もしもローソン店員のステータスがすごく高い世の中だったら

 背水の陣だ。
 明日はセンタ-試験本番。絶対に失敗できない。
 我が家は両親ともにローソンの店員をしているので、平日の夕食は母さんか通いのお手伝いさんが作り置いたものをそれぞれで食べる。いつもひとりで食べているから別に気にしたことがなかったけど、なんだか今日はやけにテーブルが広い気がする。その一角にぽつんと座って自分で温めなおした肉じゃがを口に入れてはみるが、全然味がしない。ものすごく緊張しているな、と思う。
 味がしない理由は、本当はもう一つある。この一年、俺には自宅に居場所がなかった。ちょうど一年前に、自分の意志でロー大(ローソンアルバイト大学)受験をやめた俺を、母さんはどうしても許そうとしない。父さんは条件付きで認めてはくれたけど、本当のところ、俺の決断に賛成してくれているとは思えない。唯一理解してくれようとしたのは兄貴だったが、その兄貴も去年の秋に両親と大げんかして以来、あまり家に居着かなくなった。つきあっていた彼女を母さんが気に入らなかったためだ。ロー大生には、女子医大生では釣り合わないんだそうだ。普段温厚な兄貴がこれにはぶち切れた。家中がますます寒々となっていた。俺も余計に居づらくなった。だから俺たち高三は一月からは授業がなくなったのに、俺は朝から登校して学校の自習室に籠もってひたすら勉強するようにしていた。
 昨日のことだ。夢中で勉強していて気がついたら6時半で、日直の先生に注意された。急いで荷物をまとめていたら、自分のほかにもうひとり部屋にいたことに気づいた。向こうも俺を見て、ニッと笑って近づいてきた。
「よう、岩下。精が出るな。調子どうだ?」
「……お前、こんな時間まで何してんだ?」
「シースーの専門用語の勉強。何としてでも夏休み前までにお寿司検定準2級に受かりたいから」
 関口はものすごく勉強が出来る奴なのに、大学へ進学しない。高校入学後かなり早い段階から寿司職人を志望していて、昨年の夏にはもう、都内でも有数の寿司専門学校へ推薦入学を決めている。専門学校を卒業したら、寿司屋で修業をしたいんだそうで、秋以降、クラスメイトが予備校へ通うのと同じように、寿司語のレッスンに通っていた。
 何となく一緒に校門を出た。耳がちぎれそうなほど寒い。星が憎たらしいほど美しい。
「でも良かったよな。早稲田も受けられることになって。いくら親父さんとの約束だからって、東大しか受けないんじゃ、ヤバすぎるもんな」
「まあな。早稲田じゃ、とても滑り止めとは言えないけど。俺が言い出したとしたら、きっと親父は許さなかったろうな。東大に落ちたら、文学部なんかに行かせない。何年浪人してでもロー大に行かせるって言われてるんだから。兄貴が、自分の時だってちゃんと滑り止めは受けさせてくれただろうって、交渉してくれたんだ」
「東大狙う奴らのほとんどは早稲田も受けるんだから、いい練習になるさ。腕試しとしてちょうどいいだろ」
 軽い調子でこう言われたのが、なぜだかかちんと来たのだと思う。
「お前はいいよな、ぜーんぶ他人事で。ばっちり進路も決めちゃって、暢気に寿司語の勉強して、寿司作ってりゃいいんだもん。ほんと、うらやましいよ」
 我ながら、ものすごくいやみなセリフだった。関口はふと黙ってしまった。しまった、と思ったけど、どうフォローしていいかわからない。気まずい雰囲気のまま分かれ道に着いて、いたたまれなかった。俺は無言のまま、あいつに背を向けて走り出していた。
 関口はこの一年、俺の話を聞いてくれた唯一と言っていい人間だった。学校の自習室からの帰りがけに、あいつが週一回「ひとり調理実習」をしている調理実習室に立ち寄っては、あいつの試作品――寿司――の味見をしながらぽつりぽつりといろんなことを話した。俺の家庭の事情もいつの間にかしゃべってしまっていた。関口はめったに自分の意見を挟まずに、寿司屋の大将のようにひたすら俺の話を聞いてくれていた。調理室で過ごすわずかなひとときが、俺をここまで支えてくれていたんだと素直に思う。
 それなのに、何であんな口をきいてしまったんだ。後悔しても、言ってしまったものはもうどうしようもない。あいつ、怒っただろうな。もう、今までみたいに話せないだろうな。真っ暗な気持ちになる。肉じゃがは結局ほとんど喉を通らなかった。
 食べたら自分で食器を洗う。これも我が家の長年のルールだ。機械的に手を動かしていたら、急に母さんが台所に入ってきた。母さんとはこの一年あまり、本当にろくに口をきいていない。学校があった間は毎日弁当を作り続けてはくれたが、弁当包みがただ玄関の靴箱の上に置かれるだけ。俺の方もありがとうも言わないでそれを持って登校し、帰ってきたら自分で弁当箱を洗う。こんな状態がいつまで続くんだろうなとは思うけど、俺にはどうしようもない。
