ワインディング・ノート23(『IMONを創る』・デカルト・太宰治)

 みなさんも不安だろうから、ワタシはひと思いに言ってあげよう。我々は"正しいこと"なんかできはしないのだ。できるのは"すべきである"決断と行動という情報処理だけである。そして、その結果が正しくなかったとしても、我々はリアルタイムであることをやめてはならないだろう。 それに続く"すべきである"決断と行動という情報処理を、継続するしかない。いかなる問題が起ころうとも、"しない"ことによって解決しようとしてはいけ ない。常に"する"ことで解決するしかないのだ。やめるな! 一生やれ! なんでもやれ! ほっといてくれ!


 つまり、リアルタイムであることの本義とは、「やるしかない、やめるな、一生やれ、なんでもやれ、ほっといてくれ」なのであります。
  「決断と行動という情報処理」をするのは当人、もしくは大きな総体としての人類なのですから、やるしかないし、やめるわけにはいかないし、一生続けなく ちゃいけないし、なんでもやらなくちゃいけないし、ほっといてもらうしかないのです。ほっといてもらうのは、決断や行動について何を言われたところでやるしかないしやってしまうのだからという意味でしょう。
 デカルトは言ったじゃないか。「選択肢があった場合、より成功しそうなことを選び、一度決定したことには従う」のだと。
 これは「"すべきである"決断と行動をやるしかない、やめるな、(決断と行動を)一生やれ、なんでもやれ、ほっといてくれ」と同じことです。
 さて、リアルタイムについてはおわかりいただいたと思います。
 次はマルチタスクです。

 それでは今回からは"マルチタスク"について語ろう。マルチタスクは前回まで語ってきた"リアルタイム"と対になっている。
 生き物が情報処理を務めとして生きるのなら、まずリアルタイムであらねばならない、ということはもう言った。そして、リアルタイムであるのならば、マルチタスクでなければ意味がないのだ。
 逆に、マルチタスクを実現するのならば、リアルタイムでなければ不可能でもある。我々は膨大な情報を処理して生活を営んでいる。
 たとえば、会社に遅れそうだとしよう。遅れそうならば、一番合理的な交通手段についての考察というものが発生するわけだし、万が一、遅れた場合の上司に対しての言いわけも考えなければならない。
  そして、情報はそれだけではない。ガスの元栓は閉めただろうか、ドアにカギはかけただろうか、このババア、邪魔だぞ、どけ! とか、昼飯代はあったかなとか、だから3時まで『オーガスタ』やってたりしなけりゃよかったんだとか、それと同時にババアを罵ったり、子供を突き飛ばしたり、すれちがった若い女の顔を一瞬のうちに品定めしなければならないわけである。


 この本は、というかいがらしみきおは、具体例の描写がよくできたスナック菓子のように軽やかにわかりやすく面白いのがすごいのですが、それと同時に『オーガスタ』で相当に時代を感じます。が、ともかく続けましょう。
 造語も多いので説明が大変ですが、大変なことはしたくないので、できるかぎり引用したいと思います。人の文章を書き写すというのは、気分が乗るのであれば、実に悦楽的な行為です。そこにおぼれつつ、検索しても言及1つ満足に出てこない歴史に埋もれたこの本の意義を伝えるということに重きを置こうと思います。

 さて、我々が実際にマルチタスクする場合、その複数のタスクがどういう順序と序列で処理されているかというと、第一に意味によってであり、そして第二に儀礼によって処理されているのである。
 これは我々の現在のOSというものが、意味と儀礼によって構成されているというよりも、意味と儀礼という、場合によっては矛盾し、バッティングするふたつのOSがあるのだと言える。
 意味の中には、快・不快などの感情である個人的側面がすべて含まれ、そして儀礼の中に、我々の"いやでもやらねばならない"という社会的側面が含まれている。
 そういった意味で、我々のOSはマルチOSであるし、IMONがマルチOSであらねばならないことの理由もそこにある。
 問題はこのふたつのOS(以降、意味のほうをIーIMON、儀礼のほうをGーIMONと呼ぶ)がうまく切り離されていないことであり、また、うまく連携されないところにこそ、あるのではないか。
 我々は、GーIMONで情報を処理すべきときも、IーIMONを持ち出してしまっている。
「ありがとう」と言いつつも、「誰もやってくれなんて言ってないじゃないか」などと思ってしまうのだ。
 そしてまた、IーIMONで処理すべき情報にもGーIMONを持ち込んでしまうだろう。
「うーん、いい絵だ」と言うそばから、「38万円か。クルマの頭金にしたほうがいいよな」と、思うのである。


 意味と儀礼が出てきました。
 ここで、太宰治を思い出してもらえるなら僕はうれしく思います。

  それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞讃を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。
 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。
 新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。
 友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。


 太宰は、意味と儀礼の狭間で苦しんでいます。前に書いている時は、慣習という言葉を使っていた気がしますが、それこそが儀礼です。それでも、作家であるとは、意味の方に寄り添うということでもあるのだから、作家と呼ばれる人は、遠慮せずそれだけやっていればよいのです。人間関係もやろうとすると、太宰みたいなことになるのだから、そんなもの片手間にちょちょいとやって、大人しくのたれ死ねばいい。手塚のように。
 それにしても、太宰の苦しみを、いがらしみきおはなんて即物的な言葉で説明してしまうのでしょうか。
 なら、太宰はどうやったら生きながらえていたのか。それは以下のような箇所にヒントがあるかもしれません。

 我々はマルチタスクでなければいけない。なぜならば、シングルOSの場合、一度ループにはまり出すと際限もなくループしてしまうからだ。
 プログラムの世界では、こういう場合の救済手段として"ジャンプ処理"という手を使う。
 そして、ループ状態を救う最良のジャンプ処理こそ"マルチタスク"なのである。
 意味をIーIMONで処理する場合、うまくいけば我々は、幸福感と言えるものを味わえる。しかし、意味をIーIMONだけで処理しきれなくなった場合、これはほぼ確実にループ状態に陥り、絶望感というものをシコタマ味わわされることになるのだ。
 そうした場合に、その絶望感というものを、GーIMONに処理させてみてはどうか。
 絶望感をGーIMONに処理させれば、「あぁ、みっともないな。大のオトナが」という客観性が生まれるだろうし、場合によっては「ハラへったな。とにかくメシ食おう」になるかもしれない。
 はなはだしく効果が上がる場合だと、「わははははははははは」で、すべてはカタがつくだろう。ワタシはなぜこんなに楽観したことを言うのだろう。それは、GーIMONというものが、以下のごとく強力なOSだからである。


 なるほど、デカルトは言ったじゃないか。「住んでいる国・地域の法や慣習に従う」べきだと。
 慣習や儀礼に、意味を考えずに従えば、ひとまず意味からは逃れられる。
 しかし、自分で書いておきながらなんですが、これは、太宰のような一筋縄でいかない人間には適用はできないかもしれません。太宰はすでにその真摯な実践者でもあったのですから。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
(「葉」)


 これは見事なGーIMONによるジャンプ処理です。こういう自発的な思い込みの言い聞かせは、作家にとって人工呼吸器のようなものであったでしょう。
 太宰はどうあがいても作家であり、もう八方ふさがりの破れかぶれのフツカ酔いであったので、手の施しようはなさそうです。小説なんかを書いていなかったらもっと早死にしていたにちがいない。作家というのは、文科系の不良とは、かようにどうしようもないものなのです。
 と例外をさらして説得力を減退させつつ続きます。

 

晩年 (新潮文庫)

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