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いもとアネモネ

創作

 私と妹に別々の部屋はない。妹が小学校1年生に、私が3年生になった頃から一つしかない子供部屋を二人で使うようになった。
 勉強机は、ちびまる子ちゃんの部屋と同じように置かれていた。はじめの頃は、ほとんど机に座ることもなく、部屋の真ん中で二人、いつまでも仲良く遊んでいたものだった。私と妹は、世界一仲のよい姉妹だ。そんなふうに思っていた。
  でも、妹は2年生の頃から豚のように太っていった。関節を境にぷっくりふくれた肉がつながったように見える手足も、はじめは赤ん坊のようだとからかっていたが、4年生になる頃には単なる一本の寸詰まりの肉塊と化し、みるみる短く見えるようになった。胴体とくに腹はパイをぶつけていくように醜く増殖していく ようで、中に骨や内臓がひと揃いあるのが不思議なほどだった。どこへ行くにも一緒だった私と妹の行動は、身体の都合でずれていき、そのうち私は妹と距離を置くようになった。
 私は至って普通の体型だから、学校では良くからかわれた。みな妹に言うのはためらわれるのか、私にそれを言うのだった。「お前ん家の妹、太ってるなぁ」「エサ代かなりかかるだろ」「イデンシがちがうんだ」「親がちがうんだ」と同級生も悪びれず言った。「桜町には2人の子 一人はノッポであとはデブ」というちょうど五音の名字を使った歌は学年を問わず大流行し、先生も見て見ぬ振りをするしかなかった。保健の先生から、妹に運動するように、間食を控えるように厳しく注意してと何度も言われた。家族の協力が不可欠なのだと先生は語気を強めた。運動会では、奮闘する妹に父兄から個別の生暖かい拍手が送られ、お昼に同じシートに座ってごはんを食べると、校庭全体に散らばった目がこちらを刺すような気がした。妹は気にとめることもなく、むしゃむしゃとおにぎりやからあげを頬張り、甘い紅茶でそれを胃に流し込んでいき、そして、特に満足そうな顔をするでもなかった。
 私は、醜い妹が恥ずかしかった。なぜあんな体をみんなにさらして、平気でいられるのだろう。みっともないとは思わないのだろうか。いや、妹だって、あんな風に言われて、あんな風に軽蔑の視線を浴びて、平気でいられるはずはない。私は何度もそう思い直して、毎日を過ごした。
 夜、机に座って勉強していると、ポテトチップスの袋がガサガサ言って、一応、私を気遣って遠慮がちに食べ始める音が響く。パリ、パリとポテトチップスのかみ砕かれる音と一緒に、私の期待も粉々になった。それはドロドロに消化されて、あのだぶついた脂肪のように、私の心を支配していった。私は勉強が手につかないで苛立ちを募らせていった。
 いったい妹はどこからあんなお菓子を持ってきているのだろう。おこづかいやお年玉を全部それにつぎこんでいるにちがいない。
 妹のいない時に机を開けると、あらゆる段に、ポテトチップスが詰まっていた。大きい袋から小さい袋まで、引き出しいっぱいに敷き詰められていた。一番下の広くて深い引き出しに、ディスカウントストアでしか売っていないような安くて身体に悪そうな炭酸飲料がきれいに並べられているのを見ると、目眩がした。
 苦しんでいるのは私だけだ、と思った。お父さんもお母さんも甘やかして何も言わない。もうあきらめているのかもしれない。太りやすい体質だからなんだと言うのだろう。太りやすい体質だったら太ってもいいのだろうか。小さい頃から人を殺すのに興味があったら、人を殺してもいいのだろうか。その子はやっぱり捕まってしまったじゃないか。しょうがないなんてただの甘えだ。パリ、パリ。ポテトチッップスをかじる音、炭酸飲料を飲む音、ゲップがこみ上げる小さな音、体を揺らすたびにきしむ椅子の音を背中で聞きながら、そういうことを考える。
 それから、この部屋は、私のものだけだったのかもしれない。
「子供部屋が一つってことは、妹ちゃんを産む予定がなかったんだよ、そういうこともちゃんと考えて、家は買うものなんだよ。一生に一度かもしれない買い物なんだから」
 クラスでいちばん大人っぽい高倉さんが教えてくれた。私もそう思う。そうとしか思えない。じゃあ、私の後ろで息して飲み食いして椅子をギシギシ鳴らしている妹は、なんなのだろう。大人の高倉さんは言った。
「でも、産まれたもんはしょうがないよね」
 私は、そう言う高倉さんの趣味に影響も受けてか、知らず知らずのうちに、かわいいものを集めるのに熱中し始めていた。洋服、靴下、アクセサリー、文房具、ストラップ。趣味がよくて、かわいくて、子供っぽくなくて、さりげなくて、私だけの特別なもの。私にだって、妹と同じかそれ以上にお金はある。妹にはとても似合わない、豚に真珠の完璧にかわいい物で、私の周りを固めよう。背後から漂ってくる油や甘味料の臭い、ベタベタしたシャープペンシル、油じみだらけのマンガ、散乱してるペットボトルのキャップ、そういうものから、ぴかぴかの私の机を遠ざけよう。有意義にお金を使って、妹のことなんか気にしないようにしよう。
