ、"人間関係"がテーマであるとは誰も言わないし、そしてそれはまだ始まったばかりだ。どこで始まっているのか。
 "パソ通"でである。
 そして、パソ通こそが作品としての人間関係を創る実験の場にもなるはずであるし、事実それを無意識に実践しているのが、いわゆるパソコンオタクなのではないか。
 我々は、作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう。
 そのための"リアルタイム"であり、"マルチタスク"、そして"(笑)"なのだ。


 もう引用機械に成り果てましたが、僕はこの本を読んだ時に、初めてカントが腑に落ちたような気持ちがしたのでした。

あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい
(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)


 カントが言うのは「作品に対する芸術家のように、熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならないだろう」ということに他ならないのではないでしょうか。
 芸術家は、その作品を創ることを「目的」とし、創られた作品を「手段」として金銭や人脈を得たいわけではない。そんな者がいたとして、そんな者は芸術家と呼ばれはしない。
 人間関係も、そのように「目的」と捉えなければならないのです。作品を創らないなら。
  20年前にパソ通と呼ばれていたものは今インターネットと呼ばれ、リアルタイムのコミュニケーション・ツールなど言うまでもない。無目的な「つぶやき」や 「いいね」はそれ自体が目的化したことの証拠なのですが、同時に、人はすぐにそれを「手段」としてしまいます。我々は、やはりまだ「人間関係の芸術家」に はほど遠い。
 そこでカント本人を参照してみます。カントは偏屈な社交家として知られています。

 午前4時45分、従僕ランペは主人の部屋に堂々と入っていき、「教授様、時間でございますよ」と叫ぶのが日課であった。そして、時計が5時を打つまでに、カントは朝食の食卓に座った。彼はお茶を何杯か飲み、それから1日に一度だけのパイプを吸い、そして朝の講義の準備を始めた。
 カントは階下の講義室へ降りていき、7時から9時まで教え、それから書くために2階へ戻った。12時45分をきっかりに、カントは料理人に向かって「時計が3/4を打ったぞ」と叫ん だ。それは、昼食が出されなければならないことを意味していた。彼が「ひと口」と呼んだ酒を飲んだ後、午後1時ちょうどから昼食を開始した。カントにとっ て昼食は1日で唯一のまともな食事であったし、また社交的であったカントには昼食が会話をする理由でもあったため、彼は昼食をとても楽しみにしていた。そして、実際にカントは――私も彼は正しいと思うのだが――、会話が消化作用を助けると信じていた。彼はまた、チェスターフィールド卿の規則に従った。この 規則とは、昼食を共にする客人の数が美の女神の数[3人]より少なくてもならず、芸術[文芸]の女神の数[9人]より多くてもならず、通常4人から8人の間でなければならないというものでもあった。食事中、カントは決して哲学のことを語らず、また昼食に女性が招待されたことは一度もなかった。
(サイモン・クリッチリ 『哲学者たちの死に方』 杉本隆久/國領佳樹 訳)


  こうした習慣は、しばしば神経症的な強迫観念だと言われますが、なんということはない、これは、社交を、人間関係を、傑作にしようと希求する姿であるように、僕には映ります。毎日のルーティン・ワークを極限まで単純・効率化して、精神・肉体的ブレをなくし、自身の姿を傑作として結実させようとするイチローを思い起こさせます。

 熱く、そして醒めながら人間関係に接さねばならない。
  それはリアルタイムであり、マルチタスクでありました。何か問題が起こったとして、それこそ人生が破綻しそうな大問題を抱えていても、朝がきたら起きて、 お腹がすいたらご飯を食べる。別の事をしているときに前の仕事を引きずってはいけません。これにより、ごはんを食べているときは、大問題の悩みから解放されます。リアルタイムを生きる限り、正しいも間違いもないのだから、悩んでいる意味はないのです。
 そして、女がいたら、その女は、女との人格の交流は、性行為のための「手段」となってしまいかねない。そんなことでは良くないのです。
 こうしたことの集団知の実践が「なんJ」に達したのだと思いましたが、詳しく言うのは避けて、続く。

 

 

プロレゴーメナ・人倫の形而上学の基礎づけ (中公クラシックス)

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哲学者たちの死に方

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