「明日、お弁当、おにぎりでいい?」
 不意に母さんが聞いた。固く、乾いた声だった。
「あ、ああ。三個頼む」
「シーチキンとねぎ塩カルビとチャーハンでいい? おかずは?」
「おかずはいい。にぎりめしだけで充分」
「そう」
 ものすごく久しぶりの親子の会話だ。なんでコンビニのおにぎりみたいな具なんだよと思いながら、当然口には出さない。母さんはそのまま台所を出て行きかけて、不意に振り返り、
「直樹、悪いけどね、私はやっぱりあなたのこと、応援してあげられない。おにぎりは、朝、靴箱の上にちゃんと置いとくから」
 それだけ言って出て行った。こっちの顔を見ようともしなかった。息子を二人ともどうしてもロー大に行かせて、立派なローソン店員にしたい母さんの気持ち、わからないわけじゃない。俺の文学部志望がばれてしまい、じいちゃんや茂伯父さんたちからすごく責められたことも、申し訳なく思う。でも、一年前に俺は決めた。俺はローソンのバイトになんかならない。何と言われようと、どれだけ反対されようと、俺にはやりたいことがある。今の俺にはそれを貫くことだけが重要なんだ。固く決心して一年間がんばってきたけど、やっぱり母さんに受け入れてもらえないのは、本当にものすごく痛い。いや、だめだ。今、そんなこと考えて弱気になるわけにはいかない。明日、明日なんだ。俺は自分との勝負に勝たなくちゃいけない。
 天候まで俺に辛く当たる。何と、夜半から雪が舞い、朝方にはうっすら積もり始めていた。電車が止まるとまずい。予定よりも早く家を出なければ。居間に下りていったら、いつものように朝食の支度はしてあったが、誰も起きてきていなかった。兄貴が夕べ家に帰っていたかどうかもわからない。父さんもこの頃バイトが一気に二人やめたとかで忙しくしているようだ。ちゃんと睡眠を取っておきたいんだろう。ローソンのバイトの世界だって甘くはないって、それぐらいは俺にだってわかる。でも、俺には関係ないんだ。
 何かは腹に入れておかなくちゃ、と思ったからトーストを焼いてコーヒーで流し込んだが、やっぱり味がない。砂をかんでるみたいだ。固くなるな。固くなるな俺。
 玄関の靴箱の上に、ひっそりにぎりめしの包みが置かれていた。
 ドアを開けて、一歩踏み出そうとした瞬間、全身を刺すような痛みが貫いた。ひとりぼっち。俺はひとりぼっちなんだ。誰も味方のいない戦いに、いよいよ一人で出て行かなくちゃならない。駅までの、まだ全然人通りのない道を、一歩一歩踏みしめながら歩いた。自分の白い息だけを見つめながら。
 改札を通ろうとしてふと目を上げたら、関口がそこに立っていた。寿司職人の格好をして、寒そうに長身を縮めて腕組みをしている。耳と鼻が寒さで真っ赤になっている。半袖なんだから当たり前だ。
「おっす」
 ニッと笑う。まったくいつもと変わらない笑顔だった。
「……こんなところで何してんだ、お前?」声がうまく出てこない。
「雪降って来ちゃったからな、たぶん早めに来るだろうと思って、待ってた」
「……」
「受験票持ったか? 腕時計してきたか? トイレちゃんと行ってきたか?」
「……お前、何者だ? 母親か?」
「寿司屋だ、バカ。ほら、これ渡そうと思って。持ってけよ。あ、電車来るみたいだぞ。気をつけてな」
 手袋もしていない手で小さな紙袋を俺に押し付け、奴は俺の肩を押した。電車到着を告げるアナウンスが始まっている。改札を通って振り返り、やっと言葉が出た。
「さんきゅ」
 関口は無言でうなずいた。
 入ってきた電車に乗り込んで、窓から外を見た。動き出した車窓から、線路脇に仁王立ちになっている関口が見えた。目が合った、と思ったとき、奴は両手を大きく挙げてぐるんぐるん振り回した。大口をあけて、何か言ってる。一瞬、寿司をにぎる動作。見えなくなってしまうまで、乗り出すようにして、窓の外を見続けた。
 我に返って、空いた席に座り、関口のくれた紙袋を開いてみた。思わず、口元がゆるんでしまった。あいつの「作品」の中で俺が一番気に入っていた、マグロの赤身。透き通る様に深い赤色で、切り口がきりりと立って美しく、口に入れると、しつこくない豊かな味わいが広がる、絶品だ。厚めに切った三貫の寿司は、それぞれ丁寧にラップでくるんである。思わず一つを手に取ろうとして、二つ折りにした紙切れが入っていることに気づいた。開いてみる。
『へい、お待ち!』
 走り書きで、たったこれだけ。
 関口の声が、聞こえてくるような気がした。
「シースーって、食べると元気が出てくるよな。シースーって、そういう力持ってると思う」
 シースー。……シースーか。確かにそうだ。今、このシースーを見ただけで力がわいてくるような気がした。
 ひとりぼっちだなんて思ってたけど、そうじゃなかった。
 俺、やれる。手の上のささやかな重みが、じんわりと温かく心にしみこんでいった。