 その仕上げに私は花を買った。不思議と目についた赤いアネモネは、花びらがでっぷり重なって、花の真ん中は大口を開けたようで、なんだか妹に似ていた。
「折れた茎から出た汁にさわらないようにね。かぶれちゃうことがあるから」
 花屋の店員さんが言って、私はそれを妹のことだと思った。いつも体液の迸りを連想させる妹。安いけれどしゃれた花瓶も買ってきて机のすみに飾る。机に座った私からいつも見えるわけでもなかったけど、その赤の周りだけ華やかになった気がして、不思議と心が安らいだ。
 あなたは他人、でも私の家に生まれた。その気持ちをこめて、花は妹の方に向けていた。妹は、当然なんの興味も示さず、いつものように硬いチップスを咀嚼していた。
 その夜だった。机に座って勉強していると、
 大地震が関東北部を襲ったのだそうだ。運悪く、前日が強い雨だったこともあり、裏が小高い山になっている私の家は、その土砂崩れと大きな揺れによって倒壊した。
 大きく揺れて、地震だと思う間に、地鳴りのような音がどこからか響き、小さくなるのが当然と思っていたその音が、あれよあれよと耳に大きくこだまして迫ってくる。危ないと思う間もなく、私たちを呼ぶお母さんの声。部屋がゆがむところまで私は見た。無意識に、机の下に飛び込んでいた。
 気づくと真っ暗。凍えるほど寒い。生きていた。あぐらをかいて、上から押しつぶされたみたいな姿勢で、背中が痛い。頭上と両側には机の頼もしい感触があった。机はなんともないみたいだったけど、手で探ると、引き出しが何個も外れて飛び出しているのがわかった。その一つに手を突っ込むと、わずかに泥のような感触があった。でも、その引き出しは2段目で、運のいいことに、私はペンライトを手に取ることができた。おじいちゃんにもらった物だ。
 ライトで照らした目の前は泥と瓦礫まみれで、映画のようだった。もともと壁だったものは、厚紙みたいにちぎられて積み重なって、部屋の中にあった色々な物を分断していた。その一つの切っ先が、ほとんど私の目の前に無造作に差し出されていた。
 お母さんはどうなっただろう。お父さん。妹は。窮屈な机の下からは、少しも先を見通せない。私はライトを消してポケットに入れた。怖いけど、夢みたいで、案外落ち着いている。救助を待つしかないと言い聞かせるまでもなく、わかるような気がした。大丈夫かもしれない。みんなだってそう。大丈夫かもしれない。
 気づくと、私は眠っていた。そのあと目を覚ましたらしかった。寒さはさっきよりもひどくて、つま先と指先の感覚がない。おしりもしびれて、宙に浮いているみたいだった。そして、何よりもお腹が空いていた。
 あたりに、ほんの少し明るい空気があるような気がした。ライトをつけて見ると、前より辺りがはっきり見えた。アネモネの花びらが、横倒しになった柱の下からのぞいていた。
 ああ、と思ったその時、あの音がした。
 パリ、パリ。遠慮がちにポテトチップスをかじる音。
「茜!」と私は叫んでいた。
 かじる音が一瞬止んだ。茜は何にも答えなかった。また、パリ、パリという音が聞こえた。ライトで照らしたけれど、妹がいるであろう方向は、瓦礫が邪魔で見通せなかった。
「聞こえてるんでしょ」
 プシュ…。なるべく小さく抑えられた、炭酸飲料のキャップを開ける音。トプン。まとまった液体が傾いて揺れる音。少しの静寂の後、たまらずついたみたいな水気に満ちた息。
 ほしい、と思った。
「茜、食べ物をちょうだい」と優しく声をかけた。
 声が震えたのは、無理な体勢のせいか、この状況のせいか、久しぶりに話すからなのかわからなかった。情けなく笑い出しそうになるのをこらえてもう一度言った。
「茜、食べ物をちょうだいよ」
 返事はなかった。引き出しの中に詰まったお菓子や飲み物で腹を満たす音が永遠に続いた。私の引き出しには、今は役に立たないものしかなかった。
「あんたは太ってるし、そこまでいらないでしょう。私にちょうだいよ。今までのこと、みんな謝るから、私にそのお菓子や飲み物、分けてちょうだい。ねえ、いいでしょう。私、あなたの悪口、言ったことないじゃない。みんながどんなにあなたのことを悪く思ったって、からかったって、あなたをバカにしないで、ずっと耐えてきたんじゃない。あなたを疎む人たちから守ることはできなかったけど、そんなの誰にもできなかった。それでも、ずっとあなたの側に居続けたのよ。同じ部屋で勉強して、同じ部屋で遊んで、お互いに自分の好きなことをするようになったけど、ずっとあなたをそばに感じてたのよ。私のたった一人の妹だもの。後ろで何か食べてったって、ちょうだいなんて一言も言ったことはなかったわよね。それが、今、こうして、私から、初めて頼んでるの。ねえ、その食べ物を分けてくれない? いいわよね? あなたがいらないと思うわずかな食べ残しの分だけだって、やせっぽちの私には十分なんだから…」私は飲み食いの音に向かってしゃべり続けた。音を立てているのが、どこかからまぎれこんだ犬や豚か何かだったらどんなにいいかと思いながら、永遠にしゃべり続けた。